千金の下肥(せんきんのしもごえ) その1
【あらすじ:大きな山門で、高貴な方の子息の稚児が局部を犬に噛み切られそうになった事故の原因を探ることを依頼された時平様。何が正しいのか答えがすぐにわからないことが世の中には多すぎるが、時平様は今日も目を逸らさず考える。】
私の名前は竹丸。
平安の現在、宇多天皇の御代、日本で権勢随一を誇る関白太政大臣・藤原基経様の長男で蔵人頭・藤原時平様に仕える侍従である。
歳は十になったばかりだ。
私の直の主の若殿・時平様はというと、何やら、六歳ぐらいの小さな姫に夢中。
宇多帝の別宅に訳アリで、隠し育てられている姫を若殿は溺愛していて、周囲に気づかれていないと思っているが、使用人はじめ母君・大奥様にもバレバレ。
若殿いわく「妹として可愛がっている」。
でも姫が絡むと、はたから見てもみっともないくらい動揺する。
従者としては、たかが小さな女の子に振り回されてる姿はいかがなものか。
今回は『必要悪』って本当に必要?というお話(?)。
ある日、大殿が若殿を呼び出して声をひそめ
「太郎、実はな、八条式部卿(本康親王のこと)から折り入って頼みがあると言われたのだが、お前引き受けてくれるか?」
若殿は大殿の内密な雰囲気に少し不思議な顔をして
「八条式部卿と言えば香の調合に優れていることで有名な?」
私の知識では八条式部卿の薫物の調合方法と言えば『沈香を主に甲香(巻き貝の蓋の一部)・丁子・白檀などを合わせ、1日酒につけたあと乾かしたり、一晩馬糞の下に埋める』といった独特のもの。
大殿はそう!と頷いて、
「式部卿宮には惟時という十二歳になる子息がいてな、ある寺に行儀見習いで入門しておるのだが、・・・彼がある不幸な事故に遭ってな。」
歯切れの悪い大殿に若殿は焦れったい表情を浮かべ
「ある事故?とは何ですか?」
大殿がため息をつきながら早口に
「犬に局部を噛み切られかけたらしい。それを式部卿宮が大変、懸念なさって、原因の追及と二度と起こらないように対策を練ってほしいと・・・」
私はえぇっ!!と驚いて、局部って?魔羅(男根)ですよね?噛み切られるって?と痛みを想像するだけで気絶しそうになり、思わず
「それで命は助かったんですか?怪我の程度は?」
と口をはさんだ。
大殿が眉をひそめて自分のことのように痛そうな表情で
「それが、その日から自宅に戻って療養しておるらしい。傷が化膿したらしく熱が出て病床に伏しておるようだ。」
若殿も痛そうな表情で
「で、切りはなされてはいないんですよね?つながってはいるんですよね?」
大殿がウンと頷き、私も痛みを想像して思わず顔をしかめた。
でもアレ?と思って
「一体、犬に何をしたら局部を噛み切られるなんてことがあるんでしょう?どんな遊び方をしたんでしょうねぇ・・・」
と呟くと二人とも顔を見合わせた後『全くだ。』と頷いた。
若殿が
「局部に噛みついた犬はもう捕まえて処分したんですか?」
大殿は険しい表情で
「それが、まだ捕まえておらんらしい。それに加え、寺内の風紀が乱れて入門した稚児達の中でケンカや悪さが絶えないらしいので、その辺もお前に解決してほしいと。」
若殿は難しいなと言う表情で
「私には荷が重いような気もしますが、尽力します。」
と言うと、大殿がうむ!と頷いた。
若殿が早速そのある寺に向かうというので私もお伴した。
私は局部を噛み切る犬がその寺をウロウロしてるかと思うとゾッとしたが、とりあえず局部を守っていれば大丈夫かなぁとボンヤリ思いながらついていった。
一抱えもある太い幹の上端が見えないくらい高い杉の木々が道の端に並ぶ、石段を登った先にその寺はあった。
山中にあるその寺は立派な山門や回廊や仏殿や法堂があるかなり大きな寺だった。
対応してくれた僧侶に法堂に通され、惟時の事故のあらましを聞こうと、若殿が
「惟時の局部に犬が噛みついた時の状況はわかりますか?」
その僧侶は首を傾げ
「それが、よくわからないんですが、篤丸と則之という惟時と仲のいい子供がいるんですが、その子たちと遊んでいたらしいのです。犬は山中に住み着いているのがたまに周囲をうろついていますが、寺内に迷い込むことは過去になかったと思います。」
若殿が
「その場にいたのが篤丸と則之ですね?話を聞きたいので後でここに呼んで下さい。それと寺内の稚児たちの間でケンカや悪さが絶えないとはどういったことがあるのですか?」
僧侶は眉をひそめ、ゆゆしき事態だという顔で
「そうなんです。恥ずかしながら、子供たちが我々大人の僧侶のいう事を聞かず、酒を盗んで飲むわ、殴り合いの喧嘩をしてその勝敗で銭を賭けたり、ネズミやカエルなどの生き物を殺したりしてます。まったく、仏の教えが伝わらぬようで、頭を悩ませています。修行や読経や説法の効果が全くないなんて、我々もどうすればいいか・・・」
と頭を振って嘆いている。
若殿が少し考えて
「悪さを主導している子がいるのではないですか?子供はカリスマ的なリーダーのすることを真似しますから。」
「そうです!惟時と篤丸と則之がまさにそうです!特に惟時と篤丸が入門してから子供たちの風紀が乱れだしたと思います。」
「惟時はある宮のご子息ですね。篤丸と則之はどういう身元ですか?」
「篤丸はある貧しい農民夫婦が口減らしのために寺に預けたのです。なかなか頭がよく見た目もいいので、キチンと修行すれば将来は末寺の住職にでもなる器です。則之は身分のある貴族が行儀見習いで入門させた子息で、いわばお客ですね。」
「その三人がグループのリーダーで悪さを先導してるのですか?その三人の関係はどうなんですか?険悪なのか仲が良いのか?」
僧侶は思い出すように
「則之が二年ほど前に入門し、惟時と篤丸は一年ほど前に入門しました。則之は公卿の子息ということもあり、周囲の子供たちは則之を慕っていましたが、則之は一人で過ごすことが多かったです。惟時と篤丸が入門してからそれぞれの派閥のようなものができ、派閥の間では小競り合いがあったようですが、惟時、篤丸、則之が直接大きな喧嘩をすることはなかったです。
むしろ惟時、篤丸、則之は仲がよく、修行の合間に三人で一緒にいる時間も多かったようです。」
・・・魅力的なリーダーを慕う子供たちが派閥を作ってお互いをけん制しあうことはあるだろうなと思った。
惟時には会えないが、私より二・三年上の篤丸と則之は一体どんな子たちなんだろうと楽しみになった。
(その2へつづく)