17.背中を押すということ
買い物の誘いを僕が断ったから、案の定幸希は機嫌が悪い。僕が登校すると、もう机に突っ伏してだらしない格好になっていた。
僕は荷物を置いてから幸希のもとへ行く。「幸希。おはよ」
顔は伏せられたままだったが「おはよ」との返事がある。
「…………」
僕はこの女の子をどうしたいんだろう? 距離を置きたいのか、機嫌を取りたいのか……もうグチャグチャだった。ここ最近は感情の揺らぎ幅が半端じゃない気がする。頭がどうにかなりそうだ。一昨日の黒江さんの言葉を思い出す。幸希が僕を好きだと言ってくれたら、僕はもうこの場でだって幸希を抱きしめてやるのに。でもおそらく黒江さんは勘違いをしている。完璧な世界の初心者だから、僕達を見る目がまだ養われていないのだ。幸希と勇馬は二年近く付き合っていて両思いで、その傍らに僕がポツンと立っている……この構図を理解していないのだ。
幸希は僕がもう立ち去ったと思ったのか顔を上げたものの、まだ僕が突っ立っていたので「あ」と気まずそうに声を漏らす。
「……幸希、一昨日は買い物いっしょに行けなくてごめんね」
「いいよ。もう誘わないから」
「そんなこと言わないで」
「黒江ちゃんがいるから私とはもう行かないんでしょ?」
「いや、それは……」
「女としても友達としても、私はもういらないんじゃん?」
「幸希……」
「おはよう!」黒江さんの声がして、僕は後方から前方へ押される。幸希の席に突っ込む。危なっ。「豊くん、幸希ちゃん、仲良くしないとダメよ」
幸希が椅子ごと引っくり返りそうだったので僕は慌てて抱えるようにして支えるんだが、黒江さんはそんなの知らんぷりで僕の頭をちょっと撫でると教室から出ていってしまう。
「えぇ……なに?あの人」と幸希はドン引きしている。
「幸希、大丈夫……?」
僕は幸希と椅子をもとに戻して体を離すが、全部を離すのが惜しくて、なんとなく幸希の肩に指だけ触れさせている。儚い抵抗。
幸希も僕のズボンの布を指で摘まんでいた。「大丈夫だけど、あの人、あんたの彼女でしょ? 何してんの?」
「うーん……黒江さん、たぶん僕のこと好きなわけじゃないんだよな」
「え、どういうこと?」
「わかんないけど。たぶん」
「ふうん。変な人!」と幸希は笑う。「ねえ、あの人ってあんなノリだったっけ? どうでもいいけど」
「意外と明るいっていうか、ノリがいいところもあるよ」
「やっぱ変な人だ」
「でもきっといい人だと思う」
「ふうん。あっそう」
「幸希の方がずっと可愛いけど」
「え!? なになに?」幸希が見る見る内に真っ赤になる。「どうしたの? 豊、頭でも打った?」
「ううん。ねえ、幸希。今度はいっしょに買い物行こう」
「え……うん。行きたい」
「行こうね」
「うん……」幸希は機嫌を直してくれたみたいで、僕を見上げて柔らかく微笑む。「三玄堂にも行きたい。あそこにもお店、いっぱいあるから。あ、その前に飛川を散歩してから。鷹座駅から三玄堂の間は、ずっと飛川が伸びてるし、まっすぐ歩いて移動できるよ」
「うん。うん」
僕は今この瞬間だけ、すべてを忘れて幸せになれる。黒江さんにもお礼を言わなくちゃいけない。黒江さんは僕を気遣ってくれたのだ。
「豊といっしょに行きたいところ、たくさんあるんだ」
「うん」
「もしも行けたら、行こうね」
「行こう」
余計なことを何も考えずに好きな人とただただ言葉を交わせたらどれだけいいだろう。とりとめのない会話ができたらどれだけいいだろう。誰かにとっては当たり前のことなんだけれど、僕にとってそれは、奇跡みたいなことなのだ。そんなことをひしひしと感じさせられる朝だった。