異同の深緋(いどうのこきあけ) その3
無慈丸は無理やり作り笑いを浮かべ静かに話し始めた。
「まぁ病のせいといえばそうです。以前の私は他人の痛みを我がことのように感じていました。だから他人の苦痛が和らぐなら自分にできる事なら何でもしました。
悲しんでいる人にあうと、悲しい気持ちになりに自然に涙が出るのです。他人が痛みに苦しんでいると、その痛みを自分の同じ部分に感じ、苦しくなるのです。
空腹で倒れそうになっている人をみると、私も身体に力が入らず、フラフラと倒れそうになりました。だから優しさというよりも、自分の苦痛を取り除くために、できるだけ他人をいたわっていたのです。
それが、原因不明の全身疼痛という病にかかり、何日も寝込んでいる間、耐えきれない苦痛が寝ても覚めても続く中、私はなぜこんなにも苦痛が続くのか?を考えました。
自分の身体があるから痛いのだとすら考えました。手足を切り落とせばその苦痛はなくなるのではないか?とまで。そして私は意識の中で痛みの部位を切り落としました。
手がないのだから手が痛いはずがない、足がないのだから足が痛いはずがないと考え、一つずつ痛みを感じないように言い聞かせたのです。そして今に至ります。
気を抜くとまた痛み出しますから、常に自分の五体はない物と思っております。そう考えると、不思議な事に他人の感覚もないように思えたのです。
子供の指を折っても痛くないだろう、掏裡丸の腕の腱を切っても痛くないだろうと思うようになりました。
他人を傷つけることに躊躇いも罪悪感もなくなったのです。私が感じないのだから、他人も感じないはずだと思うようになったのです。
理屈では痛みは誰にでもあると理解できますが、自分の痛みがなくなった今、他人の痛みは本当にあるんでしょうか?それはただその人の想像の中にだけあるんじゃないでしょうか?」
と虚ろな目で若殿を見つめる無慈丸を私はかわいそうだと思った。
自分の五体の感覚をないものと考えるしか方法がないぐらいの苦痛を今まで味わったことがない私は、無慈丸の苦痛は極限に達し、死ぬよりもつらい目にあったのではないのか?と思った。
極限の苦痛を味わっている自分を切り離すことで、その苦痛を他人事にし、外から眺めることで精神の安定を図ったのだと思った。
そして、自分に苦痛があることが他人の苦痛を想像するためには必要なことが分かった。
もしかして、平気で動物や他人を傷つけることができる人は自分の苦痛も感じない人なのではないか?
極限の苦しみを乗り越えた人が他人にも自分にも厳しくなれて、強く見えるのは、自分の苦痛を無視し、他人の苦痛を想像することをやめたせい?
それがいいことか悪いことかは私にはわからなかった。
ひとつわかるのは感覚を閉ざした無慈丸は喜びも楽しみも失ったということだ。
感情を失った無慈丸の表情は、感情と感覚はつながっていることを示していた。
ずっと無表情で我々を見つめる無慈丸を若殿は弾正台に訴えることもせず、ただ以後は痛めつける前に主に知らせるようにとだけ命令した。
帰り道、私は若殿に
「人は苦しみが続き限界になると、脳が勝手に何も感じなくするんですねぇ?精神の健康を守るためですかね?無慈丸は自分の痛みは他人の痛みと同じだと思っていたから他人に同情できたんですよね。同じ感覚を共有してると思うから、気の合う人と一緒に過ごすと嬉しいし楽しいんですよね。」
と言うと若殿は少し寂しそうに笑い
「他人と同じ感覚を共有しているという意識は幻想かもな。私の見ている赤とお前の見ている赤は違う色だろうな。」
と言った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
一見、他人に冷たいサイコパスな人で、過去には極限の苦痛を乗り越えたから仕方なくそうなったんだろうなぁと思ってしまう人っていますよねぇ。
時平と浄見の物語は「少女・浄見 (しょうじょ・きよみ)」に書いております。