■内側:決断
玲音の話が終わった後で、ルカはなんとなくわかった。
さっき聞こえた声。友達を助けてあげなさいという声は、つまり、友達の弟、歩夢を助けろということだ。あの声は、この島の声だろうか。食事して成長する島だから、あんなふうに話したとしても違和感はない。こうなったら、やることは決まっている。
「歩夢を探そう。手伝うよ」
ルカの言葉に、その場にいた全員が息を呑んだ。
「ルカ、どうするつもりなの?」
アニカが聞く。
「とにかく、外側に行くしかない。だって、外側でいなくなったんだから。船にのって、境目を通って。俺が、二人を連れて行く」
「そんな、無茶だわ」
リズがいう。
「ルカ、お前は、境目を通り抜けることが出来ると思ってるのか」
司が聞くと、ルカは頷いた。
「俺、境目に行ったことあるよ。門番にも会ったことがある」
「何ですって?」
「覚えてる? 小さい頃に、海に出てなかなか帰らなかった時の事。あの時、俺は一度門番に会っている」
その場の人間がざわついた。
たぶん、嘘ではない。実際、五歳の頃、ルカは海で泳いでいる間に境目に迷い込んだことがある。その時に、誰かに話しかけられた。見えなかったので、それが門番だったかどうかはわからないが。
———おい小僧。ここは一方通行だ。向こうから来ることはできてもそっちからは通れねえよ。家に帰んな
確か、そう言われた。だたそれだけだ。
境目はびっくりするくらい凪いでいて、とても穏やかな海だった。そこにいた一人の大人。ドミニクや島の大人と話すのと変わらない。なんてことない普通の人間だと思っていた。あれが門番だったのだろうか。
「会ったから、どうだっていうの? 無事に通れるかわからないじゃない」
リズはどうにかして、ルカをこの島に留めようとしているようだ。
みんなはどうするつもりなんだろう。俺が行かなければ、代わりの誰かが二人と一緒に外側へ行くというのか? それとも二人だけで行かすのか? 無事に通れるかわからないだって? 当たり前じゃないか。通った事がないのだから。ルカは苛立ちを感じた。この島の人たちはいつもそうだ。外側を避け、何かと理由を付けて留まろうとする。
「そこまで言うなら、行ってきたらいい」
そう言ったのは、司だった。
「行かざるを得ないだろう。こういう状況なんだから」
「司、何を言ってるの?」
リズが司に言うと、司は軽く手を挙げてリズを制した。
「外側と内側の中間に位置する境目。境目は、世界中のあらゆる場所に通じている。ただ通るだけじゃだめだ。全然違う国に流れ着いても、家に帰れないからな。だからな、ルカ。門番を味方につけるしかない。門番に、道案内してもらうんだ」
意外な言葉に、ルカはびっくりした。
「そんな事、できるの?」
「交渉次第だ」
司は十五年前の事を思い出しながら、ゆっくり話し始めた。
「あいつ……門番は、あの境目に五百年近くいるんだよ」
「五百年?」
司はふっと思い出し笑いをした。
「記憶を取るから油断したんだろうな。自分の事情をぺらぺらと、それは事細かに話してくれたよ。時間が経って、全部思い出すことが出来たとも知らずにな。あそこは、海の牢獄だ。人の世界には法律があり、法を犯すと法律で裁かれるだろう。あいつは神の世界のルールを犯したことで、神に裁かれた。あいつに与えられた権限は、記憶を浄化する……つまり、記憶を奪うことだけだ。あいつの本来の力は、神の力で抑えられている。両手、両足、首、全部で五か所に錠がある。これがあるとあいつは何も出来ない」
「そんなやつ、連れて行って役に立つ?」
「錠を外すんだよ」
司はルカを見て、にやりと笑った。
「但し、全て外してはいけない。特に、首はダメだ。様子を見ながら一つずつ外していけ。使役できる範囲ぎりぎりまでな」
「首の錠を外したら、どうなるの?」
