03.週明け、幸希
僕が学校に到着してしばらくすると幸希も登校してくるけれど、普段となんら変わらぬ様子だった。まあそれはそうなんだろうけども。なぜって、幸希は僕の家に泊まった翌朝も、平然とした感じで何事もなかったかのように起床してそのまま帰宅したのだから。夜中の出来事を忘れているわけではないだろうし、ひょっとすると寝ぼけていて本当に覚えていないおそれもあったが……いや、それはありえないだろうな。
「おはよ」と僕に挨拶してくる幸希は僕の肩に手を置いていて、なんか心持ち距離が近い。授業中にも僕を眺めてにやにやしたりするし、休み時間も、他の女子と談笑しながら僕を見つめてきたりして照れ臭いし、先週と比較して何かが違う。もしかしたら僕が過剰に意識してしまっているだけで、幸希は何も変わっていない可能性すらあるが……やっぱり気のせいじゃない!と放課後に悟らされる。帰りのガイダンス終了後、幸希は背後からまだ着席している僕に「帰ろ」と声をかけてくるんだけど、僕の胸に腕を回してきていて、なんか、僕の後頭部にお腹をぴったりくっつけてもいる。こんなことされた記憶がない、と明確に思う。
僕は咄嗟に「勇馬は?」と訊く。
「勇馬はまだ来てないよ」幸希はあきれた表情を浮かべる。「ホントに勇馬好きだよね、あんた」
「いや……」そういうわけではなくて、あまりに接近されると気まずい。「勇馬も好きだけど、幸希のことも好きだよ」
「はいはい」と言われる。「思ってないクセに」
「えぇ……」
思ってなくはないよ。そんなふうに言われて、僕は少しショックを受ける。
「早く勇馬んとこ行こ?」
「うーーん」僕は考えるようにしてから「ちょっと図書室を見学したいから、先に二人で帰っててよ」と言う。
幸希の距離感が近い気がしてやりづらい……というのと、幸希にキスをされてまだ間もないから三人でいると居たたまれなくなりそう……というのが理由。幸希と勇馬に二人きりの時間を過ごしてもらいたいというのもあった。この前は僕が幸希と二人で過ごしてしまったから、共に寝起きもしてしまったから、勇馬に少し返上したい。
怪訝そうな幸希をなんとか勇馬のもとへ届け、僕は図書室へ向かう。本は好きなのだ。だから芳日高校がどの程度の本を所蔵しているのかは少なからず気になる。借りていく機会もあるだろうから、貸し出しカードみたいなものもあるならばあらかじめ作っておきたい。
図書室の出入り口付近には案の定、お店でもよく見かける有名そうな本なんかが置かれている。しかし、奥へ入っていくと、だんだんと本の分厚さや古さが増していき面白くなっていく。いろんな専門書がある。実際に読むかどうかは別として、こういうのは棚に並んでいるのを眺めているだけでも楽しい。
どん、と誰かに体がぶつかり、こんなマイナーなコーナーに人なんて来るのかな?と思いつつ「すみません」と謝ると、幸希だった。ぶつかったというか、後ろから抱きつかれている。さっき勇馬といっしょに帰らなかったっけ!?
驚きの余り声を上げそうになっていると、「図書室ではお静かに」と幸希に耳元で囁かれる。
「…………」僕は男子としては背が低い方なので、幸希と並んで立つと、わりと頭の高さが揃ってしまう。「……なんでいるの?」
「なんでって、ひど」幸希は後方から僕にくっついたまま小声で言う。「豊こそ、なんで一人でこんなところ来るの?」
「僕は本が好きだし……」思惑はいろいろあったけど。「幸希、離れて。人に見つかったらびっくりされちゃうよ」
「こんな奥まったところ、あんた以外の誰も来ないよ」
それは言えてる。だけどだ。「離れて」
「えー?」
「えーじゃないよ。勇馬は?」
「帰ったよ」
「帰ったの!?」一人で帰らせちゃったの?
