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翌日。リスポール滞在三日目の朝。
聖歌の練習をしに教会へと出かけていったアノを見送った後、ユギとセキコは湖の向こうに存在する小屋へと向かう為、リスポールを出た。
天候は案の定快晴。ここまで来たら聖歌祭本番である明日まで晴れていてほしいと願うばかりである。また、昨日の夜から引き続き、風が強い一日だった。
風が吹き抜ける草原を歩きながら、二人は雑談を交わす。
「こんな朝からお邪魔して大丈夫なんだろうか」
「ん、あいつ三日は寝ないでいるから平気だろ」
「生活のリズム狂ってないかそれ」
「私は昔一週間寝ないままでいられたぜ。おかげで眼は真っ赤顔も真っ赤で文字通り赤狐になっちまってな。あれは辛かった」
「寝ろよ」
大きな湖を回り込むようにして数分。ユギから見て左斜め上の方向に、煙突からぽうぽうと煙を昇らせた小屋が見えてきた。あれがセキコの友人が住んでいるという家のようだ。あんな場所に一人で住んでいて、不便ではないのだろうか。食料はどうしているのだろう。色々と尋ねてみたい事は多かったが、突っ込んではいけないような雰囲気を漂わせている。一言でまとめれば、酷く現実離れしている光景だった。
「ちなみにだが、友人の名前はシルルな」
「そうか。どんな人なんだ?」
「気まぐれ」
「ひねくれてるんだっけか」
「厄介な具合にな」
セキコは腕を組み、難しい顔をして言う。
「私は付き合い長いし大丈夫だろうが、てめぇは少し気合入れてかないとやばいぞ」
「……昨日も思ったんだが、なんかお前勘違いしてないか?」
「私が間違えたことなんて一度でもあったか」
「お前の中では無かったんだろうな。俺はそのシルルって人を聖歌隊につれて行きたいだけなんだぞ」
「知ってるよ。その上で注意しろっつってんだ」
馬鹿にするようにセキコは笑い、ユギを見た。細長の瞳が、刀身のように鋭くなっていく。
「あいつはそういう奴なんだ」
「……つまるところ、こちらの要求に応じてくれるのは、なんらかの条件を満たしてからって訳か」
「さっきからそう言ってるだろうが」
ユギは肩を落とし、今頃聖歌の練習に励んでいるであろうラットとアノを恨んだ。何処に行っても面倒事は待っている。本当に勇者になってしまったような気分だ。
「なにしょげてんだよ、この天下のセキコ様がいるだろうが。泥船に乗った気分でいろって」
「沈んでどうすんだよ」
まるでフォローになっていないセキコの言葉を一蹴し、ユギは深くため息を吐いた。
それから数分と経たずに、二人は小屋の前までやってきた。木造の小さな壁の向こうからは、なにやら焦げてくすんでしまったような匂いがした。不定期に吹く風がその匂いをまとめて吹き飛ばしていくが、また暫くすると同じ匂いが漂ってくる。セキコが一歩前に出て、小屋の扉を荒々しく叩くと、小屋の中から若い女性の声がした。
「セールスはお断りだよー」
そこだけやたらと現実的だった。
「私だ。セキコだ」
セキコは声を張り上げ、そう言った。直後、小屋の中からの声からとげとげしさが消え、代わりに訝しむような声色に変化した。
「え、セキコ? 今日も来たの?」
「ちょっと用事があってなー。昨日話をした人間も来てるんだぜ」
「ああ、そうなの。今開けるから、少し待ってね」
セキコが一歩後ろに下がってから暫くして、小屋の扉が開かれ中から白いフードを被った女性が顔を出した。耳の後ろから垂れた髪は、陶器のような白銀色に染まっている。眉が長く、眼が細い。猫のような顔をした女性だった。
彼女はセキコの姿を確認した後、その隣に立つユギを見て、興味深げに眼を輝かせた。
