狩人の足音
バルガスに導かれ辿り着いた先は、下層街のさらに深く、忘れ去られた地下貯水池の跡地だった。 巨大な配管が血管のように張り巡らされ、天井からは鍾乳石のように錆びた鉄骨が垂れ下がっている。その広大な空洞に、信じがたい光景が広がっていた。
「……これは、街か?」
私は呆然と呟いた。 廃棄された蒸気機関のボイラーを改造した住居、鉄屑を溶接して作ったバリケード、そしてカビの生えた壁面に描かれた下手くそな地図。 薄暗い魔導ランプの明かりの下で、数百人もの人々が身を寄せ合って暮らしていた。
「『掃き溜め』へようこそ」
バルガスが得意げに腕を広げる。
「公爵家の管理から外れた、地図にない場所だ。ここには逃亡奴隷、犯罪者、そしてあんたのような『社会不適合者』が集まる」
私たちが足を踏み入れると、広場の喧騒がピタリと止んだ。 数百の瞳が、一斉に私へと注がれる。 恐怖、警戒、そして――期待。
「おい、見ろよ……あの青い髪」
「噂の『堕ちた公爵』か?」
「教会の装置をぶっ壊したって本当かよ……」
ざわめきが波紋のように広がる。 一人の老婆がおずおずと進み出て、泥だらけの手を合わせた。
「ああ、救世主様……! よくぞ来てくだされた!」
「……救世主?」
背筋が粟立つような違和感に、私は後ずさりそうになった。
「そうですじゃ! あの青い光、わしらは見ました! 悪魔の大司教を倒し、わしらの魂を解放してくださった!」
老婆が跪くと、周囲の人々も次々と膝を折り始めた。 まるで、かつて私が父の横で受けていた臣下の礼のようだ。だが、その意味はまるで違う。彼らは私を支配者としてではなく、縋るべき神として見ている。
「やめてくれ……!」
私は思わず叫んだ。
「私は救世主などではない! お前たちを搾取し、虐げてきた第七公爵家の人間だ! 恨まれこそすれ、崇められる謂れはない!」
沈黙が落ちた。 しかし、人々の熱っぽい視線は変わらなかった。彼らにとって、私が誰であるかは重要ではない。今の苦しみから救い出してくれる「力」であれば、何でもいいのだ。その盲目的な依存が、私には恐ろしかった。
「人気者は辛いな、レオンハルト様」
バルガスが冷やかすように肩を叩く。
「だが、利用できるものは利用しろ。あんたが旗を振れば、こいつらは動く。革命には『象徴』が必要なんだよ」
「……私は、彼らを弾除けにするつもりはない」
「甘っちょろいこと言うな。今は数が必要だ。さあ、奥へ行こうぜ。特別室を用意してある」
バルガスに促され、私たちは群衆をかき分けて奥の居住区へと進んだ。 アデールが心配そうに私の袖を引く。
「レオン、大丈夫?」
「……ああ。だが、重いな。彼らの期待に応えられる自信がない」
「あなたはもう、変わろうとしているわ。その姿を見せればいいのよ」
アデールの言葉に救われながら、私たちは廃材で作られた粗末な個室に入った。 リナをベッドに寝かせると、彼女は安心したのかすぐに寝息を立て始めた。首筋の青い刻印は、今は静かな光を放っている。
***
それから数時間が経過した。 バルガスは奥の研究室に籠り、私の「青き刻印」のデータを解析し始めた。私はアデールと共に、集まった人々への食糧配給を手伝っていた。 少しでも、罪滅ぼしになればと思ってのことだ。
「ありがとう、兄ちゃん」
配給のスープを受け取った少年が、無邪気に笑いかけてくる。 その笑顔を見るたび、胸の奥が痛んだ。この子の親も、もしかしたら私の父の命令で魂を抜かれたのかもしれない。
「精が出ますね、レオンハルト様」
声をかけてきたのは、三十代半ばほどの男だった。 痩せこけてはいるが、目つきには知性を感じさせる光がある。着ている服も、他の者より幾分か整っていた。
「私はギリアムと申します。元は公爵家の厨房で下働きをしておりました」
「そうか。なぜここに?」
「些細なミスで、魂を抜かれる対象になりましてね。その前に逃げ出したのです」
ギリアムは手際よくスープの鍋をかき混ぜながら、懐かしむように目を細めた。
「レオンハルト様のことは存じておりますよ。幼い頃、よく厨房に忍び込んで盗み食いをされていましたな。料理長に見つからないよう、机の下に隠れていらした姿をよく覚えています」
「……恥ずかしい過去を知られているな」
私は少しだけ肩の力を抜いた。彼のような、私を「神」ではなく「人間」として見てくれる存在は貴重だった。
