◇境目:幽霊船オルロワ号②
船は、入ってすぐエントランスがあり、上階に続く大階段が真ん中にある。上にはおそらく船室があり、下はレストランや土産物屋が立ち並んだ、よくあるクルーズ船のように見えた。
「うわあ、すごい。綺麗だね。シャンデリアがある」
少々かび臭いが、船の内部は綺麗なままだ。ただ、もちろん乗客は誰一人としていない。
「境目に来てから比較的新しいからな。美しい船だろう」
確かに内装はきらびやかで美しく、いかにも富裕層が好みそうな造りになっている。入ってすぐ、エントランスホールの天井には大きなシャンデリアが光っているし、二階に続く階段も、何で出来ているのかわからないが、光を反射してキラキラと光っている。琥珀はエントランスにあるもの、見えるものをルカに説明してみせた。
「お前らが来た海に行けばいいんだな。つまり、日本の太平洋の方に」
「うん、多分、そこだ」
玲音も琥珀も記憶は徐々に戻ってきているものの、具体的な家の場所なんかはわからない。でも日本であることは確かだろう。
「これ、豪華客船? 僕たちが乗ってた船に少し似てるね」
玲音が言うので、門番は頷いた。
「そう。豪華客船だ。ロシア人富裕層向けの北極圏クルーズさ。今は、幽霊船といわれてるがな」
「ゆ……幽霊船?」
琥珀がびくっとして聞き返す。
「いわゆる幽霊船……突如として船が消えるだの現れるだのいうやつだ。あれは、境目に迷い込んじまった船の事さ。昔は門番なんていなかったから、入るも出るも自由だった。消えた幽霊船が、数十年後、特に腐敗もせずまた現れたって話、聞いたことないか? つまりそれは、境目にいたってことだ。境目は時間の流れ方が外とは違うからな」
饒舌だな、とルカは思った。おしゃべりな性格は、五百年経っても変わらないようだ。よく喋る門番に琥珀と玲音も少し打ち解けてきたようだ。
「門番は、昔はいなかったんだね」
琥珀が聞くと、門番はぽりぽりと頬を掻いて、
「外側のものが流れ込んできて、境目がモノで溢れかえってしまったんで、あの島が出来たんだ。その後しばらくして境目に門番が置かれるようになった。こう見えて、重要な役割を担っているんだぜ」
「あの島は、自然に出来たわけじゃないんだね」
玲音も会話に参加する。
「そうだ。あの島は、神が意図を持って作ったものだ。最初は誰も住んでない、ただの島だ。最初はあそこまで大きくなかったから船を吸収することは出来ず、小さなガラクタや、人が捨てた感情なんかを食べていた。そうして少しずつ、大きくなった。そのうち人が住むようになった。で、俺がその管理をするようになったんだ」
「そういう歴史があるんだな」
玲音と琥珀が興味深そうに聞くのが心地よいらしく、門番はなおも話し続ける。
「境目には今、数百隻の船がいる。その船も、いずれはあの島に食べてもらうつもりだが、まだ早い。こんな大きな船は、あの島の大口には入らないからな。島は毎日成長して少しずつ大きくなるから、そのうちこの船も喰ってもらうつもりだった」
門番は、最後のフレーズを大きな声ではっきりと言った。喰ってもらう、というところだ。
「こんなに大きな船を?」
琥珀は一度入った大口のことを思い出した。とてもじゃないが、こんな大きな船が入る大きさではなかったからだ。
「あと百年、いや二百年もしたらこの船くらい一飲みさ」
さっきからこいつ、なんでこんな芝居がかった言い方をするんだ? 何か企んでいるのだろうか。ルカがそう思った時、ガッタアアーン、という大きな音を立てて、船が大きく傾いた。
「なんだ?」
ルカが立ち上がって辺りを見渡す。座礁でもしたのだろうか。
ルカは門番を見た。門番は気持ち悪い笑みを浮かべ、ルカを見てクックッと笑っている。
