18.壊れた世界
七月に突入しており、なんだかんだで夏休みは目前だった。高校生になって初めての夏休みは、しかしそんなに和やかな雰囲気で迎えられそうにない。入学したての頃は僕達三人がこんなふうに変わってしまうなんて想像すらしていなくて、ただひたすらワクワクしていたのに……あのときの胸の高鳴りが懐かしい。だけど、この状態は必然だとも言えなくない。完璧な世界は、僕が自身の想いを手放し顧みないことで成立していただけの、まやかしの世界だったんだから。
とはいえ、僕達三人は黒江さんも交えて、四人で下校を続けている。間違いなく不穏な空気感だけれど、みんなそれに気付かないフリをして、触れないようにして、この関係を保っているみたいだった。
黒江さんが相変わらず明るいんだか暗いんだかよくわからないテンションで話しかけ、勇馬がそれに応じている。先行している二人の背中を、僕はぼんやり眺めている。
勇馬は僕にも話しかけてくれるし、僕が話しかけても変わらぬ気さくさで応じてくれるのだが、やはり以前までとはどこか違う。カリカリしている……と勇馬は言っていたけれど、たしかにそんな様子だった。かく言う僕も、きっとそんなに良い態度ではないんだろう。イライラしている……ように映ってしまっているかもしれない。
「誰が誰と付き合ってるのかよくわかんなくなってきたね」と小声でつぶやき、幸希が僕と腕を組んでくる。
言う通りで、傍から見たらあべこべのカップルになってしまっている。それはそうと「幸希」と僕は同じく小声でたしなめる。「ダメだって。大胆すぎるよ」
勇馬がいてもお構いなしに腕を組んでいる。「平気だよ。腕ぐらい組むって。幼馴染みなら」
「逆に組まなくない? 幼馴染み同士だったら」
「そうなの? まあ私にとったら豊だけだしね。幼馴染みは。よくわかんないや」
「うーん……」
でも僕も強く拒絶しない。振りほどこうとはしない。ダメだダメだと言いながら、僕も幸希が隣にいてくれて嬉しいのだ。この気持ちを、誰かに気遣って抑えたくないのだ、もう。もちろん悪いことだとはわかっている。人の彼女を捕まえて何をやっているんだ、ってやつだ。だけど。だけど、幸希は僕の大切な幼馴染みなんだ。そう自分に言い聞かせることで、世界に主張することで、罪悪感を跳ね返す。
「豊」と幸希が呼んでくる。「次の休み、約束してた買い物に行きたい」
「いいよ」
僕が即答すると、幸希が嬉しそうにする。「ダメダヨ~って言わないの?」
「言わないよ」僕は忍び笑いする。「なに?それ。僕のマネ?」
「そだよ。ダメダヨ~。言われるとムカつくでしょ?」
「そんな腹立つ言い方じゃないし」
「こんな言い方だよ。実際腹立つしねー」
「でも今回は『いいよ』だから」僕は言う。「どこ行きたいの?」
「前に言ってた三玄堂は?」
「いいよ」
「豊も行きたい場所あったら教えてね」
「うん。でも僕はそういう遊べる場所にあんまり詳しくないから」
幸希が少しうつむき加減になる。「……これからも、たくさん遊びに行けたらなあ」
「行こうよ」幸希が勇馬と付き合っていたって、遊びに行くぐらい問題ない。だって、幼馴染みなんだから。「いろんな場所、僕に教えてよ」
「うん……」
「約束ね」
「約束か」と幸希はつぶやいて、「うん、約束ね」と頷く。
話しながら歩いていると、勇馬の家へと続く分かれ道に至る。あ、絲草駅へ向かう黒江さんもここから大通りへ出なければならない。
勇馬が振り返り、僕と幸希の組まれた腕に眉をひそめつつ「豊、緋理を送ってやったらどうだ?」と言ってくる。
黒江さんはすぐに「ああ、あたしなら平気よ」と歩き出す。「寄りたい場所もあるから、送ってもらわなくても結構よ。また明日ね、三人とも」
「あ」素早い。僕は「気をつけてね」とだけ咄嗟に返す。
勇馬も狭い路地の方へ足を向けるが、立ち止まり「幸希」と呼ぶ。「俺んち寄ってってよ」
「え」幸希の、組まれている腕に力が入る。「やだ……」
「嫌だじゃなくって、来てよ」と勇馬がなんともいえない無表情で言う。
「…………」幸希が無言で首を振る。「今日はお腹痛いから、無理……」
「そんなつまんねえ嘘つくなって」勇馬のトーンは物静かだが、その奥に荒々しい揺らぎが見え隠れしている。僕の鼓膜が小さく震える。「来いよ」
「嫌……」幸希が腕組みをやめ、スカートのポケットから何かを取り出して勇馬に見せる。「生理だから。お腹痛いんだって。ホントに」
「お腹痛いのは、どこにいても痛いだろ? 別に何もしねえから、来いって」
「……嫌だ」
「お前な」勇馬が一歩、こちらに踏み出す。「さすがにそろそろ言わしてもらうけど、約束はどうなったんだよ?」
「…………」約束? 何の話だ?