「ここの連中は、明日の命も知れぬ者ばかりです。レオンハルト様が来てくれたことで、久しぶりに希望が見えたんですよ。どうか、彼らを導いてやってください」
「導く、か……。私にその資格があるかどうか」
「資格なんてものは、後からついてくるものです。今はただ、ここにいてくださるだけでいい」
ギリアムは温かい眼差しでそう言った。
その時だった。 広場の入り口付近で、男たちの怒号が上がった。
「おい! 何処へ行く気だ!」
「怪しい動きをするんじゃねえ!」
見ると、見張りの男たちが一人の若者を取り押さえていた。 若者は必死に何かを隠そうとしている。
「どうした!」
私が駆け寄ると、見張りは若者の懐から奪い取った「それ」を私に差し出した。 それは、掌サイズの小さな水晶板だった。 表面には複雑な紋様が刻まれ、微かに赤い光を点滅させている。
「……発信機か」
空気が凍り付いた。 これは公爵家の密偵が使う、位置情報を送信するための魔導具だ。
「違う! 俺じゃない! 拾ったんだ!」
若者が叫ぶ。だが、その顔色は土気色で、全身が震えている。
「嘘をつけ! さっきこいつに向かってブツブツ何か吹き込んでやがったのを見たぞ!」
見張りの男が若者を殴りつける。
「やめろ!」
私は男を制止し、若者の前に立った。
「なぜこんな物を持っている。誰に渡された」
「し、知らない……! 本当に知らないんだ……!」
若者は泣き叫ぶばかりで要領を得ない。 周囲の下層民たちの目が、次第に殺気を帯びてくる。
「こいつ、スパイだぞ!」
「殺せ! 俺たちの隠れ家を売る気だ!」
「裏切り者は吊るせ!」
怒号はすぐに「処刑」コールへと変わった。 長年虐げられてきた彼らの憎悪は、容易に暴走する。裏切り者に対しては、公爵家以上に残酷になれるのだ。
「待て! まだ事情を聞いていない!」
私が叫んでも、興奮した群衆の声には届かない。数人が若者を引きずり、即席の縛り首台へと連行しようとする。
「……レオンハルト様」
背後から、ギリアムが静かに声をかけた。
「ここは、彼らに任せるべきです。裏切り者を許せば、組織の規律が乱れます。指導者として、非情な決断も必要かと」
彼の言葉はもっともだ。 かつての私なら――貴族としての教育を受けた私なら、迷わず処刑を命じただろう。組織を守るために、不純分子を排除するのは当然の論理だ。
だが。 私の脳裏に、リナの顔が浮かんだ。 『理由があれば、人を殺していいの?』 彼女の問いが、心臓を鷲掴みにする。
「……いや、違う」
私は群衆の前に躍り出た。魔導銃を抜き、天井に向けて威嚇射撃を行う。 バシュッ! 青い閃光と破裂音が、広場の喧騒を切り裂いた。
「全員、離れろ!」
静まり返った広場で、私は若者の前に立ちはだかった。
「まだ何も確定していない。彼を殺せば、私たちはあいつら――公爵家と同じになる!」
「でもよぉ! こいつは発信機を持ってたんだぞ!」
「あんたたちを危険に晒すんだぞ!」
「だからこそだ!」
私は声を張り上げた。
「恐怖で支配し、疑心で殺し合う。それが父のやり方だ。私たちは違うはずだ! 仲間を信じ、守るために集まったんじゃないのか!」
群衆が動揺し、顔を見合わせる。 私は震える若者の肩を掴み、目を覗き込んだ。
「正直に言え。これはお前のものか?」
若者は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、小さく首を振った。
「ちが……違うんだ……。俺、寝てたら……誰かがポケットに……」
「誰かが入れた?」
「わかんねぇ……でも、俺じゃない……信じてくれよぉ……」
彼の目は嘘をついているようには見えなかった。 恐怖に支配されている者の目だ。 もし彼が本当にスパイなら、もっと上手くやるか、自決用の毒でも飲んでいるはずだ。こんなにあからさまに発信機を見せびらかすような真似はしない。
これは、罠だ。 誰かが内部に不和の種を蒔こうとしている。
「……レオンハルト様、甘いですよ」
ギリアムの声が、少し冷たく響いた。
「疑わしきは罰せよ。それが安全を確保する唯一の道です。もし彼が本当にスパイで、敵を引き入れたらどうするのです?」
「その時は、私が責任を取る」
私は断言した。
「だが、無実の者を殺すことだけは、絶対にしない」
ギリアムは一瞬、呆れたように溜息をついたが、すぐに元の穏やかな表情に戻った。
