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「残念、我々は実の所狐なんだ」
開口一番そう宣言された時は、流石に目の前の老人を殴ってしまおうかと思った。間一髪アノがユギをいつもの毒舌で押さえた為、その場は事なきを得たが、ユギの硬く握り締められた両の拳は、それから数十秒の間解かれる事は無かった。
「我々は狐って、それは一体どういう意味だ」
ぶすりとした表情で、ユギは先を歩く老人の背中に言葉を投げつける。どこをどう見ても怒っていた。彼は比較的常識のある方だったが、少々怒りやすいのが瑕だった。そして、何故か初対面の相手だと口より先に手が出ることが多い。そんなユギを毎度の如く止めるのはアノの仕事であり、それは彼女の数少ない心労の一つでもあった。
老人は歩くスピードを変えずに、くるりと振り返って二人を仰ぐ。妙なところで器用である。
「そのままの意味だ。この集落にすむ人間は、全て人間に化けた狐。それ以前にこの集落自体が、狐が化けている姿に過ぎない」
「という事は、本来の集落は違う所にあるという事か?」
「いや。そもそも人間の集落なんてものは、この森の中に存在しないんだよ」
「なんだそりゃ……」
ユギは首をかしげ、興味深げな顔で辺りを見回す。既に両手の握り拳は解かれていた。アノは一度、眉を顰めたユギの顔を見つめた後、彼と同じように辺りに眼をやった。
集落を囲むようにして立っている巨大な木の壁を見る限り、集落はそう大きくないようだ。辺りには十数の民家が立ち並び、小さな子供たちが、無邪気な顔でボールを蹴って遊んでいた。これが狐の化けている姿だとは思えない程に、現実味の溢れた光景だった。
と、少しの間黙っていた老人が、集落を観察する二人の様子を見ながら、ゆっくりと呟いた。
「お前たちは、運が悪い。これから、狐たちのお祭りが始まるんだ」
「お祭りだって?」
ユギが老人に眼を向ける。老人は自らの白い髭を撫でまわし、神妙に頷いた。
「≪嵌りの森≫の全ての狐が集まって行われる、一年に一度の恒例行事だ。本当は秋の暮れ頃にやる予定だったんだけど――ついこの間外からある狐が帰ってきたから、そのお祝いという事で、時期を早めることになったんだ」
「具体的に、何をするんです?」
黙って話を聞いていたアノが尋ねる。老人は先程と同じように頷いた。
「聞いて驚くなよ――≪嵌りの森≫そのものに、化けるんだ」
「……それはまた」
短く言葉を返したアノの顔には、明らかな困惑の色が浮かんでいる。流石の彼女も、話の突飛さに驚きを隠せないようだ。それきり黙ってしまったアノに代わり、今度はユギが質問をした。
「森に化ける。成程、狐ならではなんだろうが、で、何をするんだ?」
「面倒くさい人間たちだな。そんな事が聞きたいのか」老人は不愉快さを隠そうともせず、露骨に顔をゆがめた。
「あんたがお前たちは運が悪いって言ったんだろ」ユギは顔色一つ変えずに答える。「話し始めたのはあんたなんだから、そのくらい説明してくれたっていいだろう」
意味も無く堂々としているユギを見て、老人は一つため息を吐いたかと思うと、再びくるりと振り返り、前を向いてしまった。しかし一応話はしてくれるようで、老人の小さな背中越しに、至極面倒そうな声が聞こえてきた。
「森に化けると言っても、実際化けるのは一匹だけで、後の狐は全員その化けた森の中に入る。その中で、てんやわんやのお祭り騒ぎをするって訳さ」
「そんなのこの森でやればいいじゃないか」
「狐は自分たちが住む土地を汚すのをなによりも毛嫌うという事を知らないのか? その点化けた森の中は所詮偽りの物でしかないからな、何をしたって許される」
「なんだかひねくれた発想だなあ」
「我々にとって褒め言葉だよ、それは」
「別に褒めたつもりは無いけどな」
ユギは息を吐く。人間にとって不可解すぎる内容の話だったが、大体の事情は把握できた。彼自身、そういった物に対する適応能力に優れているきらいがある。アノも、理解が出来ないと言った様子の顔をしていたが、彼女は彼女で自分の中で踏ん切りをつけようとしているようだ。
やがて老人とユギたちは、先程ユギとアノが入ってきた門の正反対、つまり集落の出口となる門の前にまで歩いてきた。アノは目の前に聳え立つ門を見上げ、質問を口にする。
「あの、この門師匠の頭の形に似てますよね」
「そうそう、偶然にしては出来すぎた一致――っておい」
ユギ師匠、意味の無いノリ突っ込みだった。
そんな二人の漫才を全て無視し、老人はゆっくりと左手を上げ、門を指差す。ユギとアノの視線も自然とその指が指し示す方向にいく。
それから数秒遅れて、巨大な門が土埃を巻き上げながら開き始めた。門の先に、集落に入ってくる前と変わらない≪嵌りの森≫の肥沃な森林が見える。ユギは首をかしげ、黙ったままの老人に声をかけた。
「どういうつもりだ。帰してくれるのか?」
老人は表情を変えず、その細長い眼だけでユギの姿を捉えた。
「ああ、勿論。運が悪いというのは、君たちが祭りに参加しても面白くないという意味だ。文化も趣も異なるだろうしな。さあ、早く行くがいい」
行け、と言われても、すぐに行動するのは難しい。何の気無しにアノに眼をやると、彼女もまたユギを見つめていた。あまり事態をよろしく思っていない様子である。早く出た方がいい、そのような事を言っているのだろう。
ユギは一つ頷き、改めて老人と向き合った。
「それじゃあ、お言葉に甘えて。俺たちは失礼するよ。邪魔してすまなかった」
「なに、気にするようなことでもない。気をつけてな」
「そちらこそ、お祭りを楽しんでくれ」
ユギはぎこちなく微笑み、老人と握手を交わす。乾燥した、小さな手だった。その、狐が人間に化けた物の感触を忘れないように念じながら、ユギはアノと共に、大きな門をくぐり集落の外へ出た。
少し歩くと、後方で門が閉じる音が聞こえてきた。振り返り見ると、閉じていく門の中に先程の老人が見えた。ユギはぶんぶんと手を振る。
「――そう言えば、二人とも」
不意に、老人はにたりと嫌らしい笑みを浮かべた。
「もし、今までの話が全て過去の話だったとしたら、どうする?」
え、とユギの振られていた手がぴたりと止まり、そして、集落の門が完全に閉まった。
狐は普段狐本来の姿であることはありません。その方が人間に狙われる可能性も低くなりますし、幼い狐にとっては化けの練習にもなるからです。彼らは一概に頭が良く回りますが、教養知識の面においては、個々で激しく差があります。