「あれ、オルロワに聞こえちまったかな、今の話」
門番がわざとらしく呟いたので、ルカはピンときた。
やっぱりこの船は獣と同じだ。今、俺たちは獣の腹の中にいて、門番のやった何かがスイッチとなり、捕食モードに入ったのだろう。
「何か、聞こえる」
と玲音が言うので、みんな耳を澄ます。そうすると、確かに遠くから、微かにピアノの音が聞こえる。
「どこからだ?」
「ピアノが置いてあるのはレストランだ」
門番が説明する。
「僕、見に行ってくるよ」
玲音が行こうとするので、
「止めた方がいい。何が起こるかわからない」
ルカが止めるが、玲音はピアノの音が気になる様子だ。
「大丈夫だよ。みんなで行けば怖くない」
玲音はそう言って歩き出してしまう。ルカはため息をついて、
「じゃあ、俺が先頭だ。おい門番、案内しろ」
と言い、玲音の前を歩き始める。門番とルカ、その後ろに玲音、琥珀と並び、レストランに向かって歩き始めた。
レストランに向かいながら、ルカはあれこれ考えを巡らした。
さっきの揺れは、門番の話にオルロワが反応して、オルロワが自分の意思で動いたのだろう。あのピアノもそうだ。オルロワが出している音だ。何か、言いたいことでもあるのだろうか。
この船に乗るなと言う事なら、そもそも俺たちは乗船出来なかったはずだ。心当たりがあるとすれば、先ほどの門番の話。あの話の中に、引き金となるタブーでも入っていたのだろう。
レストランに近付くにつれてピアノの音は大きくなる。ピアノの音は、島でも聞いた。いつもアニカが弾いていたし、昨日は玲音も弾いていた。玲音の出す音は、優しくて美しい。ピアノの音は、あんなにも心に響くものなのだと初めて知った。
でも、今聞こえる音は、どちらとも違う。玲音の音とも、アニカの音とも違う。
涙が出るくらい、悲しい音だ。
一行がレストランの入り口に到着したところで、音が止まった。レストランにはテーブルとイスがいくつもあり、一番奥に、大きなグランドピアノが置いてある。ピアノの椅子には、誰も座っていない。
「どういうことだ?」
玲音がそういうと同時に、
「で、て、い、け」
と、声が聞こえた。女の人の声だ。
「オルロワ?」
ルカはピアノに近付いた。
「ルカ、待って。そこには誰もいないよ」
琥珀が叫ぶと同時に、船の床がぐわんと大きく波打った。そこにいる全員が、ふわりと浮いて、そのまま床やら壁やらにぶつかった。次の瞬間、床が斜めに傾いて、ピアノが頂点になり入り口が一番下になったから、みんな入り口の方に落下してしまう。まるで船自体が、ルカたちをレストランから追い出そうとしているみたいだ。テーブルやいす、ピアノや他の家具は動かないので、琥珀や玲音はその家具にしがみつく。ルカは先ほどの揺れで一気に前に進み、あと一歩でピアノに手が届くくらいの位置にいる。
「でてけ、でてけ」
さっきよりも鮮明に声が聞こえたかと思うと、もう一度ぐわんと揺れた。玲音は近くのテーブルにしがみついたが、琥珀はそのままレストランの外に放り出され、その瞬間入り口ドアが閉まってしまい、琥珀の姿が見えなくなった。
「おい、琥珀!」
玲音が叫ぶ。
「どうした?」
今の揺れでほぼ横向きになったグランドピアノの上に乗ったルカは、玲音に聞いた。
「琥珀がレストランの外に放り出された!」
まずい。みんながバラバラになるのはよくない。ひとまず玲音を助けなければと思いピアノから下りようとすると、手が鍵盤に触れて音が出た。その瞬間、船が微かに反応したように感じた。もしかして、この船にとってのコミュニケーション手段はピアノか? ルカはほぼ直角に傾いた部屋を滑り降りた。玲音のところに行きたかったのだが、途中にあるテーブルや椅子にことごとく引っかかり、体中あちこちをぶつけまくった。こういう時、目が悪いのは不便だ。
