◇境目:幽霊船オルロワ号③
門番は、名をイソタケルノミコトという。
境目に封印されて、かれこれ五百年。だが、今自分の身に起こった事はどうだ。急に現れた赤髪の子どもが両手両足の錠を外し、あろうことか自分を使役しようとしている。
両足の錠が外れたから、境目から出る事が出来る。両手の錠が外れたから、自慢の怪力で多くのものを動かせる。でも、まだ足りない。首の錠が外れなければ、本当の意味の自由ではない。これが外れないうちは、タケルの自由はことごとく制限され、手足の錠を外した主に使役される事になる。つまり、あのガキに、だ。タケルはそれが気に入らない。
海の神なんて、数え切れないくらいいる。その中で一番強いのは俺だ。それが、他の奴らは気に入らず、あんな場所に閉じ込めやがった。やっと解放されたのに、あんなガキに使役される俺じゃないんだよ。
解放された力を使い、首の錠を外させよう。それしかない。数ある船の中からオルロワを選んだのはそういう理由からだった。
オルロワは、扱いが困難だ。船、特に幽霊船と言われる奴らは長い年月を経て人格が出来ており、いっちょ前に自己主張してきやがる。オルロワは土足で踏み込まれる事と、壊す、喰う、という言葉を好まない。怒り狂ったオルロワに、あいつらは一瞬にして押し潰されるだろう。ぎりぎりの所で助けて、あの赤髪の子どもに首の錠を外させるんだ。我ながら、完璧な筋書きだ。
ところであいつは、どこの誰だ? タケルは五百年分の記憶を洗い直し、ルカに会った事がないかを確かめた。会ってない。じゃあ何で、あいつは俺のことを知っている? 十五年前に通った人に聞いたとか言ってたな。十五年前。何人ここを通った? お、これか? タケルは十五年前の記憶の中で、司とリズを見つけた。あのガキと同じ漆黒の目を持つ司と、赤い髪を持つリズ。なるほど、あの二人の子どもって事か。あいつら、思い出しやがったか。あの時は気分が良かったから、そう言えばあれこれ喋ってしまったような気がするな。
船首に立ち、海を見ながら門番はくっくっと笑い始めた。なんて愉快なことだろう。
もうすぐ、完全な自由が手に入る。
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急に部屋が斜めになったかと思うと、入ろうとしていた食堂から放り出され、それまで歩いて来たロビーまで飛ばされた。床はほぼ九十度かと思うくらいの角度で傾いて、見上げると食堂の扉は固く閉じてしまっていた。文字通り、閉め出されたのだ。
こうなっては、どうも出来ない。今や壁のように立ちはだかる床を登る事は到底出来ないから、食堂へは戻れない。どうしようかと考えていると、壁が大きく唸り出し、じっとしていられない。ただ唸るだけではなく、異物を外へ吐き出すような唸り方だ。
どうやらこの船は、琥珀を追い出そうとしているらしい。気づいた時には、つい先ほど通った入り口からそのまま外へと放り出されてしまった。
甲板の手すりにぶつかり、大袈裟に転んで起き上がると、そこはなんて事ない、ごく普通の船の甲板だ。大きく傾いていたのは中だけのようだ。目の前に、乗船する時に見た穏やかな海が広がり、中で起こっていることなど露知らず、順調に航海をしている。
(外は、普通なのか。じゃあ、みんな外へ行けばいいのか?)
みんながまだ中にいる。もう一度中に入ろうと思ったが、また外へ放り出されるだけだろう。
ここで、待っているしかないのだろうか?
途方に暮れていると、甲板に誰かがいる事に気がついた。男が一人、海を眺めているようだ。琥珀の場所からは、背中しか見えない。
(あれは……ルカのお父さん?)
