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≪嵌りの森≫での騒動後、日を空けずにリスポールまでやってきた為――その日は結局、三人とも宿屋の部屋の中で休息をとることにした。
「私はいつでも歩けるけどな」
「私はいつでも歩けますけど」
「お前ら嘘が大好きだよなあ」
紅色のベールがかかったように、空にはのっぺりとした夕焼けが広がっていた。少しずつやってくる夜の影に、遥か遠くに見える山脈がよく映えている。湖の青い水面は、穏やかに波打ち、音を立てた。
室内では、セキコとアノが、それぞれ別の本を読んで暇を潰していた。アノが読書を好むのは知っていたが、まさかセキコもそういう趣味があるとは思いつかなかった。黙っていれば様になると言うのに、彼女は何処で道を踏み外したのだろう。暫く、真剣な面持ちで文面を追うセキコを観察していると、不意に彼女が顔を上げ、こちらを見た。
ユギは慌てて眼を逸らす。しかし、遅かった。
「変態がいるッ! この部屋に変態がいるッ!」
「窓際にいるッ! あの窓際に変態がいるッ!」
なんの打ち合わせも無くコンボを放ってきた二人の歪な友情には脱帽する。しかし、もう少しまともな方向でその特異性を発揮してほしいと、ユギは毎度の如く考える。
「……はあ」
騒ぐ二人を意識の外に除外する努力をしながら、ユギは深く椅子に身を沈めた。
翌日、三人は共にリスポール内の観光に出かけた。
世界滅亡の為に旅をする身でありながら、このような僻地で観光を楽しむのは甚だおかしい。そうユギは訴えたが、アノとセキコはその意見に猛烈に反対した。観光しないのなら旅に同行しないと、二人は仲良く声を揃える。アノは勿論の事ながら、セキコはエルトアの庭の情報を持っている存在だ。今更旅の仲間から外れてしまうのは非常に痛い。宿の部屋にて数十分、三人の話し合いは進み――
結局、ユギが折れた。
当然と言えば当然の結果であった。
「とりあえず、街の中央に行ってみましょうよ」
今日も今日とてシミ一つ無い白衣を身に纏い、アノは上機嫌で先を行く。燦々と照りつける太陽の光もあわさって、その後ろ姿は輝いて見えた。気だるげに瞼を落とし、背中を丸めて歩くユギとは正反対である。
「おいおい、元気出せよ」ホテルで買ったお結びを頬張りながら、セキコはユギの背中を叩く。「レディファーストの世界だろ。そこらへん折り合いつけろって」
「弟子と狐が相手だとなあ」
「私たちが女じゃないとでも?」
「そういう意味じゃ……」
「男尊女卑もいい加減にしろよばぁか」
「人の話を聞け」
ユギは肩を落とす。丸まっていた背中が更に丸みを帯びる。その姿を眺め、団子虫みてぇだな、と言い残してセキコはアノの隣へ歩いていった。
時間を空けず、ユギは身体を元に戻した。ぽきん、と背骨が乾いた音を鳴らす。我ながら何をやっているのかと、ユギは一人羞恥に悶えた。
「どうしたんですか、身体をシェイプして」
「してない!」
アノが振り向いて、怪訝そうにこちらを見ていた。誤魔化すように咳をしたユギは、ふとその手に握られた、黄色い装飾のなされた万華鏡に眼がいった。
「なんで万華鏡なんか持ってるんだ」
「これで遠くまで見られるかなって」
「お前万華鏡の性質を根本から履き違えてないか」
ユギの疑問に笑い声を返し、アノはそのまま走っていってしまった。長い白衣を翻して走るアノに、リスポールの住民が奇異の視線を向けている。
なんだか今日のアノはいつにもまして快活である。良い事でもあったのだろうか、とユギは一人思考する。
