23.悪
ずっと幸希のスマホに連絡をし続けたけれど、返事はなかった。勇馬を追って有寺家に突撃してやろうかとも考えたが、手足が震え、腰にも力が入らないし、ベッドの脇で僕は無力だった。勇馬に平手で揺さぶられた脳がいつまでも揺れていて僕の思考を鈍らせてくるようだった。
幸希からは夕食前にスマホへメッセージがあり『大丈夫だよ』とのことだったが電話をかけても出てくれないし、気が気じゃなかった。
だけどそもそも、僕と幸希が結ばれることはないんじゃないだろうか。幸希は勇馬と別れないし、今のこの状態こそが完全なのだと断言していた。だとしたら幸希が勇馬の家へ行くことなんてこれからも日常茶飯事だし、取り立てて心配するようなことでもないのかもしれない。取り立てて心配するようなことでは、きっとなくなる。僕は自分の気持ちを投げ捨てて忘れ去るのが得意だから、いずれきっとそうなる。どうしようもなくて、逃げてばっかりだ、僕は。
だけどそれでも、幸希とずっといっしょにいられないとしても、幸希への思いなんて今に忘れ去ってしまうんだとしても、それでも僕にだって譲れないことはある。
翌日登校し、既に席に着いていた幸希を見とめ、僕は凍りつく。凍りつく? そんな静かな激情じゃない。凍りついたんだとしたらその直後に僕はバラバラに割れて飛び散り、その勢いで辺りのものを穴だらけにするだろう。
幸希の顔は絆創膏だらけだった。顔だけじゃない。首や腕……足にまで絆創膏が貼られている。僕の体内で太い何かが千切れる音がした。
「叩かれたの?」と僕は幸希に問う。
幸希は「大丈夫だよ」と暗く笑う。
それだけでもう充分だ。充分というか、勘弁だ。僕は幸希を見ていられない。そんな気持ちと、この沸騰しきって蒸発しそうな怒りを抱え、六組に駆け込んでいく。勇馬も既に登校していて、僕はそれを視認するや否やあらゆる思考を放棄してそこへ体ごと突っ込んでいく。勇馬をどうしてやろうかと具体的に考えたわけじゃない。ただ力任せに体当たりし、椅子ごと床に倒れた勇馬の首を絞める。「ふざけるなよ勇馬! よくも……! よくも!よくも!よくも!」
言葉がなんにも出てこない。それはそうだ。僕は怒っていて、ただ怒るばかりで何も考えていないのだ。勇馬の首にかけられた指に力を込め始めたところで「ダメ!」と誰かに言われ、羽交い締めにされるようにして、僕は引き剥がされる。黒江さんだった。「豊くん! ダメよ!」
「離して!」僕は半狂乱だ。だけど黒江さんの方が背も高くて、僕は根本的に非力で、体を固められると何もできない。「勇馬! 許さない! 絶対許さない!」
僕が幸希と結ばれないのはもうそれでいいんだけど、幸希と結ばれる人には幸希を大切にしてほしい。間違っても怒りに任せて幸希を罰するような人間であってほしくない。そんなの、僕だってあきらめがつかなくなる。
僕はまた泣いていて、敵の前で視界を滲ませてしまい隙だらけだ。
だけど勇馬はやり返してこない。立ち上がり、椅子を立て直して「放課後にまた来いよ」とだけ言う。「決着をつけようぜ」
教師が呼ばれ、僕はカウンセリング室に連れていかれ、挙げ句の果てに帰宅させられそうになるが、謝罪をしてなんとか放課後まで居させてもらえるようにする。勇馬も『問題ない』という旨を教師に伝えていたようで、そのおかげもあって、僕は保健室での待機が許される。
僕は保健のおばさん先生ととりとめのない話をし、眠たくなったら眠り、目を覚ましてぼーっと天井を眺めたりする。穏やかな時間だと感じた。
三時間目の休み時間に、黒江さんが会いに来てくれる。「豊くん、やんちゃすぎ」
「ごめん」と僕は謝る。「六組のみんなを恐がらせちゃったかも。ごめん」
「一応あたしがフォローしておいたから」と黒江さんは笑う。「普段は優しいし、可愛い子なんだって」
