■外側:You Raise Me Up
新宿の三角広場と呼ばれる大きな広場にグランドピアノがある事は知っていた。テーブルと椅子がいくつかあり、何人かが座り、談笑している。
玲音は羽根ほどの重さしかないリューバを抱き上げ、グランドピアノの上に座らせた。周りの人にはもう、リューバの姿は見えてないらしい。影が薄くなり、今にも消え入りそうだ。
玲音は両手を鍵盤の上に置いた。彼女にとって、これが最後の一曲だ、と思いながら。
指を動かし、曲を奏でる。リューバはピアノの上から、演奏する玲音を愛おしそうに見つめている。
リューバへの感謝の気持ちを込めて、玲音は弾いた。
誰もが知ってる、有名な曲。玲音は一度聞いた曲は全て覚えている。この曲はどこで聞いたか覚えてないけれど、美しいメロディと印象的な歌詞を覚えている。
《君が背中を押してくれるから、高い山にも登れるし、嵐の海を進む事もできる》
たしか、こんな歌詞じゃなかったか。
なんて不思議な事だろう。昨日の今頃、僕は君の存在すら知らなかったというのに。でも今、君は僕の一部だ。僕には、君が必要だ。自分のために弾く事を教えてくれた君が必要だ。どうかこの先、姿が消えてしまっても、僕の中にいてくれないだろうか。君を中心に、僕の世界は回って行く。もう、何にも惑わされない。
弾きながら、リューバが消えて行くのがわかった。目の前が涙で滲む。でも、最後まで弾かなきゃならない。最後まで弾いて、弾き終えたら。
君のいない現実が始まる。
その中で、僕は生きていかなきゃならない。
だから、僕の中にずっといてくれないか。もう、迷わないように。
弾き終わった後、遥か遠くからパチパチと拍手が聞こえた。玲音はしばらく立ち上がれずに鍵盤を見つめていた。ピアノの上に座っていたリューバはもういない。
「玲音くん?」
どこか懐かしい声の方を振り向いた。埃をかぶった人形の首のように、上手く動かない首を精一杯動かして見上げると、そこにはオフィスカジュアルとでもいうようなパンツスーツ姿の女の人が立っている。ああ、この人は。この人と言葉を交わしたら、それはもう現実だ。このまま言葉を発する事なく、自分の殻に閉じこもることも出来る。でも、僕は現実を生きたい。
「村松、玲音くんよね?」
「は……い」
声を出した瞬間、女の人は玲音の手を握りしめた。
「無事で、よかった……」
女の人はボロボロと涙を流し、その涙が玲音の手のひらの上に落ちた。涙はじんわりと温かかった。
*****************
その後の事はよく覚えていないが、センセーショナルなニュースであった事は間違いない。
玲音や琥珀、歩夢の三人が船上から姿を消してから、昼夜問わず海上や海底まで捜索が行われ、もう生きている可能性は一パーセントもないだろうと誰もが思い始めた矢先の三日目の夜、行方不明のうちの一人が新宿でピアノを弾いていたのだから。
理沙先生は玲音を近くの交番へ連れて行き、家族へ連絡を取ってくれた。交番の人はいくつか玲音に質問をしたが、玲音は急激に睡魔に襲われて、うつらうつらしてしまった。気が付いたら、簡易的なベッドの上に横になっていて、少し離れたところから大人の話し声が聞こえてくる。玲音は跳ね起きた。琥珀やルカはどうなった?
よろめきながら立ち上がり、外へ出ようとすると、
「玲音!」
という耳慣れた声が聞こえ、母親が抱きついてきた。
母親はぽろぽろと涙を流し、無事でよかった、といった。父親も来ているようだ。目線の先に、琥珀のお母さんも見えた。嬉しそうな、でもどこか悲しそうな顔をしている。
この人は、自分しかいないこの状況を、どう思っているのだろう。玲音は母親から離れて、琥珀のお母さんのところへ歩み寄った。
「琥珀を連れてきます」
そう言って、玲音は交番を飛び出した。