「本当だあ、人間ね! なんか歪な感じがするけど、元々は真っ当な人間のようねえ」
楽しげに声を張り上げる女性に、ユギは一つ礼をした。
「どうも、初めまして。ユギと言います」
「話は聞いてるよ。エルトアの庭を目指してるんでしょ? 勇者くん」
「あなたもエルトアの庭の事を知ってるんですか」
「そりゃ当たり前じゃない。常識でしょ、常識」
こんな隠者的生活をしてる人に言われていいような台詞では無かった。
ユギが肩をすくめていると、セキコが無言で女性の横を通り小屋の中へと入っていった。数歩歩いたところで振り返り、ひははと笑う。
「立ち話もあれだ。中に入って話そうぜ」
「あら、そうね。でもそれはあたしの台詞だと思うんだけど」
「この家を建てたのは誰なんだ? あん? 言ってみろ!」
「あたしでしょ」
女性はやれやれと言いたげに苦笑し、ユギに眼を向けた。
「あんなのと一緒に旅をして、疲れない?」
「元から疲れる事ばかりですから」
「気丈なんだね」
女性は微笑みを浮かべ、手招きをしながら小屋の中へ戻っていった。
また凄そうな人だなあと考えながら、ユギは女性の後に続いた。
小屋の内装は至ってシンプルであり、セキコの話からユギが考えていたような個性の色は見られなかった。ただ、部屋の片隅には古びた階段があり、小屋の外で嗅いだ焦げるような匂いは、その奥から漂ってきているのだと分かった。
さてと、と女性が手を叩き、被っていた白いフードを外した。白銀色の髪の間から、セキコと同じベージュ色の耳がのぞいていた。
「あたしの名前はシルル。セキコから聞いてるかしら」
「まあ、一応」
「良かった。スムーズに話が進むものね」
「私に感謝してほしいものだな」
「あんたさっきから凄い小物臭がするわよ」
「そういうてめぇは酷く鉄臭いぞ」
「そりゃあ鏡を作ってたんだもの」
ふん、とセキコは鼻で笑い、そっぽを向いた。なんだか機嫌が悪そうだったが、今その事を口にするのは躊躇われた。ユギは眼をセキコからシルルに移し、口を開く。
「今日はちょっとした頼みがあって、来たんですけど」
「頼みごと? 鏡でも作ってもらいたいの?」
「いえ、そうじゃなくて」
聖歌祭に来てほしいと言う旨を簡単に伝えると、シルルは少し困ったような表情をして、小首を傾げた。ふさふさの耳はしなびたように垂れ下がっていた。
「面倒くさいな。たかだか普通の人間の為に湖を渡るだなんて」
「てめぇユギだって普通の人間だぞ」
「あんたその普通の人間に負けたの?」
「だからそれはユギの反則負けだっつってんだろ」
眉を吊り上げて反論するセキコに、シルルはまあまあと言うように手を前に出した。なんだかとても手馴れた動作だった。
ユギは一歩前に出て、シルルに交渉を申し出た。
「あなたが、なんらかの条件を満たさなければこちらの要求に応じてくれないのは分かっています。可能な範囲であれば出来る限り実行する覚悟も、こちらにはあります」
「ふうん。分かってるのね」
シルルはニヤリと、怪しげに口元をゆるませる。そして、右手の人差し指を上に向け、くいくいと左右に振った。
「じゃあ、こうしましょ。今から二人に、あたしの新作兵器の実戦テストをしてもらうわ」
「兵器?」
「もし二人があたしの兵器に勝てたら、あたしはあなたたちに従ってリスポールの聖歌祭に行ってあげる。勿論負けたら何もなし。どうする?」
「二人って、私も参加しろってのか」
非難の声をあげるセキコに、シルルは口を尖らせて言う。
「当たり前じゃないの。あんたもユギと同じ意見なんでしょ?」
「決してそういう訳じゃないがな……全く、仕方ねぇな」
面倒くさそうに頭を振り、セキコはおもむろにユギの服をつかんで引っ張り始めた。うお、とユギは驚きの声をあげ、即座にセキコの腕を跳ね除けた。