「玲音。ピアノ弾いてくれる?」
「え? いいけど、なんで?」
それどころではないだろう、と玲音は思った。
「オルロワと、音楽で話してほしいんだ。多分この船……オルロワは、言葉の交渉は無理だ。音楽なら、もしかして、と思ってさ」
「……わかった」
そういったものの、玲音は意味がわからなかった。オルロワ、つまりこの船の名前だ。この船と、音楽で話すって、どうするんだ? でも、きっと今この瞬間、それが出来そうなのは自分だけなのだということはわかった。
「俺につかまって」
ルカが背中を玲音に向けるので、玲音はその背中におぶさった。ルカは勢いよくジャンプをして、ピアノのところに玲音を連れて行く。ほぼ直角になったピアノはとてもじゃないが弾くことはできない。でも今は弾くしかない。玲音はなんとか片手で鍵盤を叩き、音を出す。そうすると、一瞬傾きが元にもどったような気がした。
「いいぞ、その調子」
玲音は音を出しだ。とりあえず、思い浮かんだ曲を弾き始める。慌てすぎてタイトルを思い出せない。だいぶ昔に観た古い映画で流れていた、美しい曲。曲が流れる間、船は大人しくなった。
(大丈夫そうだな)
玲音にはここでしばらくピアノを弾いていてもらおう。ピアノさえ弾いていれば、オルロワは玲音に危害を加えることはしないだろう。ルカはそう思い、玲音をピアノの足部分に座らせて、ピアノからレストランの入り口まで一気に飛び降りた。ガッシャアーンと大きな音が鳴り、入り口のガラスが割れてその辺に散らばる。玲音がびっくりして一瞬音を止めたので、
「玲音! 弾き続けて!」
とルカは上を見て叫んだ。玲音は頷いて、演奏を続けた。
ガラスで体のあちこちに擦り傷が出来てまあまあ痛い。ルカがレストランから出たからか、玲音のピアノの効果かわからないが、とにかく船は少し機嫌を直したように思えた。
ルカは体に着いた無数のガラス片を払い、琥珀を探さねば、と思った。でも、初めての場所では困難だ。何せ、周りがほとんど見えないのだから。門番を探すが、どこにもいない。そもそも、この状況を作り出したのは他でもない門番だ。オルロワを挑発して意図的に怒らせたのだから。
「あいつ、次あったらぶっとばす」
ルカは軽く舌打ちをして、琥珀を探すためにとにかく走り出した。その途端、また床がうねりだして、行く手を阻む。床にいては押し戻される。ルカはジャンプして空中にいる時間をなるべく多く作り出し、なんとか前に進んで行く。大丈夫。見えないけど、さっき歩いて来た道だ。
「琥珀―!」
呼んでみても、返事はない。
「どこだ?」
ルカは周りを見渡し、琥珀の気配を探った。琥珀の気配はわかりやすい。怖がりだから、恐怖の感情が空気にしみ出て、すぐわかるのだ。でも、琥珀の感情がどこにあるのかわからない。
(近くには、いないのか)
闇雲に探すには、この船は大きすぎる。それに、玲音のピアノは一時しのぎで、いつ何時危害を加えられるかわかったものじゃない。
相変わらずうねり狂う廊下を走り続け、ロビーに来たところで天井からシャンデリアが落ちて来て、けたたましい音を立てて地面に破片が散らばった。紙一重のところで避けたので下敷きにならずに済んだが、破片がいくつか飛んできて、ガラスが手足に突き刺さる。
この船は、一体何がしたいのか。船を、自分自身を壊しまくって、何が望みだ?
「琥珀―! どこだー!」
息を切らしながら、ルカは叫んだ。確か、シャンデリアはエントランスにあったはずだ。だから外への入り口は近いはず。
待ってみても、琥珀からの返事はない。声や気配が少しでもあれば、そこへ向けて走るのに。
ルカは目を閉じて、感覚を研ぎ澄まし、気配を探った。