街の中央につくまでにさほど時間はかからなかった。広場はやや混雑としており、雑踏の中で露天商が声を張り上げるのが聞こえる。宙に伸びる物干し用の紐には、衣装の代わりに万国旗のようなものが垂れ下がっていた。
「お祭りでもあるのか」
「あー。確か、この時期は丁度聖歌祭だったかな」
セキコがいつの間にか隣に来ていた。アノの姿は見当たらない。世話の焼ける弟子の姿を探しながら、ユギは「聖歌祭?」と質問を口にする。
セキコはすぐには答えず、手に持ったお結びを一口頬張った。米粒が咀嚼され、色の白い喉が動く。それからどんどん口は動き、男の握りこぶしほどの大きさがあったお結びが、見る見る内に小さくなっていく。
「向こうに教会があるだろ。そこで聖歌隊が聖歌の練習をしてんのよ。で、今度の祭りがその発表日って訳」
やがてお結びを食べ終えたセキコが、満足げに頬を緩ませて解説してくれた。
「たまたま≪嵌りの森≫のアレと被ってたようだな。でも、今の時期だとどこの街でもこんなもんだぜ」
へえ、とユギは感心したように呟く。詳しいんだな、と続けると、彼女はまんざらでもなさそうに頭を掻いた。
「エルトアの庭に居た時は、仕事のせいでとにかく世界中を回ってたからな。そこらへんの知識は頼りにしてもらってもいいぜ」
「そうなのか……意外な特技だな」
「もっと褒めてもいいんだぜ」
「やめておく」
ふと、広場の端に立つアノの姿が見えた。セキコと共に近付いていくと、彼女は街内看板のお知らせに眼を向けているようだった。
「アノ、何してるんだ」
「あ、師匠。セキコさん」アノが振り向き、二人を見て笑みを浮かべた。「これ、見てください。大変そうですよ」
そう言って、アノは看板に張られた一枚の紙を指差す。真っ白な紙の上に、太い字で「聖歌隊欠員募集」と書かれていた。
「おいおいおい」ユギは思わず呆れた声を漏らす。
「欠員か。まあ行事にトラブルはつき物だな」
セキコは腕を組み、まるで何度も見てきたことのように言う。彼女にとっては、実際に飽きるほど遭遇した出来事なのだろう。長い眉が、つまらなそうに下がっていた。
ユギは改めてチラシを眺める。欠員は一人。適正試験の後、合格ならば採用――。
顔を戻し、能天気そうに微笑むアノに向ける。
「それで、これがどうしたんだ」
「私、やってきてもいいですか?」
「はあ?」
ユギは顔をしかめた。唐突に何を言うのだと、呆れた声で言おうとすると、今度はセキコが発言する。
「いいんじゃねぇの、別に」
「いやちょっと待ちたまえよ」
「待てと言われなくてもどこにも行かないけど」
「んな事分かってる。そうじゃなくて、アノ、お前本気で言ってるのか?」
ユギは戸惑いのまなざしをアノに向けた。セキコの一言が、アノの勢いに拍車をかけていそうだったからだ。彼女は基本的に従順だが、一度走り出してしまうと止まらない。それを止める術が無い事を、ユギは身をもって知っている。
そしてユギの希望も虚しく、アノは力強く頷いた。
「だって面白そうじゃないですか。それに私、こう見えても歌唱力なら自信があるんですよ」
「それは確かにそうだが」
「あん? まっしろしろすけ歌上手いの? 世紀の首吊り歌姫と呼ばれたこの私よりも上手いの?」
「それ不名誉な呼称じゃねぇのか」
ずい、と一歩前に出て迫ってきたセキコに、アノは細い人差し指を向ける。その時の彼女の顔は、余裕げな自信に溢れていた。
「勿論です。古代のお茶の間歌姫と主に師匠に呼ばれたこの私ですから」
「呼んでない」
