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この街は音楽の街だという。
湖の教会で、アノが聖歌隊の適正テストを受けている間、ユギはセキコからそんな話を聞いた。
ヒルレイの民は芸術を愛する人種だ。元々、全ての芸術の起源はヒルレイの地にあるだとか。セキコの饒舌から語られる芸術誕生の逸話は眉唾物だったが、その真偽を抜きにしても、彼女の知識量は並大抵の人間のそれではなかった。彼女の数少ない長所の一つだろう。
テスト開始からきっかり三十分後。教会の奥からアノと、白いドレスを纏った妙齢のシスターが姿を現した。
「お待たせしました」
静謐な泉を連想させるような、清楚な声でシスターは話す。常に微笑を湛えるその姿は、どこかアノと似通っていた。
「アノ様の適正テストの結果……アノ様には素晴らしい素質があることが分かりました」
「あ、そうですか」ユギは安堵のため息を吐く。心配していた訳では無かったが、それでも無事の知らせを聞くのは何よりも嬉しい。横目でアノを見ると、彼女は至って余裕げな表情を浮かべていて、少しだけ興ざめした。
長椅子に座ったままのセキコが、だらしなく身体を横たえながらシスターに話しかける。
「聖歌祭はいつからなんだ?」
「明後日です。もう時間はほとんど残ってないと考えていいでしょうね」
「明後日? 随分唐突なんだな」
「貼り紙自体は、二週間前ほどから貼っておいたんですよ? でも全然人がいらっしゃらなくて……今回アノ様が来て下さって、とても助かりました」
そう言って、シスターは隣のアノに眼を向ける。アノは一つ頷き、胸の前で手を合わせた。
「私も、一度やってみたいと思っていた事なので」
「はん。まあ心配は要らないようだな」両手で勢いをつけ、セキコは上半身を起こす。「そんじゃ、私たちは失礼するか。行くぞユギ」
「ああ、そうだな。アノ、まあ、頑張ってくれ」
ユギはシスターに頭を下げ、それからアノに声をかける。アノは何も言わずに、微笑みを浮かべた。
「二日後を楽しみにしていてくださいね」
「はい。では、俺たちはこれで」
シスターと挨拶を交し、ユギとセキコは教会を後にした。
「男と女の逢引ってさ」
「うん」
「俗に言うとさ」
「お前狐だよな」
「てめぇ本当につまらない奴だな」
飛来するセキコの手腕を避け、ユギはふんと息を吐く。
「当たったらどうする」
「処理する」
「何を」
「お前の毛」
「毛!?」
二人は、ホテルへと戻る道をゆっくりと歩いていた。左を向けば湖と、その浅瀬で水遊びをする子供たちが見える。彼らの騒ぐ声がバックとなり、辺りには長閑な雰囲気が漂っていた。
セキコが両腕を頭に回し、自らの後頭部に載せた。それから、彼女には似つかわしくない神妙な顔で、隣に居るユギを仰いだ。
「あー。んにしても、世界は平和だなあ」
「いきなりなんだよ」
「こういう場所に来るとよ。別にエルトアの庭で仕事してた意味なんて、ほとんど無かったんじゃねーかって思うのよ」
ユギは一度怪訝そうな顔でセキコを見たが、結局何も言わなかった。欠伸をして、セキコが言葉を続ける。
「勿論エルトアの庭は必要なんだぜ? アイリアがいなければこの世界は滅ぶからな」
「その部分なんだけど」
「あん? 何処だ? 私が可憐で最強ってとこか?」
「言ってねぇだろそんなの」
アイリアがいなければ世界は滅ぶって部分だ、とユギが説明を入れると、セキコはいかにも面倒くさげな顔をしてユギを見つめた。
「なにてめぇ、そんなの気になんの? どこまでマニアックなの? 全世界小説に段落付け選手権優勝者の私より無いわ」
「お前はもう消滅していい」
「ちなみに私の写真集の段落は300な」
「聞いてねぇよ! というか随分多いな!」
「そりゃ小説だから」
