プロローグ
メイドのリナが銀盆を揺らしながら寝室に入ってきた時、私は窓際で第七公爵家の紋章入り絨毯を踏みしめていた。下層街から立ち上る灰色の煙が、窓ガラスに不規則な模様を描いている。
「レオンハルト様、本日の魔導訓練が始まります」
彼女が差し出した魔導銃の手入れキットに、指が不自然に震えた。先週の粛清現場で見た第三階級の子供たちの鎖型刻印が、リナの首筋に残る淡い瘢痕と重なる。
「その傷跡」
思わず口を滑らせた。
「痛みはないのか?」
リナの手が銀盆の縁で白くなる。
「お気遣いありがとうございます 古傷でございます」
彼女の袖がずれ、腕に広がる灰色の鎖模様がちらりと見えた。訓練場へ向かう廊下で、なぜか父の書斎から漏れる甘ったるい薔薇の香りが鼻を刺した。
訓練場の硝子天井から差し込む陽光が、鉄鎖に繋がれた少年の額を照らしていた。年は私と同いぐらいか。粗末な麻の着物の下から、鎖型の灰色刻印がくすんだ光を放っている。
「貴族の義務を見せてやれ」
父の革手袋が肩に食い込む。
「魂の選別は秩序維持の礎だ」
手渡された魔導銃の重みが掌に鈍痛を走らせる。少年が顔を上げた瞬間、私は喉元で血の味を感じた
「発砲するがいい」
祖父の杖音が石床を打つ。
「灰色刻印は赤き刻印の力を阻めぬ」
引き金に力を込めた刹那、左手が熔けた鉛のように熱くなった。手の甲の刻印が、赤からわずかに青みを帯びる。夢で見たあの紋様だ。
「ああッ!」
叫び声と共に銃口が暴れた。弾丸は少年の耳を掠め、後方の聖像を砕いた。ガラスの破片が散る中、父の魔導銃が鈍い音を立てる。赤い閃光が少年の胸を貫き、その小さな体を壁に叩きつけた。
「情けない」
祖父が舌打ちする。
「未熟者が後継ぎとは」
少年の体から立ち上る灰色の煙が、父の赤い刻印を煌めかせる。蜘蛛の巣状の紋様が父の掌で蠢き、かすかに腐敗した臭いを放つ。リナが運んできた紅茶の香りと、その臭気に混ざって吐き気を催させた。
父が衛兵に命じる。
「後始末を」
その夜、夢の書庫がいつもより鮮明だった。炎に包まれる棚の間を、琥珀色の瞳の少女が駆け抜ける。彼女の手には『魔道システムの真実』と題された分厚い本。
「知りたいでしょう?」
少女の声が響く。
「私を探して」
冷や汗で目が覚めた時、寝室の柱時計が真夜中を告げていた。魔導銃を懐に、階段を降りる。使用人が深夜の庭掃除をしている音が、なぜかいつもより遠く聞こえる。
地下聖堂へと来た私は、ある違和感を覚えた。ただの壁に違いないが、私を引き付ける何かがあった。手をかざし触れようとした瞬間、私は壁の中に入っていた。
その中では無数の屍が鎖で繋がれ、壁面には干からびた老人たちが十字架に釘付けにされている。中央の水晶棺には――10年前の姿のまま、アデールが眠っていた。
「ようこそ、レオンハルト様」
屍たちの声が蜘蛛の巣のように絡み合う。水晶棺に刻まれた文字列が視界を歪めた。
『第七公爵家 魔道転移実験被験体No.142~209』
「彼女も犠牲者です」
壁に嵌め込まれた老魔導師が咳き込んだ。
「あなたの病を治すためと偽り、魂を魔導燃料にされました」
胃が逆転する。12歳の冬、死の床で投与されたという「奇跡の魔導薬」。あの甘い香りの正体が、彼女の魂の破片だったとは。
「貴族の魔導力など幻想です」
別の屍が棺に触れた。
「我々の魂を地下パイプで各邸宅に配給している あなたの銃も、剣も、――全ては奪うことで成り立っている」
時計が鳴り響く。祖父の戴冠式で流れた賛美歌の旋律だ。私は崩れ落ちんばかりに棺に縋りついた。アデールの冷たい額に、私が12歳の時に贈った白薔薇の飾りが残っていた。
「なぜ...教えてくれなかったんだ」
「教えましたよ」
屍たちが一斉に笑った。
「でもあなたは『下層民の戯言』と一蹴したでしょう?」
記憶が突き刺さる。確かにあの日、アデールが父の書斎に押し入るのを目撃した。彼女が私に救いを求める手を、衛兵に引き剥がすよう命じたのは――
そこからのことは、あまり覚えていない。