共鳴する魂
地下通路の淀んだ空気が、氷点下に達したかのような鋭い冷気を帯び始めた。 私は魔導銃を構えたまま、闇の奥から響く足音に全神経を集中させていた。
カツ、カツ、カツ。
あまりに規則的で、あまりに冷静な足音。 水たまりを踏む音さえ抑制されたその歩法は、まるで精密機械が迫ってくるかのようだ。
「……やはり、お前か」
闇の中から現れたシルエットに、私は乾いた笑みを向けた。 完璧に糊の効いた燕尾服。白手袋に包まれた手には、銀細工の施された細身の杖。そして、感情の一切を削ぎ落とした鉄仮面のような無表情。 公爵家執事長、クラウス。 幼少期より私に剣術と魔導、そして「貴族としての振る舞い」を叩き込んだ師であり、父の懐刀と呼ばれる男だ。
「レオンハルト様。お召し物が汚れておいでです」
クラウスは、まるでモーニングティーを運んできた時と同じトーンで言った。 殺気など微塵もない。だからこそ恐ろしい。彼にとって「私を殺すこと」は、掃除や洗濯と同じ、ただの業務なのだ。
「お前が掃除屋とはな。父上も随分と私を買い被ったものだ」
「買い被りではありません。確実な処理のための最適解です。他の者では、情に流される可能性がありますから」
クラウスが杖を軽く振るうと、先端から真紅の魔導刃が伸びた。 公爵家の魔導技術の結晶である仕込み杖。その切れ味を、私は身を持って知っている。
「情、か。お前には無縁の言葉だな」
「ええ。私は公爵家の影。影に心は不要です」
次の瞬間、クラウスの姿が掻き消えた。 いや、速すぎるのだ。 思考するよりも早く、体が記憶していた訓練の通りに反応する。私は魔導銃を盾にして、左側頭部への一撃を辛うじて受け止めた。
ガギィッ!!
凄まじい衝撃が腕を駆け上がり、骨がきしむ音が脳内に響く。 魔導銃のフレームが火花を散らす。
「反応速度は悪くない。ですが、踏み込みが浅い」
クラウスの声は既に背後にあった。 旋回して銃口を向けるが、遅い。脇腹に杖の石突きが深々と突き刺さる。
「ガハッ……!」
肺の中の空気が強制的に排出され、私は汚水の中へ転がった。 立ち上がろうとするが、追撃の蹴りが顎を掠め、視界が明滅した。
「魔導の出力も低下している。今のあなたは、訓練生以下です」
クラウスが見下ろしている。 その目に軽蔑はない。ただ「壊れた不良品」を見る事務的な眼差しがあるだけだ。 勝てない。 分かっていたことだ。万全の状態でも勝てるか怪しい相手に、魔力も体力も枯渇した状態で挑むなど、自殺行為に等しい。 だが、ここで引くわけにはいかない。 背後の扉の向こうには、アデールとリナがいる。
「……まだだ」
私は震える足で立ち上がり、魔導銃を構え直した。 左手の青い血管がドクドクと脈打ち、痛みを訴える。
「往生際が悪いですね。貴族の散り際としては美しくない」
「貴族であることは辞めた。今はただの……足掻く人間だ!」
私は引き金を引いた。 残った魔力を全て込めた青い光弾。だが、クラウスは最小限の動きでそれを躱し、流れるような動作で私の懐へ飛び込んできた。
「無駄です」
杖の刃が、私の心臓を貫こうと迫る。 死の冷たさが肌を刺したその時――。
***
「いやぁぁぁっ!!」
地下隠れ家に、リナの悲鳴が響き渡った。 彼女は飛び起きるなり、何もない虚空に向かって手を振り回した。
「来ないで! 殺さないで! 私は……私は何もしていないのに!」
「リナ! リナ、落ち着いて! ここは安全よ!」
アデールがリナの肩を抱き寄せ、必死に呼びかける。 リナの瞳孔は開ききっていた。教会の惨劇、仲間の死、そしてグンドゥールの触手の記憶が、悪夢となって彼女を苛んでいるのだ。
「いや……熱い……痛い……ミーシャが……カイルさんが……!」
リナの暴れる手足がアデールを打つ。 だがアデールは離さなかった。彼女の首筋にある灰色刻印が、異常な速さで明滅し、どす黒い光を放っている。魂の崩壊が始まろうとしていた。
「おい、アデール嬢! 抑えろ! 発作だ!」
バルガスが扉の解錠作業の手を止め、叫んだ。
「分かってる!」
アデールはリナを強く抱きしめ、自らの青い刻印をリナの背中に押し当てた。 自分の魔力を分け与え、リナの魂を安定させる。それはアデール自身の生命力を削る行為だったが、躊躇はなかった。
(お願い、鎮まって……! リナの心を壊さないで!)
