01.完璧な世界
今のこの状態こそが完璧な世界って気がする。
この春から僕は芳日高校に進学できたんだけど、有寺勇馬と畝原幸希の幼馴染み二人もいっしょなんだって思うだけでこの先ずっと楽しみでワクワクしてしまう。ワクワクしかしない。
勇馬は僕の親友であり恩人。命の恩人かもしれない。僕は中学生の頃、酷いいじめを受けそうになって、それを救ってくれたのが勇馬だった。持ち物を隠されるとか悪口を言われるとかだけでは済まず、暴力を振るわれたり金品を奪われたり、不良グループの僕に対する行動がエスカレートしていったとき、勇馬が立ちはだかってくれたのだった。勇馬は運動神経がよく、腕力も脚力も瞬発力も何もかもを持っていたため、不良生徒を叩きのめすぐらい造作もなかった。しかし勇馬は一切の暴力を行使することなく、話し合いだけで、説得だけで不良グループをおとなしくさせた。勇馬は頭もよかったのだ。不良生徒達にどんなことを言ったのか、どのような話をしたのか、僕は教えてもらえていないのでわからないが、だけどそれは簡単なことじゃなかったはずだ。不良生徒に、言葉で、だよ? 先生だって手を焼いている問題児集団に、少なくともいじめをひとつやめさせたのだ。客観的に言ってもすごいと思う。ましてや僕は当事者だったので、感謝しかなかった。感謝などといった平易な単語だけでは表しきれない。勇馬の善意と器量、度胸に、僕は信仰心に似たものすら抱いたほどだった。勇馬とは小学校もいっしょだったけれどあまり話したことはなく、そのときにようやく親しくなった。中学二年生の梅雨。
幸希は保育園の頃からいっしょで、僕が唯一まともに言葉を交わせる女の子だ。僕はもともと気弱で引っ込み思案だし、恥ずかしがり屋なので、同性ならまだしも異性と喋ることなんて苦行でしかない。そして、異性の方にしたって、暗い雰囲気を纏っている僕となんて口も利きたくないはずなのだ。けれど、幸希だけは昔から気さくに話しかけてくれて、ちょっと容赦のないところもあったけど、それも物静かすぎる僕にとってはむしろありがたいことなのだった。僕が他人と最低限のコミュニケーションが取れるのは、幸希がずっと鍛えてくれていたからに他ならない。幸希と話せていたから、僕は暗いだけの根暗にならずに済んだのだ。中学校に上がると男子は男子、女子は女子でそれぞれ固まり始めるような印象があるけど、幸希は同性と仲良くしつつも、時折、僕なんかにも声をかけてくれていた。
僕は勇馬も幸希も大好きなのだが、すばらしいことに勇馬と幸希は中二の夏頃から付き合い始めており、恋人関係にあって、その上で僕の傍にいてくれている。こんなに最高なことがあるだろうか? 二人は愛し合っていて幸福だし、僕は大好きな二人が幸福なのを眺めていられてこれまた幸福だし、それって最高じゃない? 僕は恩人も幼馴染みも両方大切だけど、その二人はセットで、ペアで、だからこそどちらも僕から離れていくことなく近しい。嬉しい。
高校生になっても引き続き、僕達は三人で学校生活を満喫できる。これを完璧と言わずして何が完璧だろうか。芳日高校には不良グループなどというものも存在しないし、僕もビクビクせず過ごせる。
もともと勇馬が間に入ってくれて以降は中学校生活も平穏なものだったんだけれど。
さっそく楽しい催しがある。三人揃って芳日高校に入学できたことを祝って、お泊まり会をやろうという運びになる。僕の父親が春から単身赴任となり、赴任先での生活準備をしなくちゃいけないってことで母親も手伝いに行っており、今夜は僕しか家にいない。それを狙って勇馬が企画してくれたお泊まり会で、各自がコンビニで食べたいものを買ってきて、それを盛大に飲み食いし、遊び、夜が更けるまで何かを語り明かす会……にする予定らしい。明日は休日なので多少の無理は利く。