「何をするんだ!」
「何って、テストだろ」
「そんな事は分かってる。……けど、兵器って一体」
「兵器は兵器。鏡のな」
「……鏡?」
ユギは眉を顰める。それがどういう意味かを尋ねるより先に、シルルが答えを急かすように言う。
「で、どうするの? 本当にテストを受けるの?」
「受けます! でも、その兵器ってのは」
「それはお楽しみよぉ」
実戦にお楽しみも何もあるのだろうか。そんなユギの心中もいざ知らず、シルルは彼に向かってウィンクをすると、焦げた匂いが漂ってくる階段へと向かっていった。セキコが何も言わずにその後ろにつき、ユギも二人にならうようにして、階段を降り始めた。
階段はどうやら小屋の地下に続いているようだった。崩れないように頑丈な木で補強された壁に手をつき、天井の低い道を降り続ける。人一人分のスペースも確保されていないような狭い通路を照らすのは、天井にぶら下がった小さなランタンだけだった。前を歩く二人の顔は窺えず、とてもじゃないが雑談が出来る雰囲気ではない。どうしてこんな事になっているのかと、改めてユギは絶望を感じた。
やがて階段を降り終えると、急に広い空間に出た。鍛冶に必要な品がいくつも置かれており、まるで工房のような部屋だった。壁には物々しい岩石が露出しており、それに覆い被さるように、シルルが作ったのであろう鏡が並んでいる。中には全面鏡で出来上がった甲冑のような物もあり、シルルの並大抵ではない腕を窺うことが出来た。
「随分と物珍しげに眺めてんな」
不意に前から声をかけられ、ユギはそちらに眼を向けた。声をかけてきたセキコはひははと笑いながら、壁にかけられた鏡――その中にある、巨大な鏡甲冑――を指指した。
「私たちがやりあうのはあれな。鏡装甲。格好よく言えばミラージュナイト」
「勝てる気がしないんだが」
「ちょっとセキコ。ネタバレしてどうすんのよ」
振り返ったシルルが、白い手を伸ばし勢いよくセキコの頭をはたいた。セキコはなんてこと無さそうに体勢を立て直し、シルルと向かい合う。
「別にいいじゃねぇか。どうせ私も戦わなきゃいけない訳だし」
「それとこれとは別でしょう。あたしはユギ君を驚かしたかったんだから」
「フェアな戦いにしたいんですけど」
「と、意味不明の供述をしており」
「捜査は今後難航していく見通しです」
「帰っていいかな」
やがて、部屋の隅にまで辿り着いた。壁には大きな門が立っており、その扉は硬く閉められたままだ。シルルが門の前で立ち止まり、なにやら扉を開ける作業に没頭している内に、ユギはセキコから可能な限りの情報を引き出しておくことにした。
「相手は鏡な訳か」
「鏡って言ったらあれだな。金属体」
「殴ったら痛そうだな」
「てめぇ痛覚とかあんの?」
「俺は人間なんだが」
「私は狐だぞ」
「知ってるよ。なんでそんな誇らしげなんだよ」
テンションのおかしなセキコとは、まともな会話が出来そうに無かった。どうしてこう肝心な時に役に立ってくれないのだろうか。
「ようし。開いたよ。この中が、テスト会場ね」
楽しそうなシルルの声と同時に、前方の門がゆっくりと開いた。扉の向こうから冷たい風が流れ込み、ユギの髪を弄んでいく。まるで地獄のようだ。頭を抱えたい衝動と戦いながら、ユギは戦いの舞台へと、一歩ずつ近付いて行く。
「ようこそ、あたしの世界に」
そう言ったシルルの顔は、閉じていく門のせいで、確認することは出来なかった。
一様に鏡と言っても種類があり、人外の力を持つシルルの作り出す鏡は、極めて特殊な物が多いです。
彼女は自ら作り出した鏡の兵隊を兵器と呼んでいますが、実際作っている理由は趣味以外の何物でもありません。