「……そこまで仰るなら。しかし、彼を拘束し、監視下に置くことは必要でしょう」
「ああ、それは構わない。バルガスの部屋の近くに監禁しよう。私が監視する」
一件落着したかに見えた。 若者は連行され、人々は不満げながらも散っていった。
だが、私の胸のざわめきは消えなかった。 誰が発信機を入れたのか。 本当に内部に敵がいるのか。
その夜。 私は眠れず、一人で広場の隅に座り込んでいた。 アデールとリナは奥の部屋で休んでいる。 魔導銃の手入れをしていると、暗闇から足音が近づいてきた。
「眠れませんか、レオンハルト様」
ギリアムだった。彼は湯気の立つカップを二つ持っていた。
「温かいハーブティーです。少しは気が休まるかと」
「……すまない。助かる」
私はカップを受け取った。温かさが冷えた指先に染み渡る。 ギリアムは私の隣に腰を下ろし、天井の配管を見上げた。
「昼間のご判断、立派でした。私は厨房で働いていた時、些細なミスで同僚が処刑されるのを何度も見てきました。……貴族とは違う、新しい主の在り方を見た気がします」
「買い被るな。私はただ、これ以上血を見たくなかっただけだ」
「それが大事なのです。……ですが、優しさは時に隙を生みます」
ギリアムの声が、ふと低くなった。 何かがおかしい。 私の本能が警鐘を鳴らす。 カップに口をつけようとした手を止めた。
「レオンハルト様、どうなさいました? 冷めますよ」
ギリアムは手を伸ばし私に飲むよう促した。彼の手は黒い手袋を着けていた。
「……ギリアム。お前、厨房で働いていたと言ったな」
「ええ、そうですとも」
「私が幼い頃、盗み食いしていたと」
「ええ」
「私はあの時、何を盗み食いしていた?」
一瞬の沈黙。 ギリアムの瞳が、答えを探るように左上に動いた。
「……可愛らしいタルトでしたね。苺の乗った甘いタルトを、口いっぱいに頬張っておいででした」
ギリアムは自信たっぷりに答えた。 それが、彼の正体を決定づけた。
「……私は、タルトが大嫌いなんだ」
空気が凍り付いた。
「甘いものが苦手でね。厨房で盗み食いしていたのは、決まって塩漬け肉の燻製だった。」
ギリアムの表情から、穏やかさが消え失せた。 代わりに浮かび上がったのは、爬虫類のような冷徹な笑み。
「おや、調査不足でしたか。」
「誰だ、お前」
私はカップを投げ捨て、腰の魔導銃に手を伸ばそうとした。 しかし――。
「……っ!?」
指が動かない。 いや、指だけではない。腕が、肩が、鉛のように重い。 カップを握っていた右手が、自分の意志を離れてだらりと垂れ下がった。 視界が揺らぐ。地面が斜めに見え、私は地面に崩れ落ちた。
「な……にが……」
痺れは指先から爆発的に広がり、心臓へと這い上がってくる。 私は地面に這いつくばりながら、自分の右手を見た。カップの取っ手を握っていた掌が、赤黒く変色している。
「遅いですよ、坊ちゃん。あなたの魔導銃は桁違いに威力が高いと聞く。封じさせてもらいましたよ」
ギリアムが立ち上がる。その手には、昼間若者が持っていたものと同じ、赤い光を放つ水晶板が握られていた。いや、それよりも遥かに光が強い。
「あの子僧の懐に発信機を入れたのは私です。この掃き溜めはひどく退屈だったので騒ぎを起こして遊ばせてもらいました」
「貴様……公爵の……!」
「『掃除屋』の先遣隊、とでも呼んでください。クラウス様が到着するまでの道しるべを作るのが私の仕事です」
ギリアムが水晶板を高く掲げた。 強烈な赤色の閃光が、地下空洞の天井を照らし出す。 それは「ここにいる」という、明確な合図だった。
「やめろ……ッ!」
私は痺れる体を引きずり、ギリアムの足に飛びついた。 だが、彼は軽蔑したように私を蹴り飛ばした。
「ぐあっ……!」
「さて、合図は送りました。あと数分もすれば、ここの天井を突き破って『本隊』が降ってくるでしょう」
ギリアムは愉悦に歪んだ顔で私を見下ろした。
絶望が視界を黒く染める。
ズズズズズ……。
地響きが始まった。 天井の錆びた鉄骨が悲鳴を上げ、パラパラと塵が落ちてくる。 狩人が、来たのだ。
「さあ、ショーの始まりです。第七公爵家による、害虫駆除の時間のね」
ギリアムの高笑いが響く中、天井の一部が爆音と共に崩落した。 巨大な瓦礫と共に、真紅の魔導鎧を纏った兵士たちが、悪夢のように降り注いでくる。
私は霞む視界の中で、ただ魔導銃を握りしめることしかできなかった。




