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刻印の檻  作者: かかかと
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灰色の街の灯

下層街の空は、今日も重い鉛色に塗り潰されていた。 公爵邸から逃げ延びて三日。私たちは廃墟と化した紡績工場の地下倉庫に身を寄せていた。かつて蒸気機関が唸りを上げていたであろうこの場所は、いまや油と鉄錆、そしてカビの臭いが充満する静寂の墓場だった。


「……う、うぅ……」


毛布代わりの麻袋に包まれたリナが、浅い呼吸と共にうなされる。彼女の額には脂汗が浮かび、首筋の灰色刻印が不規則に明滅していた。まるで壊れかけのランプのように、彼女の生命力が不安定に揺らいでいる証拠だ。


「熱が引かないわね」


アデールがリナの額に濡れ布巾を乗せながら、疲労の滲む声で呟く。彼女自身の顔色も透き通るほど蒼白い。リナを救出する際の戦闘、そして逃走劇による魔導の消耗は、彼女の体を蝕んでいた。


「公爵邸からの配給パイプが止まった影響か」


私が問うと、アデールは無言で頷いた。 下層民の命を繋ぐのは、わずかな食料と、公爵家が管理する「魔導循環システム」から漏れ出る微弱な魔素だ。彼らは魂の一部を捧げる代償に、生体活動を維持するためのエネルギーを環境から得ている。いわば、飼い主から餌を与えられる家畜と同じ構造だ。 私が父との「交渉」で供給システムの一部を破壊し、循環を乱したことが、皮肉にもリナのような虚弱な下層民を苦しめていた。


「皮肉なものだ。彼らを救うために牙を剥いた結果が、この有様とは」


自嘲気味に吐き捨て、私は自分の手の甲を見る。 かつて絶対的な支配力を誇った赤き刻印は消え失せ、今はただの皮膚がそこにあるだけだ。いや、感情が高ぶるとうっすらと浮かび上がる青い血管の紋様――「青き刻印」の残滓が、私がいまや貴族社会の異物であることを告げている。


「レオン、自分を責めないで。あのまま教会が稼働していれば、リナはとっくに『燃料』にされていたわ」


アデールが私の手に自身の冷たい手を重ねる。 その温もりに救われると同時に、焦燥感が胸を焼いた。 食料が尽きかけている。水も残り少ない。リナには栄養価の高い食事と、清潔な包帯が必要だ。それに、この隠れ家もいつまで安全か分からない。父は必ず、私たちを泳がせたことを後悔させるような仕打ちを用意しているはずだ。


「外へ出てくる。食料と、情報を集めなければ」


「待って。一人で行くつもり? あなたの顔は割れているわ」


「フードを目深に被れば分からないさ。それに、この街の現状をこの目で見ておきたい。私が壊した世界が、どうなっているのかを」


アデールは何か言いたげに唇を開きかけたが、私の決意が固いことを悟ると、短く溜息をついて懐から小さな小瓶を取り出した。


「これを。私の血を薄めたものよ。魔導力が切れた時の気付け薬にはなるわ」


「……ありがとう。アデール、リナを頼む」


私は錆びついた鉄扉を押し開け、灰色の街へと足を踏み出した。


***


地上に出ると、腐敗臭が鼻を突いた。 以前訪れた時よりも、空気の澱みが増している。贖罪教会という精神的・物理的な支柱を失った下層街は、重しを失った船のように混沌の海を漂っていた。


路地裏には、虚ろな目をした人々が座り込んでいる。 彼らの手の甲にある灰色刻印は、どれも黒ずみ、光を失っていた。魂の循環が滞り、生きる気力そのものが枯渇し始めているのだ。


「おい、見ろよ……あいつ、パンを持ってるぞ」 「よこせ! 俺のガキが飢えてるんだ!」


路地の向こうで怒号が響く。 数人の男たちが、一人の老婆を取り囲んで暴行を加えていた。奪い合っているのは、カビの生えたパンの欠片だ。 衛兵の姿はない。公爵家は意図的に治安維持を放棄し、下層民同士が共食いする様を静観しているのだ。


(これが、父のやり方か……)


秩序なき自由は、ただの地獄だ。父はそう言いたげに、この惨状を作り出している。


私は衝動的に懐の魔導銃に手を伸ばしかけ――止めた。 今の私には、彼らを鎮圧する権威も、全員を救う力もない。ここで発砲すれば、身元が露見し、アデールたちまで危険に晒すことになる。 唇を噛み締め、私は路地の影に身を潜めながら、老婆が殴られる音を背に歩を進めた。 無力感。それが鉛のように胃の腑に溜まっていく。


目的地の市場は、すでに機能停止していた。 商店の棚は略奪され、ガラス片が散乱している。私は瓦礫の山を漁り、奇跡的に残っていた缶詰と、雨水を溜めた瓶を数本確保した。 これだけでは、三人が生き延びるには数日も持たない。