「写真集じゃないのかよ」
「誰が写真集なんて言ったんだよ! 馬鹿かてめぇは!」
「ああもう分かったからその口を閉ざして黙れ」
そして願わくば窒息しろ。
ユギは絶望のため息を吐き、心を落ち着かせる為に何度か深呼吸を繰り返した。セキコは何事も無かったかのように眠たげな顔をして、浅瀬で遊ぶ子供たちを眺めている。
それから、さてと前置きを入れて。
「話を戻す。結局、アイリアが死ぬと世界は滅ぶって言うのは本当なのか」
「……まあ、本当らしいけどなァ」
返事をしたセキコの口調は、どこかもどかしかった。言うのを躊躇っている様な印象。構わずに、ユギは質問を重ねる。
「らしい、って言うのは、やっぱり正確にはわからないのか」
「そりゃアイリアはまだ死んでないからな。でも、本人が言ってたんだからそうなんじゃねぇの」
「曖昧だなあ」
「私に言うんじゃねぇ。ああ、そうだユギ」
ん、とユギはセキコを見る。湖を見つめて彼女は、頭にやっていた手を下ろしながら、やがてユギに眼を向けた。
「私、これから単独行動するから。夕方には戻る」
「そうか。でも何処へ?」
「湖の向こう」くい、とセキコは湖を顎でしゃくった。「あっちに小さな家が建ってるんだが、そこに友人が住んでてな」
「ふうん……狐なのか?」
ユギは彼女が指し示した湖の先を見つめながら、呟く。セキコはそれに肯定した後、楽しげに眼を細めた。
「ずっと昔から、あの家の中に篭っててな。自称、発明家」
「ありがちだな」
「作ってるのは鏡だけどな」
「鏡?」ユギはセキコの言葉を反復する。セキコは一つ頷き、解説口調で言葉を続けた。
「小さい頃から鏡が大好きでなあ。昔は東方のエルディオって国に住んでたんだが、その国は鏡が邪悪を映し出す禍々しい器だと考えててな。泣く泣くあいつは、鏡に対してなんの規制もしていないこっちの国に移って来た訳だ」
「へえ……規制されてるってのに、よく鏡を好きになれたもんだ」
「そりゃ私が定期的に差し入れしてたし」
「お前は本当に消滅していい」
ユギはため息を吐く。セキコはひははと、いつものように口元を歪めて笑った。
ぱん、と両手を打ち、セキコがユギの前に躍り出たのはその時だった。
「そんじゃ、私は行くぜ」
「ああ。いってらっしゃい」
言いながら、ユギは辺りを見回す。まだホテルは見えない。そんなに教会から離れてなかったはずなのだが。
そんなユギを前に、セキコは一度眉をあげた後、湖の方に身体を向けた。
そして、息を吸い込んだかと思うと――湖に向かって、身を投げた。
「……馬鹿か」
呻くようにして発せられたユギの言葉は、やがて訪れた水飛沫の音にかき消された。
少しして、ゆるく波打つ水面から、セキコの身体が勢いよく浮かび上がってきた。しかし、その痩躯は明らかに今まで眼にしてきた彼女の物ではなく、まさしく魚のそれであった。
セキコは特にユギを見上げる事も無く、そのまま湖の中を泳いでいく。顔をあげ、彼女が進む方向に眼をやっても、湖の先には何も見えなかった。
暫くセキコの優雅な遠泳姿を眺めてから、ユギは肩をすくめて眼を地上へと戻す。弓なりに続く道の先に、ホテルの姿は見えない。一体何が起こっているのか。その答えは明白であった。
ユギは苛立ちに顔をしかめながら、後ろを向く。
数十メートルの距離をおき、そこに、真っ白なホテルが建っていた。
「……これは、無いなあ」
自分の不注意なのか、もしくはセキコが話し上手なのか。どちらでも良かったが、今のユギのとってはただ虚しいだけである。
子供たちの騒ぎ声を聞きながら、ユギはとぼとぼとホテルへの道を歩いていった。
会話は踊る、されど進まず。
今回の設定話はお休みです。なんだか世界設定というよりかは、その回の補足といった感じになってますね。まあそれはそれで。