19.八仏田
三玄堂へ行く予定だったんだけど、僕の提案で急遽八仏田に行き先が変更となった。三玄堂へはいつか必ず、もっと楽しい気分で行くことができるはずだから!という願いを込めて、後回しにさせてもらったのだ。幸希は初め残念そうにしていたけれど、けっきょく納得してくれた。
八仏田は黒江さんの住んでいる地域だから、どんなところなのかも確認がてらだったのだが、相当な田舎だった。駅のすぐ傍に中程度のショッピングモールがあるものの、その周囲は田畑で、鷹座としてはかなり物珍しい風景だった。鷹座に田畑はほとんど存在しない。少なくともそういうイメージだ。僕が知らないだけで、あるところにはあるんだろうけれども。
僕と幸希はショッピングモールを回るが、やはり鷹座駅周辺のビルとは比べるべくもなく、廃れ感が半端じゃなかった。近隣の人が日常的に買い物をする場所なんだな、というのが感想だった。
ショッピングモールの中に柄の悪い男性がいて、幸希をずっと眺めているから警戒していたのだが、とうとうこちらへ向かってきて何かと思い間に割って入ったら芳日高校の生徒だったのには拍子抜けした。失礼ながら忘れてしまっていたんだけれど、幸希に中庭で告白したあの男子生徒だった。僕は謝罪し、幸希にもお騒がせしてごめんと謝った。
けれど幸希はそんなことよりも感動していて、「恐くなかったの?」と僕に訊いた。
たしかに。柄の悪い男性は恐怖の対象だ。だけどそれ以上に僕は幸希を守りたくて必死で、それどころじゃなかった。たぶん僕一人で絡まれていたら震え上がって卒倒していただろう。でも、幸希に何かあったらと思うと、それだけで僕は恐怖心を踏み越えていける。踏み越えていけるようだと、今日知ることができる。
どちらかと言うなら僕は間違いなく弱者だ。弱い。勇馬の言う通り、守ってもらう側の人間なんだろう。だけど、そんな人間にだって守りたいものはあり、それを守らなくちゃいけないときには、弱かろうがなんだろうが頑張らなくちゃならないのだ。そんなふうに日頃から考えているわけではないし、誰かを守ろうとする行動なんてどうせ反射なんだろうけど、僕はそうありたい。幸希の隣に立って、そう思えた。
幸希の隣に立った……隣に立てたと感じたのは生まれて初めてかもしれない。幸希の方はどう感じてくれているのかなんてわからないし、訊かないけども。
ショッピングモールはあまり満足いただけなかったので、僕は幸希を連れ出して外を歩く。駅からあまり遠ざからない程度に田畑の町を散歩する。
幸希は前回の買い物で誕生日プレゼント扱いになった黒いワンピースを着てきてくれていて、まあ景色にそぐわないんだけど、やっぱり何度見ても可愛くて、僕は歩きながらずっと幸希ばかり眺めてしまう。
「黒江ちゃんの家はどこかな」なんて、普段は別に黒江さんと仲良くしていないのに、幸希はそんなことを楽しげに言う。
「住宅地もどこかにあるんだろうね」この辺りは田畑ばかりだけど。
「でも私、こういう町の方が好きかも」
「ショッピングモール、すぐ飽きてたじゃない」
「ショッピングモールはね」と幸希は笑う。「買い物はやっぱり鷹座だよ。でも住んで暮らす分にはこういう町がいいな。電車があれば鷹座なんてあっという間でしょ?」
「まあね、うん」
「芳日町も悪くはないんだけど、大学があるから賑やかしいし、やっぱり八仏田は静かでよさそう」
「ふうん」
「こういうところに家建てたい」
「そっか」
買い物の約束とは違うから、『いつか建てようね』なんてもちろん言えない。僕は幸希の彼氏ですらない。
彼氏といえば……幸希は勇馬と仲直りしたんだろうか? 相変わらず下校時は四人いっしょなのだが、黒江さんが上手に場を取り持ってくれているような状態で、正直、僕や幸希と勇馬の間は穏便とは言えない。黒江さんがいなかったら僕達はいっしょに帰っていないんじゃないかな?とすら思える。
「幸希って勇馬んち遊びに行ったことないの?」と僕は訊いてみる。
「あるよ。お泊まり会のときも行ったじゃん」
「いや、幸希が単独でって話」
「ああ……ないことはないけど」
「そうなんだ」
「うん……」
「この間はすごく嫌がってたよね、行くの」
「うん……」幸希はこの話、全然したくなさそうだった。あからさまにテンションを下げる。「ねえ、それより私、あそこ行きたい」
幸希が指差す先は、田園地帯に不自然にそびえ立つ怪しいホテル。素朴な原風景を一瞬で汚す異物。しかし言われるまで認識できなかった……のは、汚らわしい異物すぎて脳が認識を拒否していたからなのか、逆に風景に馴染んでしまって溶け込んでいたからなのか……。
「いや、ダメだよ……」
「またダメダヨが始まった」と幸希がニマニマする。「豊、あれ何か知ってる?」
「さすがにわかるよ」
「何する場所かも知ってるの?」
「さすがにね……」
「行きたい」と幸希が繰り返す。
「ダメだから」と僕も負けじと繰り返す。「未成年は入っちゃダメだから」
「そんなのどうでもよくない?」
「それに危ないし」
「あは! 危なくないし。忍者屋敷か何かだと思ってるんじゃないの?」
「とにかくダメだよ。高いお金請求されたら、出られなくなっちゃうよ」
「大丈夫だって。ほら、料金表」幸希はちゃっかりスマホで検索していて、八仏田のそのホテルの料金表を見せてくる。「二時間だけなら余裕」
「ダーメ」
「中、どんな感じなのか見てみたい」
「ダメだよ」
「ダメダメダメダメうるさいなあ」
「ダメなもんはダメ」
「じゃあ豊んち行きたい」
「…………」
僕が改めて見遣ると、幸希は上目遣いに見返してくる。
「ホテルはあきらめるから、豊んち連れてって」
「…………」
それってどういう意味なんだろう?って思いながらも僕は別にそんな意味なんて探っていなくて、普通に胸がドキドキしてくる。心臓周りの骨がキシキシ軋み始める。
「いい?」
「うん」僕は頷いている。「いいよ」