15.黒江緋理
落ち着いてから洗面台で顔を洗い、部屋に戻る。短くない時間が流れた気がする。
黒江さんは正座をして待っていた。「大丈夫……?」
「大丈夫」僕は「あはは」と笑って見せるけれど、黒江さんの前でこんなふうに笑った覚えがなかったので、このパフォーマンスは逆効果だったかもしれない。
「ごめんなさい、豊くん」と黒江さんは頭を下げる。「豊くんのこと、何も知らないままに差し出がましいことを言ってしまったわ。ごめんなさい。ごめんね」
「ううん」
罰だ。ここら辺でこういう目に遭っておくべきだったのだ、僕は。
「座ったら? それとも、ベッドで横になる?」
「平気」僕はその場に腰を下ろす。
「発言には気をつけるわ」
「もう大丈夫だよ」僕は笑い、その勢いで明かす。「僕、中学校時代、いじめられてたんだ。けっこうひどい感じで」
「!」黒江さんは目を剥き、青褪める。
「そこから助けてくれたのが勇馬で、でも僕がまだ調子を立て直せないでいる間に幸希は勇馬と付き合っちゃって……それだけの話」
「そう……」
「二人には言わないでね? 僕がこの話をしたこと」
「もちろん」黒江さんは神妙に頷いて、「あたしは何をしたらいい?」と訊いてくる。
「それは、これからの話? それとも、今日このときの話?」
「どちらでも。どちらで受け取ってもらっても構わないわ」
「うーーん……別に」悩んだけれど、特にリクエストはしない。「何もしなくていいよ」
「そう?」
「うん」僕は息をついてから意図的にまた笑う。「いじめ被害者だと、やりづらい? ちょっと引いた?」
黒江さんはかぶりを振る。「そんなことないわ」
「ふうん」
『いじめ被害者』なんて言葉、初めて使った。そもそも『いじめ』なんていう単語も、僕は使いたくないし思い浮かべたくもない。
「あんまり自分を低く見ないようにしなさい。自分を蔑ろにしちゃダメよ」黒江さんが腕を伸ばし、僕の髪を触ってくる。「また差し出がましいこと言ってるかも。ごめん」
「全然」
「……豊くん。あたしのこと、女子だと思ってる?」
「え、まさか……嘘でしょ?」
「え? ふふふふふ……そういう話じゃないわよ? 豊くんはあたしのことを女子と見なしてるのかしら?って言ったのよ」
「ああ……」一瞬男の子なのかと思った。「男子じゃないなら、女子だよ」
「だったら、少しは慰めになるかしらね」と黒江さんは僕の頭を撫でてくれる。「何とも思ってない人間に撫でられても、少しも嬉しくないでしょう? あたしを女子だと思ってくれているなら、悪い気分にはならないんじゃないかしら」
「そんなの全然……ありがたいよ」弱っているのを自覚する。僕は力が抜けている。「ありがとう、黒江さん」
「あたしから告白したんだもの。これくらいしないとね」
「眠たくなってきた……」
「眠ったら?」
「や、黒江さんを呼んどいて、一人スヤスヤ眠るわけにはいかないよ……」
「そ、そうしたら添い寝……はちょっと無理だから、膝枕ならできるわよ? あたしも眠たくなったら眠るから、それまで話でもしましょう。他愛のない話でも」
「本当……? ありがとう」と僕は正座している黒江さんにしなだれかかる。黒江さんの肩に額を乗っける。
「ちょ!? 膝枕って言ったんだけど……!」
黒江さんはすぐさま抗議するが僕を突き飛ばすこともなく、むしろ僕に少し手を添えてくれる。あ、膝枕か……と僕は今さら思う。だけど眠くて、なんだかぼんやりしていて頭が働かない。
黒江さんも動揺するんだな……と僕は可笑しくなるけど、すぐに意識が飛んでしまう。
また小さい子供の夢を見た。小さい子供の他にも何人か子供がいたが、やはりその小さい子だけがひときわ小さく感じられる。他の子供の九割とか八割くらいの縮尺ではないだろうか。単純に背が低いとかではなく、全体的に小さく感じる。感覚的に、そう見える。
前触れもなく目を覚ますと、僕の頭はまだ黒江さんの肩辺りに預けられていて、その僕の頭に黒江さんがまた自分の頭を預けているようだったが、眠っていたのは僕だけっぽい。黒江さんは僕の覚醒に合わせて頭を起こす。
涎を垂らしてしまったかもしれない、僕はちょっと啜るようにし、黒江さんを近くで見上げる。「ごめん。すぐ寝ちゃった……」
「いいわよ」と返すものの、黒江さんは辛そうだ。「足、伸ばしてもいいかしら」
「あ、はい」
僕が腰を浮かすと、黒江さんは正座をやめてリラックスする。浮かしていた腰を僕が再び下ろすと、「まだ乗るの?」と苦笑される。
「あ、ホントだ。ごめん」
「いいけど」黒江さんは僕の腰に左右から手を添える。「いいけどね」
