愛欲の明王(あいよくのみょうおう) その2
が、何も起こらない。
読経の合間に、なにかガサガサと動く音が聞こえた気もするが、悪霊らしきものが屏風の陰からでてくるわけでもない。
少しして、干からびた鬼・・・じゃなく脂ぎった僧都が屏風からでてきてまた護摩壇の前の席につくと、ちょうど火が小さくなるとともに儀式が終わった。
私はがっかりした。
絵巻物で見る、髪を振り乱した死人のような怨霊や、口から真っ赤な火を吐く狐は一切出てこなかった。
もちろん煙のような泣き叫ぶ悪霊も。
多喜に促され僧都に気づかれる前に私たちはそこから離れた。
若殿は多喜に
「過去に調伏を受けた人の名簿を見せてもらえませんか?」
というと、多喜は体をくねらせて若殿のお腹あたりを人さし指でつついて
「いいですけど・・・何かご褒美があるのかしら?」
としなを作った。
若殿は照れもせず、口の端で笑うと
「そうですね。では二人きりになれるところへ、名簿を持っていきましょう。」
と二人でどこかへ消えた。
『何だ。若殿もやるときはやるのね。やっぱり立派な男だったんだ』
とちょっと感心し、宇多帝の姫が大きくなったら告げ口してやろうと心に誓った。
私は侍所で待っていることにした。
そこへ三十半ばくらいの、無精ひげが目立つ、ガタイのいい雑色の身なりをした男がきて
「竹丸さんというのは・・・・お前か?」
「はい」
「悪いが、僧都が護摩行を明日以降にしてくれと言ってるんだが、いいかい?」
私はいつでもよかったので
「いいですが、私の主人にも確かめてみます」
「おお。そうしてくれ。じゃあまた日を改めてきてくれ。」
と言って立ち去った。
それと入れかわるように若殿が返ってきたので、護摩行が明日以降になったことを伝え、若殿に一応、多喜と何をしていたのかを聞いてみると
「ああ。名簿を書き写した後、内護摩の意味を彼女に説明していたんだ。勘違いしているようだから。」
「は?」
「内護摩は自分自身を壇にみたて、仏の智慧の火で自分の心の中にある煩悩や業に火をつけ焼き払う観想的瞑想のことで、彼女の言う意味の正反対だ。」
・・・多分、多喜はわかってて、わざと言ったんだよ、人が悪いなぁ。
若殿は私を見てにやりと笑う。
「とにかく、この名簿にある依頼人に護摩の効果があったかを聞き込みしてみよう。」
と若殿と私は過去に調伏を受けた人に話を聞くために屋敷を訪れた。
件の僧都は寂運という名で、寂運僧都の調伏の依頼人の客層は貴族のお姫様から使用人までとさまざまだったが、はっきりしていることは1:9ぐらいの割合で女性が多いということ。
若殿が書き写した名簿には身元もちゃんと書いてあるのでそれを頼りにまず一人目のある貴族の女房(房を与えられている侍女)を訪ねた。
憂というその女房は御簾越しに若殿と対面し、若殿はさっき見た護摩行の手順を一通り話し、
「はっきりいって調伏の効果はありましたか?」
憂の考え込む気配がして
「そう・・・ですね。気分が落ち込んで鬱々としていたものですから、何かの障りがあると思って護摩をお願いしました。
たしかに調伏を受けた直後は気分が晴れましたが、今は元通り、憂鬱な気持ちです。」
「私の話した手順と同じですか?他に何か違ったところや、知ってることはありますか?」
「お話にはなかったですが、調伏前と最中に悪霊を取り払うための薬だといって液体を飲まされました。初めの液体を飲むと、お腹が痛くなり吐き気がしました。次の液体を飲むとそれがおさまりました。」
私は悪霊を祓うためにお腹を下して取り去る方法?と思ったが、次の液体で治まったなら違うのかと思った。
でも『直後は気分が晴れた』ということは何らかの効果はあったのか。
「その他に何か変わったことがありませんでしたか?」
憂は少し間をおいて
「そういえば、煙に強い鼻をつく匂いがあって、そのせいかはわかりませんが、意識が朦朧と致しました。腹痛が強まり意識を失いそうな状態で、何か・・・黒い影を見た気が致します。」
私は『すごい!悪霊だっ!本当にでてきたのか!』と一人でテンションがあがる。
若殿の顔をキラキラした目で見上げると、渋い顔をしている。
(その3へ続く)