■内側:境目の記憶
司の家は代々馬の調教師をやっていた。馬主が持っているたくさんの馬を真っ直ぐ、速く走れるように訓練するその仕事を司は気に入っていたし、動物と心を通わせるのが得意だったので、一生この仕事をしていこうと思っていた。
ある時、いつものように馬の世話をしていると、美しい女性、つまりリズと出会い、二人は一瞬で恋に堕ちた。リズはある資産家の一人娘であり、許嫁がいるようなお嬢様だった。政略結婚なんていつの時代の話かと思ったが、実際にそれはあり、二人の恋路に明るい未来はなかった。身分違いの恋とか、格差恋愛とかいう、よくある話だ。二人に残された選択肢はふたつ。全てを捨てて二人で逃げるか、現実を受け入れて別れるか。二人は前者を選んだ。
二人で一緒に、どこか遠い国へ行くつもりで、船着場へ行った。そこで出会ったある船乗りが、遠く離れた場所にある絶海の孤島の話をしてくれた。
そこは、行き止まりの島と呼ばれていて、この世界で生きていけない人間が最後に辿り着く場所であり、世間から隔絶された場所なのだと。自分たちにぴったりの島だと思い、その島に止まるという船に乗り込んだ。定員十名くらいの小さなクルーザーで、乗っているのは五、六人ほどの乗客と、船乗りが一人だけ。何時間も船に揺られ、途中でいくつかの島に止まった。止まる度に一人、また一人と降りて行く。いくつ目かの島で最後の一人が下船して、最終的に乗客は二人になった。それからまたしばらく進み、遥か遠くに小さな島が見えて来たその時だ。船乗りは船を止め、ここまでしか行けないと言い出した。何もない、海の真ん中だ。どういう事かと問いただしても、船乗りは行きたくないの一点張りだ。でも司も譲れない。いくら島が見えていると言っても相当な距離があるし、リズを泳がせるわけにはいかない。あの見えてる島に行くだけじゃないかと船乗りをなんとか説得しようとすると、船乗りは不思議なことを言った。
———あんたには、あの船が見えないのか
司には船など見えない。
———何を言ってる? 俺には船など見えないが
船乗りは驚いたような顔をして、とりあえず船から降りろと言って聞かない。
降りろと言っても降りる場所がないから降りようもない。しばらく船乗りと問答していると、突然後ろの方から大きな汽笛が聞こえた。びっくりして振り向くと、そこには見たこともないような大きな船が、波に揺られているではないか。さっきまで何もなかった場所だ。司とリズは呆気に取られてただただ船を見上げていた。
———この船に、乗れって言うのか?
司が船乗りを振り返ると、そこには誰もいない。気付いたら、二人は海の上に立っていて、今まで乗っていた船はどこにも見当たらなかった。
周りをよく見ると、船はいくつか浮かんでいる。新品だったり、ボロボロだったり、大きかったり小さかったり様々だ。おそるおそる海の上を歩き、船の間を進んでいくと、男に声をかけられた。船乗りみたいな格好をした大男だ。肌は青白く、後ろ首は青い鱗で覆われている。人間ではないと一目でわかった。その男は、両手と両足、首の計五か所に太い錠を付けていた。
———久々に、人間か
男は気持ち悪い笑みを浮かべ、司とリズをまじまじと見つめてくる。司は咄嗟にリズの前に立ちはだかった。
———お前は誰だ?
———この境目の、門番さ
———門番だと?
門なんてどこにもないのに、おかしな話だと司は思ったが、何も言わなかった。
———最果ての島に行きたいのか
司は頷いた。
———それなら船が必要だ。船をやってもいいが、ただではやれない。お前たちの持っているものと引き換えだ
残念ながら身ひとつで来た二人は何も持っていない。どうしようかと困っていると、門番は続けた。
———金はいらん。俺が欲しいのは、お前たちの記憶だ
そう言われると、記憶を差し出す以外に選択肢がない。二人は困惑しながらも、門番の要求に応じる事にした。
———わかった。記憶を差し出そう。でも、いくつか教えてほしい。お前は門番というが、一体何者なんだ? なぜ記憶を取るなんて事をやっている?