「……貴族様が、ゴミ漁りとは感心しないな」


不意に、背後からしゃがれた声が掛かった。 心臓が跳ね上がる。気配はまったく感じなかった。 私は反射的に魔導銃を抜き、背後へと銃口を向ける。


そこに立っていたのは、ボロ布のようなローブを纏った男だった。 年齢は四十代半ばだろうか。伸び放題の白髪混じりの髪と髭。その隙間から覗く瞳は、まるで死んだ魚のように濁っていたが、奥底には冷徹な理性の光が宿っていた。 手には奇妙な機械――歯車と魔導石を組み合わせた義手のようなもの――が握られている。


「誰だ」


「通りすがりの屑拾いさ。あんたと同じでね」


男は銃口を向けられても動じることなく、私の顔をじろじろと観察した。


「第七公爵家のレオンハルト様。お尋ね者の賞金首が、こんな不用心に歩き回っていていいのか?」


「……金目当てなら、相手を間違えたな。今の私には賞金を払う価値もない」


「金? はっ、そんな紙切れに興味はない」


男は鼻で笑うと、持っていた機械を放り投げた。 「俺が興味あるのは、あんたのその『右手』だ」


男の視線が、私の手の甲――青き刻印が眠る場所に突き刺さる。 こいつ、知っているのか?


「あんた、教会の聖別装置をぶっ壊した時に『青い光』を出したそうだなぁ。下層街じゃあ、救世主だの死神だのと噂で持ち切りだ」


「……噂など信じるな。ただの事故だ」


「事故で赤き刻印のシステムに干渉できるわけがない。あれは明らかに、上位権限による上書きだ」


この男、ただの浮浪者ではない。 私は警戒を強め、引き金に指をかけた。


「何者だ。公爵家の回し者か?」


「ククッ……あんな堅苦しい連中と一緒にすんな。俺の名はバルガス。昔、ほんの少しだけ『あちら側』で研究の真似事をしていただけの、しがない脱落者さ」


バルガスと名乗った男は、ローブの袖をまくり上げた。 そこにあるべきものが、なかった。 灰色でも、赤でもない。 彼の手の甲には、火傷でただれたような醜いケロイドが広がっており、刻印の痕跡すら残っていなかったのだ。


「な……刻印が、ない?」


この国の人間は、生まれた瞬間に「灰色」を刻まれ、選ばれた者だけが「赤」へと書き換えられる。刻印を持たない人間など、存在し得ないはずだ。


「驚いたか? 自分で削ぎ落としたんだよ。薬品と魔導メスを使ってな」


バルガスはケロイドの跡を愛おしそうに撫でた。


「公爵家の支配から逃れるには、受信機そのものを壊すしかない。ま、おかげで魔導の恩恵は一切受けられないし、街の空気吸ってるだけで肺が焼けるように痛むがね」


「無刻印……」


「そう呼ばれていた時期もある。レオンハルト様、あんたは今、壁にぶち当たってるはずだ。物資はない、戦力もない、隠れ家も早晩バレる。そうだろ?」


図星だった。 私は銃を下ろさずに問う。


「私に何を求めている」


「取引だ。俺には隠れ家と、多少のマシな食い物、そして公爵家の裏情報がある。あんたには『青い刻印』という未知のサンプルがある。俺にその刻印を調べさせろ。その代わり、あんたらの生存率を少しばかり上げてやる」


「断ると言ったら?」


「ここで野垂れ死ぬか、衛兵に見つかってミンチになるかだ。さっきの交差点、ありゃあ公爵家の『掃除屋』が巡回ルートに入れてる場所だぜ。あと五分もすれば、生体探知機を持った部隊が来る」


彼の言葉に嘘はないように思えた。 何より、この男からは「絶望」の匂いがしなかった。この灰色の街で唯一、独自の論理で生きている強さを感じた。


「……アデールとリナ。連れが二人いる。彼女たちの安全も保障できるか?」


「女連れか。狭いアジトだが、死体置き場よりはマシだ」


私は魔導銃を収めた。 賭けに出るしかない。このままジリ貧で全滅するより、得体の知れない「無刻印」の手を借りる方が、まだ勝機がある。


***


バルガスの隠れ家は、廃棄された地下水路の奥にあった。 迷路のような通路を抜け、重厚な鉛の扉を開けた先には、驚くべき光景が広がっていた。 壁一面に並ぶフラスコや試験管、怪しげな液体が泡立つビーカー、そして解体された衛兵の魔導鎧のパーツ。 まるで、マッドサイエンティストの実験室だ。


「歓迎するぜ、反逆者御一行様」


バルガスは薄汚れたソファを指差した。 私はアデールとリナを連れて合流し、ここまで案内されたのだ。リナはまだ意識が朦朧としており、アデールが肩を貸してようやく立っている状態だった。


