22.夢から覚めたら
幸希は眠れなかったらしく、ゆっくり目を覚ました僕をやんわり微笑みながら眺めていた。けど、僕が吐息と共に目を開くと、心配そうに顔をしかめる。それはそうだろう。僕の目元から一斉に涙がボロボロッと零れ落ちる。僕は泣いている。そうだ。思い出した。僕は……いや「僕も幸希のことが大好きだよ」と言う。最初からそうだったのだ。「幸希のことが、大好き」
心配そうに僕を見ていた幸希は、目を伏せ、唇を噛み、僕と同じように大粒の涙を零す。喉を震わせ、すぐに嗚咽を木霊させる。「……ゆた、か」
「本当にずっと好きだった。伝えるのがこんなに遅くなってごめん。大好き。友達とか幼馴染みとかじゃなくて、そんなんじゃなくて……大好き」
幸希は頬に涙の筋をいくつも作りながら、うん、うんと頷いてくれる。「ありがと……っ」
「幸希が勇馬と付き合ってるなんて嫌だよ。僕と付き合ってほしい。僕の彼女になってほしい」恥も外聞もなく懇願してしまう。「勇馬と別れてよ。僕、幸希と付き合いたい。幸希のもっと近くで、幸希のもっと傍で、幸希といっしょにいたい。幸希が勇馬の彼女だなんて嫌だよ。幸希の一番隣が、勇馬だなんて嫌……」
勇馬はたしかに僕の恩人だ。命の恩人で、大親友だ。僕は勇馬のこともずっと大切だった。でも、勇馬のおかげで今の僕があるから、僕はただただ勇馬の幸せを願わなくちゃいけないんだろうか? 勇馬がいなければ今の僕もいないわけだから、勇馬は絶対に正しくて、勇馬の幸せのために僕は一番大事なものを……一番大事な人を捨て置き、自分の幸せについて見て見ぬフリをしなければならないの? わからない。そうなのかもしれない。僕は裏切り者で、間違っているのかもしれない。だけど、それでいい。僕は幸希が好きで、大好きで愛していて、その気持ちは絶対誰にも邪魔されたくない。あの最低最悪の過去に遡って勇馬の手助けを断ったっていい。それで未来が変わるなら、僕は自分自身の力でいじめを跳ねのけて幸希の隣へ行きたい。それくらいだ。単なる言葉として言っているんじゃない。それくらいの本気の気持ちなのだ。引け目を感じるくらいなら、僕はそれでいい。
幸希が全身を激しく震わせ、声を上げて泣く。僕の言葉に、うんうんとまた頷く。「豊……豊、ありがとう。そんなふうに言ってくれて。そんなふうに私を思ってくれてて……」
「幸希がいてくれたら何も望まないよ……」
「ありがとう」でも。「でも」と幸希は言う。「私は勇馬と別れられない。豊、私達は三人揃ってベストなんだよ。この関係性が、完全なんだよ」
完璧な世界。
最高の形。
完全な関係性。
僕は蒼白する。「全然わけがわからない。やっぱり幸希は勇馬の方がいいんじゃない。やっぱり僕が可哀想だから、僕にこういうことしてくれてるだけなんだ? 僕が弱くていじめられてて、憐れだから」
「違うよ!」と幸希が泣き叫ぶ。「違うもん! そんなんじゃない! わかってよ! 私は豊が一番大切で……」
「じゃあ『好き』って言ってよ」と僕は詰め寄る。「勇馬より僕のことを愛してるって言って!」
僕がそう怒鳴ったとき、廊下でまたパタパタと音がする。真剣な瞬間なのに……と煩わしく思っていると僕の部屋のドアが開き、僕は本当に親を恨めしく思う。
有寺勇馬が立っている。
勇馬はもう僕と幸希の関係を初めから察していたのか、唖然とするでも愕然とするでもなく、ただ睨みつけてくる。どうして今日、僕達がここにいると知っているんだろう? 勇馬は幸希の家に行って不在を確かめたんだろうか? それともまさか、朝からずっと尾行していた? そして決定的なタイミングで乗り込んできた? わからない。どうでもいい。どうでもいいのに僕はそんなことを走馬灯のように考え込んでしまう。
「豊」勇馬が室内に入り込んでくる。「人の女に何してんだテメェ!」
「やめて!」と幸希が僕と勇馬の間に立つ。「私がたぶらかしただけだから。私が無理矢理こういうことしただけ」
「…………」
「豊が自分からこんなことすると思う? しないでしょ?」
勇馬は舌打ちし「服着ろ」と幸希に言う。「今から俺んち来い」
僕も幸希も同時に上半身を揺らす。心が揺れる。「それは……」
「もう断る権利なんかないぞ?」
「勇馬、一日だけ待ってくれない?」
勇馬は幸希を無視し「早く服着ろ」とだけ繰り返す。「もう言わないぞ?」
「はい……」
幸希はしょんぼりと肩を落とし、従順になり、黒いワンピースを着なおして髪の毛の乱れを手櫛で整える。
「幸希、こっち来い」勇馬が僕達に背を向ける。「帰るぞ」
幸希はうつむいたまま「わかった」と勇馬の方へ歩いていく。今にも転んでしまいそうな、たどたどしい足取りだった。
幸希はあきらめてしまっている。僕はあきらめない! あきらめるもんか!
「ダメだよ!」僕は勇馬に駆け寄る。「そんな言い方しないでよ! 幸希に命令しないで! 幸希にひどいことしないで!」
「ひどいことなんてしねえよ」と勇馬は返し、目を見開いて笑う。「お前が幸希にしてたことしかしねえから」
僕の体が熱くなるが、それは羞恥心とかじゃない。今このときに羞恥なんかあるか! 全身に強い力が籠る。
しかし、僕が何かする前に勇馬の腕が左側から水平に飛んでくる。僕は頬にとんでもない衝撃を受けて吹っ飛ぶ。再びベッドに戻されてしまう。痛い……と思うより先に毛羽だった痒みのようなヒリヒリが浮かんでくる。ぶん殴られたかと錯覚するほどの威力で首がもげそうだったけど、平手だ。拳じゃない。
「豊っ!」と幸希が戻ってきてくれそうになるけど、勇馬が肩を掴んでいる。
「幸希、帰るぞ」
「幸希!」と僕も叫ぶ。「嫌だ! 行っちゃダメ! 幸希! やっと言えたのに!」
くそ。こんなときにウチの親は何をしているんだ?と僕は親に頼り始めて情けない。だけどもう大人に頼るしかないじゃないか。けっこうな怒鳴り声や叫び声が響いたはずなのに、聞こえていないのか?
僕は勇馬を足止めするべく口を開く。「勇馬! 幸希のことは、僕がやりたくてやったんだ! 幸希の服を脱がしたのは僕だよ!」
「…………」
「僕にはそんなことできないと思う? 舐めないでよ! 僕だってそれくらいできる! 好きな人になら、僕だって積極的になれるんだ!」
「…………」
「悔しいだろ! 僕をもっと痛めつけたらいいよ!勇馬!」
「……豊」と勇馬が言う。僕を見る。「顔、すぐに冷やしとけよ」
そう言う勇馬の表情はいつもの僕の親友の勇馬で、だからこそ僕は力が抜けてしまい、二人を追うことができない。立ち上がることもできず、いつまでも涙を顎から滴らせるばかりだ。
幸希と勇馬が行ってしまい、僕はまた一人になる。