アデールの意識が、リナの中に流れ込んでいく。 深い闇。恐怖。寒さ。 リナが感じている絶望的な孤独が、アデールの心に直接響いてくる。 ――どうして私たちが死ななきゃいけないの? ――どうして誰も助けてくれないの?
「助けるわ……私が、レオンが、あなたを絶対に守るから!」
アデールは心の中で叫び返した。 その時、彼女は感じた。 リナの絶望の底に、微かな「熱」があることを。 それは恐怖ではなく、怒り。そして「生きたい」という強烈な渇望。
同時に、別の感覚がアデールの中に飛び込んできた。 扉の向こう。 血の匂い。打撃の痛み。 レオンハルトの「死の予感」。
(レオン……!?)
レオンハルトの命が消えかけている。 その事実は、恐怖に震えていたリナの魂をも揺さぶった。 リナにとって、レオンハルトは自分を地獄から救い出してくれた唯一の光。彼を失うことへの恐怖が、自身の死への恐怖を上回ったのだ。
――死なせない。 ――レオンハルト様を、死なせたくない。
リナの心が叫んだ瞬間、奇跡が起きた。 アデールの青い刻印が、かつてない強さで輝き始めたのだ。 それだけではない。 アデールの腕の中で震えていたリナの首筋――灰色の刻印に、青い光が伝播していく。 まるで火が燃え移るように。灰色が浄化され、鮮烈な蒼碧へと変色していく。
「なっ……なんだ、こりゃあ……!?」
バルガスが目を見開く。
「灰色の刻印が……書き換わっている!?」
アデールは理解した。 これは一方的な「供給」ではない。 リナの「守りたい」という意志が魔力となり、アデールを介して増幅され、そして――。
「レオンに……届けて!!」
***
死が目前に迫っていた。 クラウスの魔導刃が、私の胸を突き刺す寸前で止まっていた。 いや、止めたのではない。 私の左手から噴出した光の奔流が、物理的な壁となって刃を押し留めていたのだ。
「……ッ!?」
初めて、クラウスの無表情が崩れた。 眉がわずかに上がり、彼は後方へと大きく跳躍した。
「熱……?」
私の左手が、焼けるように熱い。 だが、それは不快な痛みではなかった。 血管の中を、誰かの温かい血が巡っているような感覚。 心臓の鼓動に合わせて、ドクン、ドクンと、底なしの力が湧き上がってくる。
(アデール……? いや、これは……リナか?)
頭の中に、二人の声が響く気がした。 アデールの祈りと、リナの叫び。 二つの魂が、私の青い刻印を中継点として繋がり、私の枯渇していた魔力を強制的に満たしていく。 魔導銃の残弾計があり得ない速度で回復し、限界値を超えて赤く警告灯を点滅させた。
「馬鹿な……。魔力反応が急上昇している? 外部からの供給ラインは断たれているはず……」
クラウスが分析するように呟く。 彼の赤い刻印が輝き、周囲の空間から魔素を奪おうとする。 だが、できない。 この場の魔素はすべて、私の――いや、私たちの青い光に支配されていた。 「奪う」力と「共有する」力。 その性質の違いが、この閉鎖空間で逆転現象を引き起こしていた。
「教えてやるよ、クラウス」
私は魔導銃を構えた。 銃身が青い光を纏い、バチバチと放電している。
「これが、『情』の力だ」
引き金を引く。 放たれたのは弾丸ではなかった。 極太の青いレーザーのような閃光が、地下通路の闇を切り裂き、一直線にクラウスへと向かう。
「くっ……!」
クラウスは防御障壁を展開する。 赤い魔力障壁と、青い閃光が激突する。 凄まじい衝撃波が通路を揺らし、天井からパラパラと土砂が降り注いだ。
「ぐぅぅ……!」
クラウスの足が、泥水を削りながら後退する。 彼の完璧な防御が、ヒビ割れていく。 貴族の絶対的な支配力が、下層民たちの「想い」の塊に押されている。
「あり得ない……。個の力が、これほどまでに……!」
「一人じゃない!」
私は叫び、さらに魔力を込める。 背中からアデールとリナが支えてくれている感覚。 その重みが、私を立たせている。
パリンッ!