僕は自室にて会の準備をすべて済ませて二人が来るのを待っていたのだが、幸希が来て、あとは勇馬だけってときにスマホに電話がかかってくる。勇馬からだ。
出る。「もしもし」
「よ、豊」勇馬の声だ。「すまん。今日のお泊まり会、延期にさせてくれねえか?」
「え、どしたの?」
「急な話なんだけど、親戚……っていうかじいちゃんだな……母方の父親が亡くなったんだ。今から篠間の方まで行かなくちゃならねえ」
「篠間!? 遠いね。急だし」
「急だし遠いんだよ。っつーわけで、提案しといて悪いんだけど、お泊まり会、今日は無理になっちまった」
「しょうがないね」楽しみにしていたんだけど仕方ない。
「すまん。また後日……別の機会に催そうぜ?」
「うん。わかったよ。わかったけど……」
ごはんは買ってしまったし、なんなら幸希ももう来ていて、勇馬待ちだったんだけど……。
勇馬は急いでいるからか、そこまで頭が回っておらず「幸希の方にも連絡入れとくわ。マジでスマン。申し訳ない」と謝罪を繰り返して電話を切る。
すぐに幸希のスマホにも連絡があり、同じような事情を説明しているんだろう、幸希は「あー、わかったよ。はいはい。大丈夫。またね」などと返し通話を終える。スマホを置いてから僕と目を合わせる。「勇馬、急用で来れないって」
「みたいだね」僕は頷く。「延期になっちゃったね。勇馬以外は準備万端だったんだけど……」
「まあ三人でのお泊まり会は延期でいいけど、今日は今日で、やっちゃえばいいんじゃない?」と幸希が言ってくる。「せっかく食べ物買って、もう豊んちにいるんだしさ」
「え、でも二人でやったら勇馬かわいそうじゃない? 来たかったのに来れなかったんだし」
「三人でのお泊まり会は別でちゃんとやるんだし、問題ないよ。それよりここまで来て何もしないで解散って方がおかしいでしょ。私と豊の二人はもう集まってるんだしさ」
「じゃあ勇馬に一応連絡しとくよ。幸希がもう来ちゃってるからごはんだけは二人で食べるねって」
僕がスマホを操作しようとすると、幸希に手首を掴まれ妨害される。「連絡はしなくていいよ。いちいち面倒じゃん。黙ってしよ」
「えー? でも知らせておいた方がいいんじゃない?」
勇馬が寂しがる、というのもそうだけど、幸希は勇馬の彼女なので、勇馬を差し置いて僕と二人きりというのはなんだか気まずい。
「いらないって」と強く言われる。「知らせた方が面倒だって。勇馬もヤキモチ妬くし。あとでなんか言われてもウザいじゃん?」
「ヤキモチ妬かれるんだったら、そもそも僕達は二人でいちゃダメじゃない?」
勇馬は優しいし明朗なのであんまりヤキモチというイメージはないけど、仮に僕が幸希と二人で過ごすことによって勇馬を悲しませるんであれば、やっぱり二人で過ごすべきじゃない。夜ごはんをいっしょに食べることさえも中止にするべきだ。
幸希が目を細めて、悲しげな、いや、不愉快そうな表情を作る。「なに言ってんの? 私らは私らで友達でしょ? 二人でいて何の問題があるのさ。なんで勇馬のご機嫌を取らないといけないの?」
「いや、でも……」
「豊が勇馬を優先するんだったらいいよ? 好きにすれば? 私もう帰るね」
「や、そうは言ってないよ」僕が素早く返しても幸希は全然聞かなくて、腰を上げて本当に僕の部屋から出ていこうとするので「幸希」とちょっとだけ大きな声を出す。「ごめん。優先とか、そんなんじゃないよ」