「すべての錠を外すということは、完全に自由になるという事だ。だから、使役できない」
ルカは父親の言葉を胸の内でかみ砕き、理解した。自然界の動物を使役する術を教えてくれたのは他でもない父親だ。
「出来そうか?」
ルカは、幼い頃に会った門番を思い出した。あいつを使役させるのか。出来るだろうか。答えは簡単だった。
「たぶん、出来ると思う」
司はルカの頭をぽんと叩いて、
「そういうだろうと思っていたよ」
と言って微笑んだ。
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それからの時間は、怒涛のように過ぎて行った。
いつ出発するのかとか、どういう段取りでやるのかとか。
ルカは司と話し込んでいるようだし、琥珀も玲音も記憶を整理するのに時間が必要だった。境目がどんなところか、そこにいる門番がどんなか、いろんな知識を叩きこまれ、気が付いたらまた夕暮れの時間になっていて、とにかく出発は明日の朝、という事が決まった。
少し風に当たりたいと思って、教会の外へ出たときに、ルカ、という声が聞こえた。
振り向くと、そこにはアニカが立っている。
「アニカ。どうかした?」
アニカはゆっくりとルカに近付き、少し目を逸らしながら、ルカにだけ聞こえる声で話し始めた。
「本当に、行くの?」
「行くよ」
アニカはルカを見つめ、傷ついたような顔をした。アニカが傷ついていることが、ルカは何となくわかった。
「帰ってこられるか、わからないのに? それでも行くの?」
こんなこと聞いても意味がない。ルカの決意は揺るがない事はわかってる。でも、それでも聞かずにはいられなかった。
「ちゃんと帰ってくるよ」
「どうして、ルカが行かなきゃいけないの」
「俺が行きたいから、行くんだよ」
「どうして? なんでそんなふうに思うのよ」
ルカは、夕暮れの空を見上げながら、ゆっくり考えた。友達を助けるため? それはもちろん大前提としてある。でも、それだけじゃない。
「俺は今まで、外側へ行きたいなんて思わなかった。毎日海の向こうを眺めて、どんな場所だろうと思っていたけど、みんな外側の話をしないし、あまりいいところじゃないんだと思ってた。でも、琥珀と玲音を見て、俺と同じような子供が外側にもいるとわかって、それでどうしても外側を見てみたくなったんだ。だから、なんで行きたいのかって言うと、俺が行きたいから。それだけだよ」
「行くのやめなよ。ルカは、ずっとここにいればいいのよ」
ルカは、少しびっくりした。アニカがこんなに自分の意見をはっきり言う事はほとんどない。
アニカの悲しい気持ちが伝わってくる。声は出さないようにしているけれど、泣いてる事がわかった。涙を拭こうと思って手を伸ばしかけたが、それは自分の役割ではないと思って手を引っ込めた。その手を、ルカは強く握った。
これだけは譲れない。
行きたいんだ、とてつもなく。きっと、この瞬間を俺はずっと待っていた。外へ行く確固たる理由ができる瞬間を。
「道を作ってくる」
「道?」
アニカは自分で涙を拭きながら、ルカに問い返した。
「いつか、アニカも外側に行きたいと思う日が来るよ。その時のために、道を作ってくる」
アニカには、そんな日が来るとは到底思えなかった。
「そんな日、来ないよ。だって、私は」
「信じて、待ってて」
ルカは、アニカの言葉を遮った。
アニカが言おうとした事はわかる。
だって、私は捨てられたから。誰からも必要とされてないから。
この島の人は、みんなそうだ。自分の事を、世界中から見捨てられた存在だと思っている。でも、実際は違う。みんな大事で、必要だ。
だから、そんなふうに思わないでほしい。
夕暮れの時間は一瞬で、辺りは徐々に暗くなり、アニカの後ろには月の光がぼんやりと見えていた。