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蝉が騒々しく鳴いていた。リテネの夏は暑い。近年温暖化の傾向にあると言われるこの星だったが、事実そこまで外温の変動は無いらしい。しかしこれは旅の吟遊詩人が歌に乗せて語っているだけなので、そう信憑性があるのかどうかも曖昧な所だ。
その日の夕刻、ユギとアノは、必死の思いで草原の街リテネへと到達した。到着直後、文字通りユギはゾンビのように新鮮な水を求めて声にならぬ呻きをもらしていて、その凄惨たる姿は、いかにこの道程が過酷であったかを切実に物語っていた。
それから、親切なご夫婦に水分を補給させてもらった後、ユギとアノはリテネの一角に建つ小さな宿屋に入った。アノは最初ユギと別の部屋を要望したが、金銭面に余裕が無いことは彼女も把握しており、数分のユギの説得の末、同じ部屋で睡眠を取る事を承諾した。
部屋はそこそこ広く、ゆっくりとくつろげる程度の空間は確保されていた。二つ並んだベッドも、小さいながらしっかりと作られている。ユギはベッドにかけられたシーツの上に腰を落とし、深くため息を吐いた。
「お疲れのようですね」
アノが声をかけてくる。眼を向けると、彼女は依然白衣を身に纏ったまま、ベッド脇に置かれている椅子に腰掛けていた。彼女の背後には大きな窓があり、そこからリテネの外観を一望できるようだった。
「まあ、そりゃね」ユギは再び眼を落とし、言葉を返す。「こんなへんちくりんな弟子がいれば、疲れるさ」
「失礼ですね。私はこれでも精一杯生きてるんです」
「ふうん。そういう風には見えないけど」
「そりゃいつも全力で手を抜いてますから」
「お前少しは自分の発言に責任を持てよ」
そう突っ込みながら、ユギは脳内で自身の発言を顧みる。自分が正直な人間だとは考えていないが、それでもそれなりに真面目に生きているつもりである。こんな大変な事に巻き込まれてしまっていても、彼は元来の性格のせいで、全てを投げ出すつもりにはなれなかった。ただ一つ誤算だったのは、最終的にアノを巻き込む形になってしまったことだ。これは彼女自身が望んだことだから、仕方の無いことなのかもしれないけれど。
そんな事を考え込むユギの様子を眺めていたアノは、やがて、神妙な顔つきで言葉を発した。
「師匠、一つ聞きたいことがあります」
「うん?」
ユギは顔を上げる。そしてその顔が、アノの表情を見るなり、げんなりとしたものに一変した。アノが神妙な顔をしていると、大抵意味の分からない話題を振ってくる。これは、彼自身アノと接していて学んだことの一つである。
しかし彼の予想に反し、神妙な顔をしたアノが口にしたその疑問は、珍しくまともな内容であった。
「どうして、ガンアの国王さんは、師匠を勇者に任命したんでしょう」
「何故って……」
ユギは当然返答に詰まった。それはアノが真面目な話を持ちかけてきたことに動揺しているのもあったが、それ以前に、ユギはその疑問に対し答えるべき言葉を知らなかった為だ。
ガンアは、ユギを勇者と任命し、魔王を倒す旅を開始させた国である。大量の魔物を従え、国政国内情勢共に一切不明とされている事から、近隣の国につけられた異名は「魔国」。
数十の国が林立する現在の世界情勢において、唯一孤立している国と言っても過言ではない。
彼らが魔王と呼称し、敵対する者――それは、この世界を創ったと言われる者。「創造者」という物々しい肩書きと共に、世界を管理する存在である。
創造主が何処にいるのかを、ユギは教えてもらえなかった。彼がガンア国王から告げられたのは、ただ、勇者となって魔王を殺せという言葉のみ。
そうすれば、世界は滅びる。
「勇者が魔王を倒す、それは分かりますよ。在り来たりなお話ですから。でも、どうして師匠が」
「ガンアの人が言ってたけど」
ユギはアノから眼を逸らし、ごろんとベッドの上に寝転がった。
「どうにも、俺にはとんでもない力が備わってるらしくて。まあ実際それは本当の話で、城にいた時、ためしに二階の部屋から飛び降りてみたんだけど」
「馬鹿ですか」
「うるせえ」
茶化すな、とユギは静かにため息を吐く。
「飛び降りても、怪我一つしなかった。というか着地した地面が軽くひび割れてたよ。……まあ、そのくらいの身体能力を、手に入れちまったみたいだ」
「手に入れちまった」
「ああうん、それはこっちの話」
耳聡いアノの言葉に、ユギは曖昧に茶を濁した。それから取り繕うように「それよりも」と話を切り替える。
「結局のところ、俺はどうして勇者にされたのかは分からない。この身体能力だけが理由かもしれないけどね。まあどうであれ、止めるつもりはないぞ」
「それは――この世界を滅ぼすという意味ですか」
「うん。創造主を倒せば世界が滅びるっていう原理は、いまいちよく分からないけどね」
「確かに、変なお話ですね」
「創造主が実は機械とかなら、まだ分かるけど――まあ、それはともかく」
ごほん、とユギは寝転がったまま咳を吐いた。
「アノ、記憶の調子は、どうなんだ?」
その言葉の意味は、つまりそのまま、アノの記憶を指す。彼女は、ユギの弟子になる少し前から記憶喪失になってしまっていた。言語知識、教養の類は残っていたが、彼女が今までどのように生活しどのような人生を送ってきたか、その全ての記憶を失くしている。
それはこの長い旅においてはあまり関係の無いことだったが、流石に旅を終えるまでに記憶を取り戻してもらわないと、ユギにとって困ることもいくつかある。
ユギの言葉に、アノは少し沈黙を挟んだ後、答えた。
「いえ。まだ、全然です」
「そうか」
ユギが考えていた通りの返答だった。そもそも、こんな何のきっかけも無さそうな所で記憶を取り戻そう物なら、肩透かしとは言えないけれど、ユギはおろかアノ自身も、複雑な心境になったに違いない。
やがて、ユギは大きく欠伸をし、布団の中にもぐりこんだ。アノがその様子を眺め、声をかけてくる。
「もう眠るんですか?」
「うん。流石の身体能力でも、数時間の使役には耐えられないようだ」
「意外と雑魚っちいんですね」
「今に見てろよ弟子風情が」
その言葉を最後に、ユギは深く暗い眠りの底に、意識を沈めていった。
残されたアノは、暫くユギの眠る姿を観察した後、彼の隣のベッドで眠りについた。
リテネを中心とする草原の国の特産業は、草原焼き物と呼ばれる硝子細工。
緑色の装飾が美しく、その筋の商人の間では一時期とても流行していました。
しかし近年世界的に硝子材料の不足が危ぶまれ、急激に硝子の値段が跳ね上がりました。それに応じてリテネの産業も収縮し、今では草原焼き物を売る商人はごく僅かにしか残っていません。