錦秋の小倉山(きんしゅうのおぐらやま) その3
大殿が松野に近づき、胸ぐらをつかんだかと思うと、今まで松野の後ろにいて見えなかった人物が大殿を止めようと姿を現した。
それは壺装束の女性で衣の光沢からみても身分の高い貴族の妻女のようだった。
大殿が少しひるんで、胸ぐらをつかんだ松野を突き飛ばし松野は後ろに尻餅をついた。
その松野をいたわるように女性が松野のそばにしゃがみ込み、庇いながら大殿を見上げた。
大殿が怒った口調で
「わしよりもその男を選ぶというのか!?えぇっ!いい暮らしをさせてやったのは誰だと思ってるんだ!それを・・・!わしの目を盗んでコソコソと会っていたというのか!そいつのどこがわしよりもいいと言うんじゃ!えぇっ!」
女性はうつむいて
「殿が、殿がいらっしゃる度にお供する松野の姿を見かけ、好ましいと思っていたところへ、殿がわたくしの家から他の女のところへ去ったあと、松野は何かと理由をつけわたくしを慰めてくれたのです。」
大殿が
「わしがお前を蔑ろにしたせいだというのか?寂しい思いをさせたせいだというのか?」
女性がコクリと頷いた。
・・・まぁ男女のことはお互い悪いと言えば悪いし、悪くないと言えば悪くないよなぁと思いながら見てると松野がキッと顔を上げ、姿勢を正し
「殿!今日限りで、私は殿のもとを去ります。今までお世話になりました。以後は彼女と二人でつつましく所帯を持ちます。」
と正座をして頭を下げ、女性も隣で同じように頭を下げた。
・・・黙っていてもバレなかったかもしれないのに、あえて大殿に白状してまで二人一緒になりたかったなんて純愛なんだなぁと感心した。
大勢の恋人の一人ぐらい寝取られたって痛くもかゆくもないだろうと思ったけど、寝取られてどんな顔をしているのか大殿の表情を見たかったが後ろ姿しか見えない。
・・・残念。
ふと若殿を見ると目が合ったので頷きあってその場を立ち去った。
細い山道を私は若殿の後ろについて登りながら若殿に
「大殿が今日ここへ来たがったのはあの女性とデートするつもりだったからですね?」
と言うと若殿が頷いて
「松野が父上の恋人との仲を父上に許してもらおうとして、彼女との逢引きと称して父上を呼び出したんだな。ということは、暗殺というのは全部私の杞憂だったということか?」
と複雑な顔をしている。
息を切らして小道を登り切り、やっと展望場所についたと思ったら、若殿が立ち止まるので私は背中にぶつかった。
「何をしてるんですか?落ちるじゃないですか!さっさと進んで下さい」
と言いながら横によけ小道を登りきると、若殿の視線の先には苦木丸が待ち構えていた。
苦木丸の手にはキラリと銀色に光る小刀が握られていた。
苦木丸が低い声でポツリと
「お前が檜女を捨てたからには、お前を殺しても石上樫継は俺を咎めることはない。檜女は私のものだ!お前には二度と邪魔させない。覚悟するんだな。」
と言い捨てると、静かに若殿に近づき、スッと若殿の腹に小刀を突き立てた。
若殿はとっさのことに身構えることもできず小刀を握った手をつかんで腹に刺さる勢いを緩める事しかできなかった。
苦木丸が小刀を引き抜くと、若殿の腹から血がポタポタと滴り落ちる・・・と思ったが血は一滴も落ちなかった。
若殿が前かがみになってしゃがみ込み両手と両ひざをついて四つ這いになった。
私もしゃがみ込んで若殿の傷を確かめようと若殿の上半身を起こした。
狩衣に血がしみ込んでいるかと思ったがそれもない。
若殿から苦木丸に目を移すと、そこには苦木丸の姿もなくなっていた。
若殿も自分の腹を見て『アレ?』と言う顔で
「なぜだ?確かに刺された感覚があったのに?」
「苦木丸はどこへ行ったんでしょう?一体何があったんでしょう?」
と我々は狐につままれたようになった。
開けた展望場所の草むらをキョロキョロと辺り一面を見渡しても、苦木丸の姿はどこにもなかった。
この開けた場所から何の気配もなく一瞬にして姿を消すことができるんだろうか?と私が呆然としていると、若殿はゆっくりと何かを考えながら立ち上がり、ある方向の山並みとその先にかすかに見える平野を見つめ
「もしかして、アレのせいかもしれないな」
とポツリと言った。
その不思議な出来事のあくる日、若殿が線香を持ってどこかに行くというので私もお伴した。
行く先は昨日、小倉山からみえた平野にある寺で、それは化野念仏寺だった。
化野念仏寺は『伝承によれば弘仁2年(811年)、空海が当地に野ざらしになっていた遺骸を埋葬して供養のために千体の石仏を埋め、五智如来の石仏を建てて五智山如来寺を建立したのに始まるとされる』という寺。
その寺につくと早速、若殿は火を点けた線香を石仏に供えた。
若殿と一緒に手を合わせながら私が
「昨日の石上樫継、苦木丸、檜女はここで野ざらしになっていた仏様だったんですかねぇ?」
「そうかもな。過去に本当に似たような事件があったのかもしれない。死んだ後、霊体になっても同じことを繰り返しているのかもな。」
「だから石上樫継の名乗った官職が古かったんですね。そもそもこの出来事の発端のあの文はどうなったんですか?まだ手元にあるんですか?」
若殿が首を横に振り
「昨日帰って文箱を確かめたが無くなっていた。」
若殿の全身をジロジロと面白そうに見つつ、『それにしても・・・』と思いながら私はウンウンと頷き
「生きてる女性だけじゃなく幽霊にも、若殿はモテるんですねぇ・・・」
としみじみと言った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
百人一首の「小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば いまひとたびの みゆきまたなむ」の作者、貞信公は時平の弟・忠平だと気づいて愕然としました(?)。
死後、差がついたなぁと。
時平と浄見の物語は「少女・浄見 (しょうじょ・きよみ)」に書いております。