「普段は優しいっていうのが、一番危ないよね」と僕は凹む。「でも僕は優しくなんてないよ。嫌なことやムカつくことを忘れるのが上手いだけなんだ。いや、あきらめるのが上手いのかな? だから消去法的に優しさみたいなものが残るだけなんだよ」
黒江さんが僕の頭に手を置く。「よっぽどのことがあったのね。よほど許せないことがあったのね。それについては敢えて訊かないけれど」
「許せない……とは思うけど、勇馬もきっと僕のことを許せないって思ってる。勇馬が悪いわけじゃないんだ、ホントは。悪いのは僕かもしれない」
「わからない。どうかしら。よく考えて、よく話し合ってみたらいいんじゃないかしら」
「うん」僕は苦笑する。「……とうとうやっちゃった。完璧な世界を、壊しちゃった」
「…………」
「あーあ……」
「まだ大丈夫よ」
「そうかな……」
「『あーあ』って言うには早いわ」
こんなふうにならずに済む道もあったのだ。「黒江さんが、僕をメチャクチャに愛して可愛がってくれたらよかったのに。黒江さんが僕を好きだったらよかった……」
「ふふふ」と笑われる。「やっぱりバレてたか」
「バレてるよ」
「あたしは勇馬くんが好きなの」と黒江さんが告げてくる。「でも勇馬くんには幸希ちゃんがいて、近づけないじゃない? だからできる限り勇馬くんと親密になるために、豊くんを利用したのよ」
「知ってる」
「知っててくれて、本当によかった」と黒江さん。「豊くん、いい子だから。本当に可愛らしいから、裏切れないなって、困ってたのよ? もちろんさりげなく上手にシフトしていって勇馬くんをモノにするつもりではいたけど、それでも豊くんのことは傷つけたくないなって、本気で悩んじゃってた」
「気にしないで」
傷つくのには慣れている。傷ついてばっかりなのだ。でも同じくらい僕は誰かを傷つけている。僕だって黒江さんを利用しようとしたのだ。それを自覚しないといけない。
「言えてよかったわ」と黒江さんは息をつく。「こんなときだけど」
「ううん。……これで僕との交際は終了?」
「……まだもうしばらく、付き合っててもいいかしら」
「いいよ」
「勇馬くんが手に入らなかったら、豊くんにするわ」
「悪そうな台詞」と僕は笑ってしまう。「僕なんて好きじゃないでしょ?」
「性格が悪いって最初に言ったでしょ?」と黒江さんも笑う。「豊くんのことは……いえ、あんまり口説くとよくないわね」
「思いっきり口説いてほしい」
「…………」黒江さんは肩をすくめる。「ここにこうして会いに来てるのが、あたしの友情の証。どうでもいい男子なんかのところへは、あたし行かないから」
「ありがとう」
「いいえ」時計を確認し、黒江さんは伸びをする。「そろそろ戻ろうかしら。一年生のフロアは遠すぎて、嫌になっちゃうわ」
「うん。チャイムに間に合うように戻ってね」
黒江さんはイタズラっぽく微笑む。「勇馬くんのこと、倒しちゃってね? 放課後、決着をつけるんでしょう?」
「…………」
倒すとはどういうことなんだろう? まさか首を絞めて、首を絞めきることがそれではないだろうし。どうやったら倒せるんだろう? 倒したらどうなるというんだろう? よくわからないし、あまり考えたくなかった。また眠たくなってくる。
「豊くん」と呼ばれる。「あたしは当然として、本当は誰も優しくなんてないし、みんな、いろんな嫌なことにムカつきながら生きてるのよ。だから、自分ばかりを悪だと思わないで」
「…………」
「完璧な世界なんてない。誰かが我慢をしているのよ。そして誰が我慢をするかが問題なの。誰も我慢なんてしたくないから、誰かに我慢をさせようとするの。あたし達みんなが悪なのよ」
「うんざりする言葉だね」
「豊くんも、負けないようにね」
今度こそ黒江さんは退室する。チャイムが鳴ってしまい、入れ替わるようにおばさん先生が入ってくる。