司が海を見つめているのだ。
(どうして、ここに)
琥珀がその場に立ちすくんでいると、司はゆっくりと振り返り、不敵な笑みを浮かべた。その瞬間、こいつは司じゃない、と思った。
「この船は危険だから、降りなさい」
司はゆっくりと琥珀に近寄りながら話しかけて来る。
降りろと言われても、水面しかない。降りる場所がないし、船は既に出発している。降りるためには海に飛び込むしかない。でもそんな事をしたら、途端に海に飲み込まれてしまうだろう。
「中に、まだみんながいる」
「みんなの事は気にしなくていい。みんなはみんなで、ちゃんとやってる。まあ、そのうちオルロワに潰されるだろうがな」
こいつはきっと、門番だ。門番が司に化けている。ルカが錠を取ったから、こういう事が出来るようになったのだろうか。
琥珀は急に、ルカの事が心配になった。初めて乗る船で、大丈夫だろうか。あんなにうねうね動く船内で、真っ直ぐ進めているだろうか。ルカは視覚から周りの情報を得ることができない。島から出た今、誰かの手助けが必要だ。
でも、目の前の門番をまずなんとかせねばならない。どうする? ルカみたいに服従させる事なんて出来ないし。
琥珀は考えた。
そうだ。ルカに居場所を知らせる事くらいは、出来るかもしれない。
「どうした? みんなの事は気にしなくていい。さあ、船を降りろよ」
「いい。降りない。ここで待ってる」
門番が司に化けてくれていてよかった。化け物のような元の姿では、恐怖で会話できなかったかもしれない。
「ここは危ない。海の方が安全だ」
門番がほら、と海面を見やると、そこには海の水がぐるぐると渦を巻いているように見える。冷や汗が流れた。ここへ降りろと? 一瞬にして飲み込まれてしまうのは目に見えているじゃないか。
「降りるところなんて、ないように見えるけど」
琥珀は後退りしながら答えた。
司は顔をしかめて、はぁーっと、深いため息をついた。
「最近のガキはどうも、知恵がついてるみてえだな。人の言葉を素直に信じる事をしねえんだ。昔はこれで海の中へ引き摺り込む事が出来たってのに」
司は一歩、また一歩と琥珀の方に近付いてくる。
「時代遅れなんじゃない? 五百年ぶりなんでしょう?」
門番はかちんときたようだ。明らかに不機嫌そうな顔をしている。
「そうさ、五百年ぶりさ。力はまだ完全じゃないが、力尽くでお前を海に引き摺り込む事くらいはわけないんだぜ!」
そう言ってこちらに向かって来る門番。ひたすら気持ち悪い、邪悪な顔をしたその姿は、もはや司の顔には見えない。
「ルカー! ここだ、ここにいる! 門番がいるぞー!」
咄嗟に、大声で叫んだ。頼む、届いてくれ、と願いながら。言い終わるか終わらないかのうちに、門番の手が琥珀の顔の下半分、口の部分をむんずと掴んだ。
「そうだ。あいつを呼べ。首の錠を外してもらわないといけないからな」
門番は片手で琥珀を掴んだまま喋り続ける。
「錠は、全部外してもらわないと意味がない。今のままでは、自由とは言えないんでね」
門番はくっくっと気持ち悪く笑いながら大声を上げた。
「おうい、赤髪のガキ、さっさと来い! ここへ来て、首の錠を外すんだ!」
その時、船内からグワッシャーン! という大きな音が聞こえて来た。口を覆われて息がうまく出来ないまま、琥珀はその音が気になった。それはもう、凄まじい音だったのだ。何か、とてつもなく大きなものが壊れたか、落ちたかした音だ。
「なんだ、くたばっちまったか?」
門番がニヤリと笑ったその時、琥珀を掴む門番の手首が掴まれた。
ルカだ。
琥珀は酸欠で朦朧とする意識の中でルカを見て、びっくりした。顔や体、至る所から血が出ているからだ。
「錠を、どうしろって?」
ルカは門番をぎろりと睨みつけた。
「あ、いててて」
ルカは手に力を込め、門番の手首をさらにきつく握りつぶそうとする。程なくして、門番は琥珀から手を離した。琥珀はデッキに倒れ込み、ゲホゲホと咳き込んだ。
「門番。自分の仕事を忘れたか」
ルカは続ける。
「お前の仕事は、なんだ」
「日本のどこかの港へ行けばいいのだろう」
門番は、ルカに圧倒されて蚊の鳴くような声で答えた。先ほどまでの威勢はどこかへ行ってしまったようだ。
「港じゃない。家まで連れてくんだよ、俺たちを。あと、もう一つ、お前に仕事を与えよう」
ルカは相変わらず門番の手首を掴んでおり、掴まれた手は鬱血して紫色になっている。
「俺の、目になれ。今後は俺から離れるな。絶対にな」
冗談じゃない。なぜ俺が四六時中こいつといなきゃならぬのだ。声に出そうとしても、声が出ない。得体の知れぬ見えない力でデッキに体が押し付けられる。ダメだ。こいつに使役されているうちは、どうしても逆らう事が出来ないらしい。門番は項垂れて、平伏した。
「わかった、わかったよ。ずっとお前といればいいんだろう?」
心にもない事を言いながら、門番はどこか投げやりな気持ちになった。
「そうだ。それでいい」
「あと、俺の名前は門番じゃねえ。イソタケルノミコトだ」
ルカはぴくりと眉を動かした。そうか、こいつにも名前があるのか、と思った。
「長い名前だね」
琥珀が言った。ルカもそう思った。
「もっと短いのにしろよ」
ルカがいうので、門番はしぶしぶ答えた。
「では、タケルと呼べ」
「わかった。これからはタケルと呼ぼう」
ルカはタケルの手首をやっと離した。