部屋のドアの前で、ようやく幸希が立ち止まる。「ごはんいっしょに食べたくないんだったら、勇馬優先じゃん」
「食べたくないんじゃなくって、勇馬に連絡しなくていいの?って言ってるんだよ僕は」
「しなくていい」と幸希は僕に背を向けたまま言う。「黙ってればいい」
「わかったよ」と僕は承諾する。幸希は怒ってしまうとしばらく口を利いてくれなくなるので、その前に僕から歩み寄る。僕だって幸希とごはんを食べたくないわけじゃない。食べたい。でも、いろいろ気になるのだ。幸希が『黙っている』と言うなら、僕は幸希任せにしてあとは素知らぬ顔だ。「食べようよ」
「食べたいの?」と幸希が訊いてくる。「私と」
「食べたいよ」
「じゃあ食べよう」幸希が振り返り、手に提げていたコンビニ袋を再び部屋の床に置く。「勇馬勇馬っていちいちうるさいんだよ」
「勇馬のことは気にしなくちゃいけないでしょ?」
勇馬がいてこその、僕達三人なのだ。勇馬を蔑ろにはできない。
「気にしなくていいよ。もともとは私とあんたの二人だったじゃん」
「…………」勇馬は中学二年生のときに親しくなったわけだから、それはそうなんだけど。「でも勇馬がいなかったら」
「はいはいわかったわかった。ごめんごめん」と幸希は煩わしそうに言い、コンビニ袋の中身を取り出す。部屋の中央に置かれているミニテーブルにいろいろ載せる。パスタ、サラダ、チキン、お茶、牛乳、プリン。「もう食べる? まだお腹空いてない?」
「僕は食べれるよ」
僕も用意しておいたコンビニ弁当と炭酸飲料、あとお菓子をテーブルに並べる。
「いただこうか」と幸希は手を合わせる。「勇馬のことは忘れて、いただきます」
「なに?その合掌。……いただきます」
黙々と食べ始める。勇馬がいなくて久しぶりに幸希と二人だと、なんだか調子が狂う。調子が出ない。勇馬がいてくれたらもっと盛り上がるし、話題にも事欠かないのになあ……などと考えていると、幸希は逆に「よかった」とつぶやく。「豊と二人きりで」
「え?」
「いや、こういうのもいいかもなって。二人きりもたまにはいいんじゃない?」
「うん。まあね」
僕と勇馬、勇馬と幸希の組み合わせは珍しくないが、僕と幸希の組み合わせは最近本当に少ない。貴重と言える。それこそ昔は僕と幸希しかいなかったんだけど。勇馬が加わってバリエーションが増えた。
「それにしても、三人揃って芳日高校来れてよかったね」と幸希が話題を切り替える。
「そうだね。まあ一番危なかったのは幸希だけどね」
偏差値的に。芳日高校のランクに対して、僕は安全圏で、幸希はだいぶ危険だった。勇馬は遥かにもっと勉強ができるので、芳日高校への入学は僕達のレベルに合わせてくれた形だ。
「うるさ。過程はどうあれ、無事に合格できたんだからいいじゃん」
「そりゃそうだね」
受験勉強の思い出話や、芳日高校でのこれからのことなどについて喋っているとなかなか食事が進まないんだけど、僕の方も少し調子を取り戻してくる。幸希と二人でいるときの感覚。それを思い出してくる。本来、ずっとこうだったはずなのだ。僕はこの感覚でずっと生きていたのだ。
勇馬のいない、幸希との二人での会話を楽しみ始めた頃、幸希が改まって言う。「ねえ、豊にずっと謝りたかったことがあるんだ」
僕も自然と居住まいを正す。「なに……?」
「中学生の頃、豊、辛い時期あったじゃん?」
辛い時期。いじめられていたときのことだ。「うん」