ユギは突っ込みつつも――内心、この件についてはそう悲観な考えは持っていなかった。
彼女が自負するとおり、確かにアノは歌がとても上手い。きちんと発声の訓練を受ければ、そのまま歌姫として通用するレベルの持ち主なのだ。
そのアノが聖歌を歌ってみたいというのである。個人的には是非とも聞いてみたい所だったが。
「……そんな事してる暇あるのかねえ」
ユギがぽつりと呟くと、アノは今朝と同じ反抗的な態度を見せた。
「またそれですか。師匠、急いだってなんの得にもなりませんよ」
「そうだけどな。でも、俺らの旅はこんな事する為に――」
「おい、糠味噌野郎」
誰が糠味噌だ、とセキコを仰ぐと、彼女はユギのズボンを指差していた。正確にはズボンの右ポケット。そこには、彼らの旅を支える金の入った財布が収納されている。
セキコはズボンを指したまま、無表情で言葉を続ける。
「今、財布の中にいくら入ってるんだ」
「え。なんだよいきなり」それ以前に何故そこに財布があると知っているのか。
「昨日てめぇが寝てる時に見たんだよ。で、いくらあるんだ?」
渋々ポケットから財布を取り出して、中身を確認する。財布の重量は羽毛程度にしかないのではないかと思うほどに軽く、そこにはこの世界で使われる共通貨幣が一枚、虚しく埋まっていた。
「……少ししか無いな」
セキコが財布の中を覗き込み、にやりと笑った。
「全然無いな。あの聖歌隊欠員の奴、上手く採用されれば結構な額が貰えるみてーだぜ」
「……ううむ」
顔を上げ、欠員募集のチラシを見る。下部にでかでかと、報酬はアンズ紙幣二十枚と書かれていた。一日三食三人分の栄養を摂取したとしても、一ヶ月は生きていける額だった。
「随分貰えるんですねえ」
「ヒルレイは金持ってるしなー。それにこの街はヒルレイの中でも比較的豊かときた。紙幣の十枚や二十枚、どうってことないんだろうよ」
セキコが淡々と解説をする。アノは講義を受ける学生のように、真面目な顔でこくこくと頷いていた。
「……仕方ない、一度話を聞きに行こうか」
やがてユギがそう結論を下すと、アノは満面の笑みを見せた。相当嬉しいのか、ガッツポーズまで取っている。
「それでは、早速行きましょうよ」
「そうだな。でも、もう少し落ち着け」
聖歌隊の練習場所は、湖近くにある教会。ホテルのすぐ傍だ。アノは瞳を希望に輝かせ、先頭を取って歩き始めた。それを追いかける形で、ユギとセキコの二人が歩く。
前を行くアノの白衣が、吹き抜ける風にはためいた。混雑した広場の中を、彼女はすいすいと進んでいく。まるで首輪を外された子犬のようだと、ユギは不躾な事を考えた。
隣にいるセキコが欠伸をもらした。
「元気だなあ、まっしろしろすけ」
「全くだ」独り言のように呟いたセキコに、ユギは頷きながら賛同する。
「普段からあんな感じなのか?」
「いや、そんな事は無い。≪嵌りの森≫の時のテンションが普通なんだが」
「ふうん。長年付き合ってそうだがなァ、てめぇら」
「あいつは謎が多いからなあ……」
ユギは視線を傾けて、空を見上げる。今日も雲一つ無い快晴だった。こう何日も晴れが続くと、苛立つとまではいかなくとも、なんだか不安を煽られてしまう。
再び顔を水平に戻すと、既に前方にアノの姿は無かった。
「……まあ、いいか」
彼女がやりたいと言うのなら仕方ない。
暫く、自由にさせてあげよう。
世界の通貨の話。
アンズ紙幣がこちらにおける千円札、シトロ金貨が百円玉、パラル銀貨が十円玉、タツノ銅貨が一円玉の役割を果たします。
勿論それ以上の額を持つ紙幣が存在しますが、この物語ではあまり登場しません。