門番はふんと鼻を鳴らして司を睨みつけた。
———どうせここで話した事は、お前はすべて忘れるのだから教えてやろう。俺は海の神。訳あって錠をはめられ、力を抑えられているが、本来はこんな境目なぞにいる存在ではないのだ
———境目? ここは、境目というのか
———お前、何も知らんのだな。この境目は、内と外の間にありし海域だ。境目は全ての海に繋がっているんだぞ
———その境目から、お前は出る事ができないということか?
———なんだお前、知りたがりか? まあ、いいだろう。俺は誰よりも強い。それを証明するために天界で少し暴れてやっただけなのに、あいつら俺をこんなせまっ苦しい場所に閉じ込めやがった。かれこれ五百年だ。いい加減飽きて来たぜ
———逃げ出せばいいだろう
———この錠が見えないのか? この錠は俺様の力を制限する。もし足の錠が外れたら境目の外へ行けるし、手の錠が外れたら、変化や飛翔の能力を解放できる。首を外したら、それはもう完全に自由だ
———へえ。それは、どうやって外すんだ?
———知らん
門番は吐き捨てるようにいった。
———鍵がいるのか? それとも、自力で壊すのか
———鍵穴なんてないからな。自力で壊すんじゃないか? そんな事ができる奴が、いるとは思えんが
———ちょっとやらせてもらえないか
———お前、正気か? 人間に外せるわけがないだろう
———それは、やってみないとわからない
なぜそんな事を言ったのかは自分でもよくわからない。腕力には自信があったから、もしかしたらと思ったのかもしれない。司は門番の右手首についてる錠を両手で力いっぱい捻って見せたが、びくともしない。錠はとてつもなく大きく分厚い。普通の人間にはどうにもできない代物だ。
———ほうら、無理だろう
門番は勝ち誇ったような顔をしていたが、心なしか安堵しているようにも見えた。錠を外したら、困る事があるとでもいいたげだ。
———もしこれを外せたら、お前は晴れて自由の身になるということか?
———この錠には使役の呪文がかかってるんでな。もし手足の錠を外す奴がいたら、俺はそいつに使役せざるを得ない
なるほど、そういう事か、と司は納得した。人間に使役されるなんて、こいつからしたら屈辱だろう。
———手足だけか?
———使役の呪文は、そうだな。手足だけだ。手足と首、全ての錠を外したら、俺は完全に自由になる
———そうか
———さあ、おしゃべりの時間は終わりだ。記憶を頂こうか
———記憶を取る理由をまだ聞いてない
———そんな事知るか。俺がここで出来ることは、記憶を取ることだけなんだ。出来る事をやっているに過ぎない
なんだ、その理屈は。そう思ったが、その瞬間に司とリズの記憶は門番によって奪われてしまった。
そのまま何もわからないまま、二人はこの島に流れ着き、時間の経過とともに過去のことを少しずつ思い出した。門番との話も、今ならはっきりと思い出せる。
そして、最近は思うのだ。あの錠は、ルカなら外せるのではないか、と。
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「十五年前、境目を通った時の事を覚えてる?」
リズの淹れてくれた紅茶を一口飲んで、司はリズに聞いた。
「その時の事は、あまり覚えてないわ」
リズが答えた。
「門番のこと、覚えてないのか?」
リズはううーんと考えていたが、やはり思い出せなかったようで、肩をすくめた。
「じいさんは? 自分が境目を通った時の事、覚えてるか?」
「俺は覚えてへんよ。寝とったんちゃうかな。だいたいみんな、寝てる間に境目を通り過ぎるみたいやで」
「そうか……」
門番の錠を外して、使役することが出来れば。
そんな考えが浮かんだが、リズに反対されるに決まっている。ルカが錠を外せる確証もない。
しかし、門番がいるあの海域を素通りすることはできない。境目は、全ての海に通じるといっていた。ということは、境目を出た後、家とは全然関係ない海に出る可能性もあるわけだ。そっちの方が危険じゃないか? それならいっそのこと、門番を味方に付けるのが確実なような気もする。何せ、海の神なのだから。
(ダメだな。堂々巡りだ)
司はひとまず考えるのをやめた。
「今日はいったんここまでとしよう。あと何日かすれば二人も記憶を思い出してくるだろうし、状況も変わる。それから考えたらいい」
「司、何か企んでる?」
さすが、リズは鋭い。でも今はまだ、司の胸の内をリズに話す事はできない。
「何を企むっていうんだよ? 基本的に俺はみんなと同じ考えだ」
司はドミニクとリズを交互に見て、笑って見せた。