「あのとき、全然助けてあげられなくてごめん」幸希がこうべを垂れている。「私、なんにもできなくて……ごめん」
「いやっ、いいよ」僕は強いて明るくする。「今更っ。何かと思ったよ。そんなことか。そんなの全然いいよ」
「友達だって言っておきながら、私、何もできなかったし。しなかったし」
「何もできないのが当たり前なんだよ。しかも幸希は女の子なんだから、危ないことしちゃダメだよ。何もしなくて正しかったんだ」不良グループに正面切って立ち向かえるのなんて勇馬くらいだ。「でも、僕は幸希にも感謝してるよ」
「感謝されることなんてしてないよ」
「ううん。僕がいじめられてるときに話しかけてくれたの、幸希だけだったもん」友達だって言っておきながら、実際友達だったのだ。友達でい続けてくれたのだ。「あのとき僕の友達みんないなくなっちゃったけど、幸希だけが変わらず近くにいてくれたんだよ? ありがとう」
「えぇ……まじで? 泣いちゃうんだけど」と呻いて、幸希は顔を隠して本当に泣いてしまう。声は上げず、しずしずと泣く。
「なんで幸希が泣くんだよ」と僕は笑ってしまう。「……でも、言われてみれば、僕もずっとそのことで幸希にお礼を言わなくちゃいけなかったのに、言いそびれてたよ。ごめん。ありがとう」
勇馬の大立回りのおかげで目立たなくなってしまいがちだが、みんなが不良グループに恐れを為して僕から離れていったとき、怯むことなく友達を続けてくれた幸希だって充分にすごい。ありがたい。どうして無力感なんて感じているのか、僕からすれば謎なぐらいだった。
「……次に何かあったら、もっと私を頼ってね」と幸希は水っぽい声で言う。「絶対、もっと豊の力になるから」
「何もないことを祈るけどね」高校生活は穏やかに進めたいものだ。「幸希も、なんでも相談してくれていいから……あ、でも勇馬がいれば僕なんて必要ないな。あはは」
幸希がわざわざミニテーブルを回り込んできて僕をはたく。「バカ。あんたにしかできないことだってあるよ」
「あるかなあ……?」あるか? なさそう。「あったらいいけど」
「あるよ」幸希は自分のシャツの袖で顔を拭く。涙を拭う。それから僕にちょっと微笑みかける。「いっしょに芳日高校入れてよかった」
「ん? うん……そうだね」
「ね」幸希が僕の頭を撫でてくる。「豊が元気に高校生になれてよかった」
僕は少し照れ臭くなってしまう。「なんだよ、それ」
「もっと最悪の事態だってありえたわけだから」
いじめの進捗度合いによっては……。「うん」
「だからこそ、勇馬には感謝しないといけないんだよね。勇馬には頭が上がらない」
「頭が上がらないし、足を向けて眠れないよ」
幸希はそれ以上コメントせず「お風呂入ろうかな」と言う。
「え?」お風呂? 「泊まるつもり?」
「は? お泊まり会じゃん。泊まるよ」
「え、勇馬が来れないから食事会に変わったんじゃなくて?」
「お泊まり会だよ」
「でも勇馬がいなかったら僕と幸希の二人だけしかいないよ?」
「当たり前じゃん」
「泊まったらまずくない?」
「何が?」また幸希が口を尖らせる。
「…………」幸希は勇馬の彼女だから、勇馬がいないなら泊まらず帰宅するべきだ……と思うんだけど、さっきと似たようなやり取りにしかならないような気がして僕はもうあきらめかけている。「……泊まりたいの?」
「お泊まり用の荷物、持ってきてるんだけど」
幸希が指差す先には大きめのリュック。幸希が自宅から持参してきた着替えなどが入ったリュックだ。泊まるつもり満々の荷物。まあこれを用意している段階では勇馬が来られなくなるなんて思いもよらなかったんだし……。
