27.彼女
勇馬は時間をかけて呼吸を整えてから、笑い、「幸希とは契約を破棄して別れる」と宣言する。「これからは今までみたいにお前らと四六時中いっしょにはいられないだろうから、何かあったらちゃんとすぐに言えよ?」
「え、どうして……?」親友のままだと言ってくれたのに。
「部活動に入ろうかなと思ってるんだ」と勇馬ははにかむ。「何をするかまでは決めてねえんだけど、とりあえず何かやりてえなと思ってな。まずは自分が何をやりたいか、探すところから始める」
やっぱり我慢していたのだ。僕は「寂しいよ」とは言わず、「そうだね。いいんじゃない?」と笑う。「勇馬はなんでもできるから、何かしないともったいないよ」
「何か打ち込めるものが見つかるといいんだがな。……っつーわけで、俺は忙しいから、しょっちゅうお前らの表情を観察してられないんだ。だから俺の助太刀が欲しいときは、遠慮せずにはっきり言うんだぞ?」
「うん。ありがとう」
「その代わり」と勇馬。「俺が困ってるときも、遠慮なくお前に助けを求めるからな?」
僕なんかじゃ勇馬の助力にはなれないよ……なんて、もう言えないよな。「もちろん。いいよ」
「頼りにしてるぜ」
「うん!」
「じゃ、俺、さっそく部活動の見学に行くから」勇馬はカバンを手にし、教室の出入り口へ向かう。「豊はまだやることが残ってるだろ?」
「え……?」
「裏ボスを倒さないとエンディングにはならねえぜ?」おどけたふうに笑いながら、勇馬は教室をあとにする。
しんとなった一年六組の教室……その教卓の窪みから、のそり、と幸希が出てくる。
「わ、びっくりした……!」
僕は知らない人の机を引っくり返しそうになるくらい驚き、後ずさりをする。
「あ、びっくりした? ごめん」幸希は目を擦り、ちょっと笑う。「豊と勇馬の話し合い……どんな結果になってもいいから近くで見たいって、勇馬にお願いして、ここに隠れさせてもらったんだ。やっぱり心配だから」
「全然気付かなかった……」
「私、二人の話聞きながら泣いちゃってたから、バレてるかと思ってた。鼻水の音、聞こえなかった?」
「まったく……」
僕も勇馬にばかり集中していたから、他は何も耳に入ってこなかった。
「勇馬……」幸希はもう退場してしまった勇馬の名を呼び、勇馬が出ていった廊下を見遣る。「ごめんね。私は勇馬のことも、ずっと傷つけてた。私は勇馬のことも大好きだったはずなのに、いつの間にか、勇馬を恐れて、避けるようになってた。勇馬の傍では自然に笑えなくなってた。ホントに自分勝手な奴だよね、私は。豊のことだけはきっちり守らせといて、勇馬には冷たくしちゃって……。なんだかんだ言って、私だって勇馬を縛ってたんだ。ごめん。ごめんね」
「…………」
勇馬はもう一年生のフロアからも降りてしまっているだろうから、もちろん返事はない。
「豊も」幸希は僕に向きなおり、頭を下げる。「ごめん。私は豊にも、いっぱい謝らなくちゃいけない」
「…………」
「豊の気持ちを知ろうとしないで、ずっと寂しい思いをさせてたよね。悲しませてたし、我慢させてたね。ごめん」
「それは……僕も口にしないようにしてたから」
「それから、高校に入ってからは特に混乱させちゃったね。思わせぶりなことを、私はろくな覚悟もないまま豊にたくさんしちゃった。わけわかんなかったよね? それもごめん」
「……ううん」
「豊のことはあきらめたつもりだったのに。中二の夏……勇馬と付き合い始めた瞬間に、豊への気持ちは、胸の奥底に閉まったはずだったのに、やっぱり、どうしてもどうしても、私はあきらめられなかったんだ」情けなく笑う幸希。「本当は身も心も勇馬にすぐ捧げるべきだったんだけど……勇馬が猶予なんて寄越すから……譲歩なんてしてくれるから」
「……勇馬は、わかってたのかもしれないね」
そう願っていたわけではないだろうけれど。でも、この未来を予測していたから、幸希に道を残してくれたんだと僕は思う。だから僕も勇馬に謝らなければならない。そして、感謝しなければならない。
「そうだね」と幸希はまた廊下側を見遣る。それから僕を見る。「今までごめんなさい」と改めて頭を下げる。
「そんなに謝らないで」と僕は腕を振る。「僕を思ってしてくれたことなんでしょ?」
「私は豊が安心して生きてくれればそれだけでよかったんだ。それ以外なにもいらない。だから、勇馬が豊を守って、私が勇馬と付き合うことで勇馬を逃がさないようにする……これがベストだと思ってたんだ。思い込んで、信じ込んでしまってたんだ」
「……僕が弱くさえなければ、こんなことにはならなかったのにね」弱く、頼りなく、情けない男じゃなければ……。
「違うよ。話したよね? 豊が強くても弱くても、そんなの私にとってはどうでもいいんだよ。強いから好きとか、弱いから嫌いとかじゃないしね。私は豊に二度とあんな目に遭ってほしくないの。ただそれだけ」
「…………」
「どんなに強くたってどうしようもない出来事ってあるでしょ? ひとたびあんなことが起こったら、私はもう、なんにもできないんだよ。私じゃ助けられないの」
「…………」
「あのときのこと、私はずっと悔しいの。たぶん一生悔しいと思う。豊になんにもしてあげられなかったこと」
「だからそれは……友達でいてくれただけで充分に嬉しかったよって、言ったじゃない。本心だよ」