「ごめんなさい」
だけどなんか、疲れてしまった。寝起きだからとかではなく、ただただ心が消耗しているのだ。僕は再度、黒江さんに頭を預ける。眠るつもりはないけど、くっついている。
黒江さんが幸希みたいにがむしゃらに僕を触って舐めて抱きしめてくれればいいのに。そうすればもう僕は黒江さんだけでよくなるのに……などと考えていると「お母さんが来たわよ」と言われる。
「黒江さんの?」
「なんでよ。あなたのお母さんよ」
「えぇ……また勝手に入ってきたの?」
奔放すぎる。いや、この前は勝手に入ってきたんじゃなくって、幸希を勝手に上げたんだったか。
「もうお昼回ってるから」と黒江さん。「お昼ごはんをどうするか訊かれたから、起きたら食べに行きますって伝えたわよ」
「ああっ……」僕は悶える。「僕が眠ってるのも見られたってことか」
「そりゃそうよ。あたしも恥ずかしかったわよ」
「そうだね。ごめん」
「いいけどね」
「……黒江さんは意外と寛容だね」
「意外って……まあ意外よね。あたし自身、意外だもの」と黒江さんはつぶやいてから、僕の背中をさする。「彼女の間は、せいぜい優しくしてあげるわ」
「ありがとう……」
「ごはんはどうする? あたしは食べなくても平気だから、豊くん、食べてきたら?」
「もう少しだけ、こうしててもいい?」
「うん。いいけど……」
「…………」
幸希はシャンプーみたいな香りがしていたけど、黒江さんからは香水っぽい匂いもほんの少しだけする。鼻が痛くなるような量ではなく、仄かに薫る程度だ。これくらいの香水だったら全然歓迎できる。
いちいち幸希と比較しなくて済むようになりたい。黒江さんについて何かを発見するとき、幸希はこうだったなどと無駄に考えないで済むようになりたい。僕には黒江さんしかいないんだというような状態になってしまいたい。黒江さんだけで世界を完結させたい。だけど、無理なんだろうなとも薄々気付いている。
僕が黒江さんの首筋に舌を這わすと、「ひっ」と短く小さい悲鳴が上がる。「ちょ、ちょっと……豊くん」
「黒江さん」
目が合ったのでキスをせがむと、「ダメダメダメ」と両手で防がれる。「びっくりするわね。なかなか大胆じゃないの」
「大胆かな……」
「豊くんって、キスしたことあるの?」
「…………」
えっと、ここでは『ない』と答えておかないと……などと計算している間に「あるわね」と見抜かれてしまう。「相手は……まあいいわ。あのね、豊くん。キスっていうのは、大人はどうだか知らないけれど、あたし達にとってはすごく大切なもので、軽はずみにはできないはずのものよ」
「そうなんだ……」そうか? 「そうなの? けっこう軽々しくされた記憶があるんだけど」
幸希なんてチュウチュウチュウチュウ繰り出してきていたけど?
「勝手に決めつけさせてもらうけれど、軽々しくなんてしてなかったと思うわよ?その子は。豊くんに愛情を示したくて、ひとつひとつに、一回一回にちゃんと気持ちを込めてたと思うわよ」
「…………」
「それくらいのものだと思うわ。キスって」
「そうなんだね」
なんか、初めてされたときのイメージがあっさりしすぎていて、僕も黒江さんにああいうふうにあっさりやってしまってもいいんだと錯覚していた。あのとき幸希は、どんな気持ちで僕に口付けたんだろう? あっさりでは……なかったんだろうか? なかったんだとしたら……。
「だから」黒江さんが僕の胸を押す。「あたしと豊くんにはまだ早いわ」
「黒江さんは……けっこう乙女」
「乙女で悪いかしら」目をジトリとさせる黒江さん。「男性経験がないんだから、仕方ないでしょう?」
「ないんだ……」へえ。「美人なのに」
「ありがと。でもこういう性格だから、全然モテないのよ。告白されたことなんて一度もないわ」
「そんなに性格悪い?」
「うーん……」黒江さんはちょっと笑う。「性格は悪いわよ? 悪く見えないんだとしたら、豊くんといっしょにいると優しくなれるからじゃない? 豊くんには優しくしてあげようって、優しくしてあげたいって思えるから。いっしょにいると落ち着くっていうかね、いい気分になれるのよ」
「そんなに……?」
「うん。豊くんのお嫁さんになる子が羨ましいかも」
「それが自分だとは思わないの?」
「あたしはならないでしょう?」黒江さんはいっそ得意げに僕を見つめる。「まあ、あたしが彼女の間は、あたしにいろいろ頼ってもいいわよ? あたしができることならしてあげるわ」
キスはできないけれど。でも僕も、たしかに黒江さんからのキスは必要としていないのかもしれない。