「大きい声出さないの」と幸希に囁き声でたしなめられる。「人が来ちゃうよ」
「うん。だから離れてって……」
「嫌」
「嫌って……」また『嫌』か。「幸希、最近どうしたの? 悩みがあるなら聞くよ?」
「あんたに話すような悩みはないよ」ぴしゃりと言ってから、「あんたはどうなの? 女子からこういうことされると、嬉しいんじゃないの?」と幸希が尋ねてくる。「人肌が恋しい年頃でしょ? 私だったら、こういうことしてあげられるしさ」
「……『女子から』って言っても、幸希じゃない」
「は? 私からだと嬉しくないって?」
「いや……」でも幸希は僕の中では『女子』というより『幼馴染み』で、そもそも僕は女子に対して免疫が全然ない。「幸希は勇馬の彼女でしょ? こういうのは勇馬にしてあげるべきじゃないの?」
「また始まった」と幸希は僕の耳元で嘆息するが、それはそうじゃない? 僕、間違ったこと言ってる? 「勇馬は今、関係ないんだよ。私が豊にしてあげたいことをしてるんだよ」
「僕は……幸希が勇馬と仲良くしてくれればそれだけで嬉しいよ」
「バカじゃないの?」と囁かれる。幸希の唇は僕の耳の真横にあり、幸希の声で僕の鼓膜が柔らかく震える。お尻の辺りがゾクゾクとなり、力が抜けかける。「私と勇馬が仲良くして、じゃああんたはどうすんの?」
「僕も二人と仲良くしたいよ、そりゃあ」
「でしょ? 仲良くしようよ」
まだ鼓膜がブルブルする。「な、仲良くって、こういうことじゃ」
「うるさいよ。黙って」と静かに言われると同時に、生暖かいような、ヒヤリとするようなものが僕の耳に当てられる。幸希の舌が僕の耳を舐めている。
「ちょ、ダメだって」僕は体ごと逃れようとするが、幸希のハグは思いのほか力強い。「声出ちゃう……」
「出したらダメだよ」と言いながらも幸希は舌を引っ込めてくれない。「可愛いね、豊は」
「可愛いって……っ」
「昔はよく舐め合いっこしたじゃん」
「した!?」記憶にない。「どんだけ昔の話をしてるんだよ。保育園の頃でしょ」
「そだよ」と幸希。「私は全部覚えてるよ。豊は忘れちゃったんだね。ふうん」
「や、わりと覚えてると思うけど」舐め合いっこは知らない。
「記憶力なさすぎじゃない? やっぱり私の方が賢いかも」
「それはないない」
「うるさい」
耳の一番中心の大きい穴に舌先を入れられ、僕は思わず「あっ!」と声を上げてしまう。
「あ、バカ」と幸希も焦り体を離すが、おかげで助かった。
僕は本棚を背にして、幸希に向きなおる。「まったくもう。幸希」
幸希は悪びれていない。「気持ちよかった? 感じたんじゃない?」
「知らないよ」それどころじゃないって。「なんでこんなイタズラばっかりするの?」
僕が問うと、幸希は不服そうに眉を潜める。「イタズラじゃないから」
「でも」
僕は困っているのに……と言いたい気がするのに、言えない。言葉が口から出ていかない。
「私と勇馬が付き合ってて、豊は誰とも付き合ってない。寂しくないの?」
「……そういう観点で寂しいと思ったことはないよ」と僕ははっきり言う。「僕は幸希のことが好きで、勇馬のことも好きだから。そんな二人が付き合ってるのは喜ばしいことだと思ってるよ」
無難な回答というか、満点の回答だと思ったのに、幸希は「ふうん。へえ」と気に入らなさそう。だったらなんて返せば満足するの?
「僕は女子とイチャイチャできなくて寂しいなんて思ったことないから、幸希、気にしてくれなくて大丈夫だよ」
「…………」
「ありがとう。気持ちだけ受け取っておくよ」
「……バカ」と小声でまた言われる。「あんたがそんなんだから……」
そんなんだから……損なんだから? なに? わからない。幸希のつぶやきは、図書室の静寂さに吸われて消える。
勇馬が不審に思って追いかけてくるんじゃないかと警戒していたが、いつまで経っても図書室に新たな誰かが入ってくるような物音はしない。