「ひどい顔色だな。刻印欠乏症だ」


バルガスはリナを見るなりそう診断し、棚から怪しげな青紫色の液体が入った注射器を取り出した。


「な、何をする気だ!」


私が止めに入ろうとすると、バルガスは冷淡に言った。


「合成魔素液だ。純正品じゃねえが、発作を抑えるくらいはできる。死なせたくないなら黙って見てな」


彼はリナの腕に手際よく針を刺した。 数秒後、リナの呼吸が穏やかになり、首筋の明滅が落ち着きを取り戻す。


「……ありがとう」


アデールが安堵の息を吐き、礼を言った。


「礼はいい。あとでその青い刻印のデータで払ってもらう」


バルガスは興味なさげに手を振り、固形食料の包みを放り投げてきた。


「軍の放出品だ。味は保証しねえが、栄養はある」


私たちは貪るようにそれを食べた。乾燥した肉のような、おがくずのような味がしたが、今の私たちにはご馳走だった。


一息ついたところで、私はバルガスに向き直った。


「あんたは元研究員だと言ったな。公爵家で何をしていた?」


バルガスは作業机でガラクタをいじりながら答えた。


「『魂の再利用技術』の開発だ。死んだ下層民の魂を、効率よく魔導燃料に変換するフィルタの研究……ま、クソみたいな仕事さ」


「……それを、知っていて協力していたのか」


「知らなきゃ研究なんてできねえよ。だがな、ある時気づいたんだ。このシステムには『穴』があるってな」


「穴?」


バルガスは手を止め、こちらを振り返った。その濁った瞳が、鋭く光る。


「赤き刻印は『一方通行』だ。公爵家が命令し、下層民が従う。魔力を吸い上げ、搾取する。完全なピラミッド構造だ。だが、あんたの青い刻印は違う。教会の記録映像を見たが、あれは『逆流』を起こしていた」


「逆流……」


「あんたは魔力を奪うどころか、周囲の刻印と共鳴し、逆に魔力を分け与えていた形跡がある。アデール嬢の鎖もそうだ。あれは『結合』と『共有』の力だ」


言われてみれば、心当たりはあった。 地下聖堂でアデールが目覚めた時、彼女の力は私の中に流れ込んできた。教会でグンドゥールと戦った時も、リナを助けたいと願った瞬間に力が溢れた。 父の力が「奪う」ものだとしたら、私たちの力は「分かち合う」ものなのかもしれない。


「それがどうしたと言うんだ。いくら分かち合っても、絶対量が足りない。父の力は圧倒的だ」


「今はな」


バルガスはニヤリと笑った。


「だが、もしその『共有』のネットワークを、この街全体に広げられたらどうなる? 一人の力は微々たるもんだが、一万人の下層民が魔力を共有し、一つの意思で束ねられたとしたら?」


想像し、戦慄した。 それはもはや、単なる暴動ではない。 巨大な一つの生命体としての反撃。


「それが『青き刻印』の真価だとしたら、公爵が血眼になってあんたを消そうとするのも頷ける。あんたは、この階級社会を根底から覆す『ウイルス』なんだよ」


ウイルス。 私が、この世界を壊す毒。


「……面白い仮説だ」


私は拳を握りしめた。


「だが、そのためには私が生き延び、力を使いこなせるようにならなければならない」


「その通り。だから協力してやる。俺はこの街の地下構造、古い魔導回路の配置図を持っている。あんたの力を増幅させるための『増幅器』を作れるかもしれん」


バルガスは机の上に広げられた羊皮紙――下層街の地図を指でなぞった。


「まずは生き残れ。そして、力を蓄えろ。公爵家が次の手を打ってくる前にな」


その時、隠れ家の入り口に設置された警報装置が、けたたましい音を立てた。赤いランプが回転し、壁に不吉な影を落とす。


「……噂をすれば、か」


バルガスが舌打ちをした。


「『掃除屋』のお出ましだ。予想より早いな」


「ここもバレたのか?」


「いや、入り口のセンサーに引っかかっただけだ。だが、ここを嗅ぎまわっていることには変わりねえ」


私は立ち上がり、魔導銃を手に取った。 魔力はまだ完全には回復していない。だが、戦うしかない。


「アデール、リナを守ってくれ。バルガス、裏口はあるか?」


「あるにはあるが、瓦礫で塞がってる。開けるには時間がかかるぞ」


「私が時間を稼ぐ。その間に通路を確保してくれ」


「おいおい、死ぬ気か? 相手は衛兵とはわけが違うぞ」


「死にはしない」


私はフードを目深に被り直し、震える手を強く握りしめた。


「私はまだ、何も成し遂げていない。こんなところで終わるわけにはいかないんだ」


アデールが不安そうに私を見上げる。 「レオン……」


「大丈夫だ。すぐ戻る」


私は彼女に無理やり作った笑顔を見せ、鉛の扉を開けた。 冷たい地下通路の空気が流れ込んでくる。その風の向こうに、金属が擦れる不快な音と、圧倒的な殺気が近づいてくるのを感じた。


それは、ただの衛兵ではない。 もっと静かで、鋭利な、洗練された殺意。 私の背筋に、嫌な予感が走った。この気配を知っている気がする。 かつて、剣の握り方を、銃の構え方を、貴族としての冷徹さを教えてくれた、あの男の気配に――。


私は闇の中へ足を踏み出した。

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