「俺は約束守ってやってんのに、お前はそうやって自分だけ美味しい思いをして……そんな程度の人間か?お前は」
「それは……ごめん」と幸希が謝る。「ごめんなさい」
「わかったらいっしょに来いよ」
「でも、こんなムードで約束も何もないでしょ?」と幸希が訴えるが、僕には意味がさっぱりわからない。「怒んないでよ」
「お前がいつまで経ってもはぐらかしてばっかりだからだろ! いい加減にしろ!」
幸希がビクッとして後ずさりするので、話の内容がわからないけれど僕が前に出る。「勇馬、やめてよ。そんな強い口調で言わないであげて」
「お前は関係ないだろ」と言われてしまう。
「関係あるよ」と僕はほとんど反射的に言い返す。「幸希は僕の幼馴染みだもん。幸希がこんなふうに震えてるのを、僕は見過ごさないよ」
幸希はもう僕の背後に隠れてしまっていて、幸希の僕に触れている手指が小刻みに震えているのが伝わってきているのだ。
「うるせえよ」と一蹴される。「一丁前に守ってるつもりか? 守ってもらう側のクセしてよ!」
今の今までビクビクしていた幸希が「ひどい!」と怒鳴って前に出る。「最低! 言っていいことと悪いことがある! 豊にまでそんなこと言うとは思わなかった! クソ野郎! 絶対許さないから!」
僕は慌てて幸希を引き止める。本当に、殴りかかりそうな剣幕だった。華奢な体なのにものすごいパワーだったが、僕も全身を使って制止をかけたので、なんとか幸希をその場にとどめておける。
「お前もおんなじようなもんだろ、幸希」と勇馬の悪態は止まらない。「自分だけ、いい子ぶりやがって。人のことをとやかく言えるのか? 俺もお前も何も変わらねえ、最低なクソだろ?」
「…………」
「……今日は帰る」勇馬はうつむき、僕と幸希に背を向ける。「怒鳴って悪かった。豊、幸希。……じゃあな」
「…………」
僕はなんか、呆然としてしまっていて 何も考えられない。幸希と勇馬の言い合いは聞いていたし、僕も口を挟んだけれど、そこに僕の意思はほとんどない。ただただ呆然としながら言い合いを聞き、口を挟んだだけだった。
僕達三人の関係は、もう壊れてしまっている。
幸希が背後から抱きついてくる。「ありがとう、庇ってくれて」
「いや、ううん……」
「豊は、強いよ? 強くなったよ」
「もう、何がなんだか……って感じなんだけど」僕の頭はまとまらない。「えっと……約束って何? 幸希、勇馬と遊ぶ約束してたの?」
ふるふる、と幸希が首を振っているのが背中で感じられる。だけど、首を振るばかりで説明がない。説明してもらわないと理解が及ばない台詞ばかりだった。そして理解できないからふんわりとしてしまい、すぐに頭の中で薄らいでしまう。
幸希が体をくっつけたまま、背後から僕の両頬に触れてくる。「私は、豊のこと、思ってるよ。それだけは絶対に本当。信じてほしいな」
「信じるよ」
その言葉だけは考えずともすぐ出てくる。だって信じているから。大好きだから信じられる。違う。信じられる子だから、僕は幸希が大好きなのだ。