帰った方がいいよとは言えず、僕と幸希は順番に入浴し、消灯をし、眠る。幸希にベッドを貸してあげたかったが、僕自身の匂いが気になるし、申し訳ないけれど幸希には敷き布団の方で寝てもらい、ベッドは普段通り僕が使用させてもらう。
「おやすみ」と言い合って、そこから修学旅行の夜みたいな語り合いが始まるのかと思いきや、幸希は疲れていたのか一言も喋らず、すぐ寝てしまった。僕も最初は目が冴えていたんだけど、思いのほか静かな空気感にまぶたが落ち、いつしか意識をなくしてしまう。
物音というほどの音じゃないし、振動というほどの揺れじゃなく、なんとなくぼんやりと何かに反応して僕は目を覚ましてしまう。ゆっくりと目を開き、視界を安定させ、眼前に幸希を見とめて一気に覚醒する。意識が急速に鮮明化する。いつの間にか幸希がベッドで、僕の隣で寝ている。「ちょ、幸希……!?」
思わず声を漏らすと、それに無意識的に応じたのか、幸希が眠ったまま「んん……」と僕に腕を回してくる。「勇馬……」
「ゆ、勇馬じゃないよ……っ」僕は呼吸少なに呻かされる。勘違いされている。「幸希、起きて」
小声で呼んだだけでは幸希を目覚めさせられず、寝ぼけた幸希はさらに片足を僕に掛けてきて、太ももで僕を挟み込もうとしてくる。「勇馬」
「勇馬じゃないって」いま幸希を起こしてこの状況を認識されたら逆ギレされそう……と思いながらも、こんなままでは朝を迎えられないし、いったん起きてもらう。僕は幸希の体を揺する。「幸希。ねえ、幸希。起きてよ」
「んうう……はあ」と幸希は息を吐き「嫌」と言い、密着をより強めてくる。「勇馬。勇馬」
「えぇ……? 全然起きないや」昔から幸希を知る僕としては、もっと寝起きのいい子だったって記憶があるんだけど、高校生にもなれば変わるか。僕が幸希といっしょにお昼寝したのなんて、もう十年前の話だし。ともあれ、幸希は勇馬とラブラブそうで何よりだった。普段三人でいるときは、幸希も勇馬もあんまりお互いを好き合っているという雰囲気じゃないけど、やっぱり二人きりになるときっと仲良しなんだ。僕がいるときは多少なりとも僕に気を遣ってくれているのかもしれない。そんなのいいのに。僕は、僕の知らない幸希を垣間見ることができて、少し……少し、なんだろう? 少し感慨深くなる? 疑問系。わからない。なんとも表現しがたい心境だ。「……二人きりのとき、勇馬とはいつもこんな感じなんだね」
そんなふうに、寝ぼけている幸希に喋りかけると、「ち、違うから」といきなり言われる。
「え? 幸希……?」寝ぼけてない? 声が急にはっきり聞こえてくる。「起きた……?」
「起きてるよ」
「なんだよ。いつの間にベッドに入り込んできたの? 離れて」
僕が体を左右に振って幸希からの脱出の意思を示すと、反対に幸希はロックを強めてくる。「いいじゃん」
「いいじゃんって……よくないよ」
「しばらくこのままでいさせてよ。せっかくなんだしさ」
「せっかくってなんだよ」僕はよくわからずテンパる。「幸希、寝ぼけてたんでしょ?」
「うん……」
「もう目、覚めた?」
「覚めてるよ」
「だったら離れて、自分の布団に戻って。いま何時かな……?」
室内はまだ暗い。朝が近いって時間帯じゃなさそうだ。
幸希に「嫌」と拒否される。「たまにはいいでしょ?」
「たまにでもダメでしょ。幸希には勇馬がいるんだから」
「勇馬勇馬って、豊はホントにうるさいよね」
「うるさいとかじゃなくって、常識的に……」
