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煩い煩いと感じて眼を覚ますと、案の定蝉の鳴き声が原因だった。朝早くからご苦労様と寝惚けた頭で呟き、ユギはベッドから這うようにして脱出した。
先日アノが座っていた椅子に腰掛け、閉められた大きな窓の鍵を外す。窓を開くと、夏の朝の爽やかな空気が、密封されていた部屋の中に入り込んできた。
外の光が眼に痛い。まだ太陽は傾き気味に空に浮かんでいる。窓からリテネの景色を見渡しても、外を出歩いている人間はほとんどいなかった。頭が冴えてくるまでの時間、外の景色を十分に堪能した後、少し散歩してみようと思い、ユギは部屋の中に身体を戻した。
アノはまだ眠っている――ように見えたが、なんだか布団の中でもぞもぞと蠢いている。彼女は寝相の悪いほうではない。不思議に思い声をかけると、ゆっくりと布団がめくられ、中からアノが顔を出した。その顔がなんだか悲痛さを漂わせる表情をしており、自然とユギは身体が強張るのを感じた。
慌てて、傍に寄る。
「どうかしたのか」
「足を吊りました」
ユギが散歩を終え部屋に戻ってくると、どうやら足も回復したらしいアノが、窓際の椅子に座り外の様子を眺めていた。時間を確認すると、午前九時を少し過ぎたところだった。
と、部屋に入ってきた人の気配に気付き、アノが顔を向けてきた。それがユギであることを確認し、彼女は身体を部屋の中に向け椅子に座りなおした。
「おかえりなさい、師匠」
「ただいま」
「賢者の石は見つかりましたか?」
「うん」
適当に冗談を返し、ユギは即座に話を切り替える。
「で、どうする? もう出ても大丈夫か?」
「はい、私は大丈夫ですよ」
「そうか。それじゃあ、行こう」
ユギの言葉にアノは一つ頷き、椅子から立ち上がった。ユギもアノも、ズボンの右ポケットに入った財布以外、特にといって荷物は無い。早朝強引に出てきたままのベッドをなんとか元の状態に直してから、ユギはアノをつれ宿屋の一室を去った。
宿屋のフロントで会計を済ましてから、外に出ると、アノは宿屋の隣にあるお土産屋の中にいた。相変わらず自由行動が好きな少女である。好奇心がやたら旺盛な所だけは、年相応というべきか。かくいうユギも、その内にひめたる探究心の塊は、中々どうして大きな物なのだが。
「何を見てるんだ?」
「藁人形です」
「呼吸をするように嘘をつくんだなお前は」
何かに熱心に視線を注いでいるアノに近寄ってみると、彼女はどうやら小さな万華鏡に心を奪われているようだった。数十もある飾りつけのなされた筒を一つずつ手にとっては、まさしく万華鏡よろしく眼をキラキラさせて、その筒の中身をのぞきこんでいる。まるで乙女のようである。常に何事にも冷淡な感想しか抱かないアノが、このように一つの物に深い興味を寄せるのは、中々珍しいことではあった。
「師匠、これ、ほしいです」
予想通り、アノは数分の吟味の末にそんな事を言ってきた。
ユギは暫く考えてから、ふっとため息を吐き、彼女が手に持っている黄色の装飾がされた筒を受け取り、お土産屋のレジへと持っていった。
「いい買い物をしました。師匠、これはポイント高いですよ」
「なんのポイントだよ」
「尊敬ポイント」
「お前実は俺の事を師匠として見てないだろ」
「嫌ですねえ、冗談は顔だけにしてくださいよ」
「……それ、口で言うんならいいんじゃないか?」
リテネを出て数十分が経つ。まだ太陽も昇りきっておらず、これからが暑くなる時間だろう。遥か遠くに森の入り口が見えるが、そこまで辿り着くのには、まだ暫くの時間を要しそうだった。
辺りには相も変わらず何も無く、不恰好な街道がゆるやかに続くだけである。雲一つ無い青空を仰ぐと、黒いシルエットの鳥が一匹、優雅に大空を飛んでいた。
「それはそうと、師匠」
「どうかしたか」
「次は何処に向かうつもりなんですか?」
「いや決めてない」
「計画は計画的に、ですよ」
「お前にだけは言われたくないなあ」
前方に口を開く大きな森の中は、もうリテネとは違う国の領土だ。まだガンアから旅立って数日も経過していないが、これで早くも三つ目の国という事になる。創造主が何処にいるかは見当もつかなかったが、大凡世界の果てのような場所にいるに違いない。北に大空洞、南に時間の裂け目、である。