ガラスが割れるような音と共に、クラウスの障壁が粉砕された。 閃光が彼の燕尾服を掠め、背後の壁を爆破する。 爆風に煽られ、クラウスの体は木の葉のように吹き飛ばされた。
土煙が晴れると、そこには片膝をつくクラウスの姿があった。 燕尾服の袖は焼け焦げ、常に整えられていた髪が乱れている。 彼は口元から垂れる血を、手袋の背で静かに拭った。
「……計算外です」
クラウスは揺らぐ足取りで立ち上がった。 まだ戦うつもりか。戦慄が走る。 だが、彼の視線は私の背後――ようやく開いた鉄扉に向けられていた。
「どうやら、これ以上の戦闘は任務の遂行率を著しく下げると判断せざるを得ません」
彼は懐から煙幕弾のようなものを取り出した。
「本日はここまでと致しましょう、レオンハルト様。ですが、お忘れなく。公爵家が本気になれば、このような奇跡は二度は起きない」
「待て!」
私が踏み出すと同時に、煙幕が炸裂した。 赤い煙が充満し、視界を奪う。 風魔法で煙を吹き飛ばした時には、既にクラウスの気配は消え失せていた。
「……逃げたか」
緊張の糸が切れ、私はその場に膝から崩れ落ちた。 魔導銃が手から滑り落ち、水たまりに音を立てる。 左手の刻印はまだ熱を持っていたが、先ほどの激流のような力は鳴りを潜めていた。
「レオン!」
扉の向こうから、アデールが飛び出してきた。 その後ろには、バルガスに支えられたリナの姿もある。
「無事か……?」
私が問うと、アデールは涙目で何度も頷き、私に抱き着いた。
「よかった……本当によかった……!」
「レオンハルト様……」
リナが弱々しい声で呼ぶ。 見ると、彼女の首筋にあったはずの灰色刻印は、今は透き通るような淡い青色に変わっていた。
「リナ、その刻印……」
「私……分かりません。ただ、お二人が危ないと思ったら、体が熱くなって……」
リナは自分の手を見つめ、戸惑っている。 バルガスが口笛を吹いた。
「驚いたな。仮説がいきなり実証されちまった」
彼は私の傍らにしゃがみ込み、興味津々に私の左手とリナの首筋を見比べた。
「『感情による魔力回路の接続』。そして『権限の書き換え』だ。レオンハルト様、あんたの青い刻印は、感染するぜ」
「感染……?」
「ああ。あんたが『守りたい』と思い、相手も『守りたい』と願った時、パスが繋がる。そしてその繋がりが、下位の灰色刻印を上位の青へ進化させるんだ」
バルガスはニヤリと笑った。
「こいつは革命の種火だ。たった三人で、あのクラウスを撃退したんだからな」
私は自分の左手を握りしめた。 父の「赤」は、他者を犠牲にして個を強化する力。 私の「青」は、他者と繋がり、互いを強化する力。 これなら――勝てるかもしれない。 あの巨大なシステムに。
「長居は無用だ。クラウスが引いたとはいえ、増援が来ない保証はない」
私は立ち上がった。 体の痛みは酷いが、心はかつてないほど澄んでいた。
「行こう。まずは安全な場所へ」
「安全な場所なんて、この下層街にあるのかしら?」
アデールが不安げに聞く。
「あるさ」
バルガスが親指で通路の奥を指した。
「俺の研究室の『本館』だ。そこなら、あんたらの新しい力を詳しく調べられるし、追手も撒ける。それに……」
バルガスは意味深に言葉を区切った。
「あんたらの噂を聞きつけて、公爵家に不満を持つ連中が集まってきてる場所でもある」
「反乱軍、か」
「まだ『軍』なんて大層なもんじゃねえ。ただの烏合の衆だ。だが、指導者がいれば変わるかもしれん」
私はリナとアデールを見た。 二人は黙って私を見つめ返した。その瞳には、私への信頼が宿っていた。
「案内してくれ、バルガス」
灰色の絶望に覆われたこの街で、青い灯火が静かに、しかし確実に燃え広がろうとしていた。