「何が常識だよ」幸希の息が僕の顔に当たる。気配でもわかるし、もう目も慣れてきたので輪郭が見えてもいるんだけど、幸希の顔は僕の目の前にある。「なんにも知らないクセしてさ」
「なんにもって、なに……? 何の話?」
「常識をだよ」
「…………」
「……勇馬とはこんなことしてないから」
「……へ?」
「いや、さっき、勇馬と普段こういうことしてるんだねって言ったでしょ?豊。してないから。したことないし」
「あ、そうなんだ」なんだ。いや、なんだじゃない。「だとしたら意味わかんないよ。なんで僕にこんなことするの? 幸希、ホントに寝ぼけてた? 寝ぼけてないよね?」
「寝ぼけてないよ」と幸希はさっきと異なる返事をする。
「わかった。幸希が言いづらいんだったら、僕から勇馬にそれとなく伝えておくよ」
「は? 何を……?」
「勇馬に甘えたいんだけど、恥ずかしくてできないから僕を勇馬に見立ててたってことでしょ? 幸希が勇馬とイチャイチャしたがってるんだってこと、僕が悟られないようさりげなく、勇馬に伝えてあげる」
僕はナイスアイデア・ナイスアシストだと得意気だったのに「は? 絶対やめて」と強く言いつけられてしまう。「そんなこと絶対に言わないで。わかった?」
「えぇ……?」なに? 幸希の唐突な剣幕に僕は怯まされる。「言っちゃダメなの?」
「絶対に言っちゃダメ。わかったの?」
「わ、わかったよ。幸希がそう言うなら言わないけど……」
しかし事情が掴めない。なんでそんなムキになって口止めするのかよくわからない。恥じらい?
「本当にバカだね、豊は」
「ば、バカって、よく言うよ。幸希なんて芳日高校合格ラインギリギリで、追い込みが大変だったじゃない」
「そんな話ししてないよ。豊はもっとバカだよ。私よりね」
「どういう」意味?と訊こうとしたのに、口を塞がれる。暗くてもわかる。幸希の唇が僕の唇に当たっている。当たっているんじゃない。偶然とかじゃない。幸希が僕に唇を押し当てている。僕は口を閉ざされ、呼吸ができなくなる。鼻ですればいいし、普段から鼻でしているんだけど、幸希の唇の感触に意識を全部持っていかれてしまい、正しい呼吸の仕方を忘れる。唇にばかり意識が集中する。そのわりには幸希の感触を僕は正しく捉えられていない。口付けされている!という感覚しかない。真っ白になっている。
苦しくなり、しがみつくように力を入れると、結果的に幸希を強く抱きしめるような形になってしまい、幸希が「んんっ……」と辛そうに声を漏らす。
唇が離れたので僕は「あ、ごめん」と力が入ってしまったことを謝る。
「ううん。いいよ」と幸希も抱き返してくる。
「や、ダメ……離れてってば」
「…………」
「幸希」
「…………」幸希は長らく黙り込んだあと、「じゃあ寝る」などと口ずさみ、そのままうつむいて眠ってしまう。いや、そんなふうにすぐさま眠りに落ちるはずない。眠ったフリをしているだけだ。
何がしたいんだろう?と思う。僕じゃなくて勇馬とすれば済む話なのだ。幸希の思考はまったくもって読めないが、それはもう読むのをあきらめるとしても、僕が勇馬に対して気まずいのだけはたしかで、今夜の一連の出来事をどう消化すればいいのか悩む。悩む。悩むけれども黙っておくより選択肢がない。幸希も余計なことは言わないようにと言っていたので、僕は後ろ暗い気分のまま、また勇馬と顔を合わせるしかないのだ。最高のカップルだと僕が勝手に思い込んでいた二人には、なんらかの問題が隠れ潜んでいるということなんだろうか? わからない。僕が日常的に眺めている限りだと、何の歪さも感じられないんだけど。
音が聞こえた。完璧な世界の、軋む音が。