一先ず現在位置の確認が先決である。アノが常備している地図を貸してもらい、巻物を読むような要領で横に広げた。
隣から、アノが顔をのぞかせる。
「今歩いてる所が、リテネから≪嵌りの森≫に続く街道の中。で、≪嵌りの森≫に入った直後から、ヒルレイの領土ね……この国はどうやらリテネと比べて大きいみたいだ。とりあえず、このリスポールとか言う街に行ってみようか」
「なんだかギターみたいな名前の街ですね」
「それはレスポールな」
地図を丸め、アノに返す。アノは基本自分の意見を示すという事をしないので、ユギの意見は毎回提案と同時にほぼ可決されたようなものである。例外もあるが、その反応の大抵がどうでもいい事柄に対してだった。
ユギは眼を伏せ、静かに想像する。
「アノ」
「はい」
「もし、俺が、本気で世界を滅ぼそうとしてるなら、お前はどうしたい?」
「質問の意味が分かりません」
「俺が創造主を殺すことになっても、お前はそれを止めずに見てるのか」
その言葉に、アノは自身の柳眉を逆八の字の形に寄せ、うーんと唸り声を上げた。それから、彼女にしては珍しく控えめな口調で、返事の言葉を口にした。
「多分、師匠じゃ創造主さんは殺せないと思います」
「俺がか?」予想の斜め上をいく返答に、ユギは思わず吹き出した。「まあ、そりゃ自分がそこまで残忍な人間だとは思ってないけどさあ」
ユギは冗談を口にするように、穏やかな口調でそう言った。しかし、アノの表情は硬いまま変わらない。
「そういう事じゃないんですよ。師匠が最後の最後で創造主さんを殺すのを躊躇うか躊躇わないかの問題の以前に、きっと、殺す段階まで追い詰めることは出来ないと思うんです」
「ふうん……確かに、創造主だけあるんだから、それなりの力は持ってるんだろうね」
「精神的にも強いと思いますよ」
「精神的」
アノの言葉を反復する。それは、精神的な攻撃に耐えうる強さ、という意味ではない。
「創造主さんは、きっとなんらかの理由があって、この世界を作ったんだと思います。だからそれと対を成すように、この世界を滅ぼす理由が無いと駄目なんです。プラスマイナスがゼロになるように」
「世界を滅ぼす理由かあ」
ガンアにそう命じられたから?
それは理由になっていなかった。
「まあ、そういう理由で、まだ師匠は創造主さんを殺せないんじゃないかなって。幸いまだ時間はありますし、この旅で一つでも多く何か理由になりえる物を得られたらいいですね」
「……まるでお前が俺の師匠のようだな」
「過ぎた言葉だとは分かっていますよ。でも、どうしても言っておきたかったんです」
アノはそう言ってから、一度立ち止まり、その場で頭を深く下げた。彼女なりの謝罪のつもりらしい。
確かに、今の言葉の数々は決して弟子が師匠に向けるような物では無かったが、師匠であるユギの考えを大きく揺さぶったのも事実だった。
彼自身、何も考えていない訳ではなかった。どうして自分が勇者に選ばれたのか、どうしてガンアは世界を滅ぼそうとしているのか。しかし、どんな理由があったにしても、ユギは――自分の身体能力が異常に発達している事を知ってから――、自分は特に何の苦労も無く、創造主を殺すことが出来るだろうと考えていた。
今の彼に、理由と呼べるものは何も無い。ガンアからの命令も、ガンアが勝手に取り決めたことで、それは決してユギが自ら選択した道ではなかった。
この旅の中で、自分自身が決めた、世界を滅ぼす理由を探しだす――それが、アノがユギに言いたかった事である。
ユギは静かに息を吐き、頭を下げたままのアノに言葉をかける。
「お前の言いたい事は分かった。善処するよ」
「はい。私は、師匠がどう動こうが、師匠についていきますから」
「頼りにしてるよ」
「それは止めてください」
「嘘に決まってるだろ」
冗談を交わし、再び二人は肩を並べて歩き始める。彼らの旅は長い。辺りに木々が無くとも、耳に焼きついた蝉の音が、空から鳴り響いてくるようだった。
短いですが、一章終わりです。次回からはもう少し長くなります。
ガンアは多くの魔物を従えていますが、この世界に野生の魔物はほとんど存在しません。それは魔物自体の生命力が著しく低い為です。常に誰かの手によって管理されない限り、一週間と立たずにその肉体は死滅してしまいます。