「でもそんなの、根本的な解決には繋がってない……」
「勇馬は僕のこと、全然へこたれなくて強いって言ってたけど、違うんだよ」僕は教卓の方へ歩く。教卓の傍らに立っている幸希と目を合わせる。「僕は幸希に会いたくて学校に行ってたんだ。誰に何をされても、幸希の顔だけは見てたかったから。だから、僕が強いのは幸希のおかげ」
「また泣いちゃう~……」と言って幸希は顔を歪ませる。「やめてよね……」
「幸希がいなかったら、僕は折れてたよ」
「でもそれは、あんたの強さだよ」と幸希は言ってくれる。
「僕だけじゃなくって、誰もが等しく『どうしようもない出来事』に巻き込まれうると思うんだ。でも、できるだけ巻き込まれないようにそれぞれで強く生きてくしかないよね」僕は幸希の頭を撫でる。「だから、僕のために我慢するようなことはしないでほしいんだ。僕はもう負けないし、負けないようにするから、幸希も僕のために自分を犠牲にするみたいなことは絶対しないで」
「私にはああいう手しかなかったから」と幸希。「私が豊にできることって、あれくらいなの」
「なに言ってんの」笑ってしまう。「幸希が僕の目の前にいてくれるだけで、こんなに幸せ。これって幸希にしかできないし、こんなすごいことってないよ」
「やめてったら……」
「そして僕は幸希のためならきっといろんなことができるよ。だって幸希のことを思うと、力が溢れてくるもん。すごくない?」
「すごい」と幸希はうつむき加減で頷いて、また泣いている。
「僕もこれから、ちょっとは強くなれるかな……」
「あんたは」と幸希は泣きながら言う。「昔から弱くて頼りなくて情けなくて、でも強くて頼り甲斐があって、格好いいし可愛いよ」
「…………」
「強くなろうが弱くなろうが、ホントにどうでもいいんだって。私はずっとずっと、豊のことしか見てないし、豊じゃないとダメなの」
「…………」
「……豊。大好き」
「はあ……」息を吐くと、力が一遍に抜けてしまう。「それをずっと聞きたかったんだ」
「ごめんね」と幸希は苦笑する。「勇馬の彼女やってる間は、やっぱりなかなか言えなくて」
「……ねえ、下手したら、あのまま勇馬と付き合い続けて結婚までしてた可能性もあったってこと?」
「うーん……可能性としてはあったんじゃない?」
「ひどいよ……」
「ひどいって言われても、私は何がなんでも豊に安全に生活してもらいたかったし。私にとってはそれがすべてだったから」
「だからそんなふうに自分を犠牲にするのはさ……」
「命を賭けたってよかった」と幸希は僕を見据える。「本当だよ? それくらい私は豊のこと大切に思ってる。豊が一生安泰なら、私は死んだっていい……そのくらいあんたのこと好きなの」
「……今も思ってる?」
幸希は首を振る。「私が思いもよらなかったことは、あんたまでもが私をすごい好きでいてくれたってこと。豊がどれくらい私を好きなのかって、あんまり考えたことなかったから。そこそこ好きでいてくれてるんだろうなとは思ってたけど……勇馬と付き合うってなっても、笑ってるだけだったから、あんた。あのとき『嫌だ!』って言ってくれてたら、あんな契約、すぐに取り止めてたんだけどね」
「言えないよ……」
コンディションの復帰直後だったし、そんな事情知らないから、僕は幸希と勇馬が愛し合って付き合い始めたんだと思い込んでいた。嫌だなんて言えるはずない。
「あんたにとってのベストは、私が一番傍にいることだったんだもんね。それがわかったら、私は何がなんでも自分を守って長生きするし、あんたに心配かけるようなことは二度としないよ」
「うん」
「最初からそうしてればよかったんだよね……」
「わからないけど、そんなこともないかもしれないよ」
今こんなに満たされているのは、この過程があったからだ。最初から幸希と付き合っていたら……なんだろう、それこそ僕はのうのうと生きていて成長だってなかったかもしれない。勇馬も僕の傍にはきっといなかっただろう。それは寂しい。
「ねえ、豊。好き」
「僕もだよ」
「大好き」
「僕も」
「豊も言って」
「幸希が大好き」
「嬉しい」
「愛してる」
「耳元でずっと言っててほしい」
「ずっと言ってられるかもしれない」
それくらい、これらの言葉が行って帰ってくるのは幸福なのだ。いくらでも言えるし、いくらでも聞ける。
それから僕は思い出して、幸希に訊く。「幸希は、保育園の頃と比べると、大きくなったかな?」
「なに?それ」と幸希は怪訝そうだ。「あんたとおんなじくらいの背なんだけど?」
「や、それはさすがに僕の方がちょっと高いよ」
「ちょっとじゃん。保育園の頃は、私だいぶ小さかったらしいけどね。そこから見ると、大きくなったよなあ私」
「大きくなったし、僕の彼女になってほしい」
「は?」と目を丸めてから、幸希は気付いたらしく「ししし」と笑う。「よく覚えてるね! 私の人生最初の告白! あのときはフラれたけど」
「振ったっけ?」
「逃げてったんだよ、豊。へたれ」
そうだったっけ? 「もう逃げないよ」
「じゃあいいよ」幸希は僕に、ドン、と体を当ててくる。「とりあえず、まずは彼女になってあげる」
みんながみんなに我慢を押しつけるような世界で、誰かのために自分を顧みない……そんな女の子の隣を、僕は歩けている。




