応身の厨子(おうじんのずし) その5
耳を澄ますと若い女性の高い声で
「彼が東門まで迎えに来てるの。出ていかせて!」
中年男性の低い声で
「私の珠を返せっ!」
また若い女性の声、中年男性の声と交互に
「イヤよっ!あんたのじゃないわよっ!」
「何だとっ!くそっ!こうなったらっ」
「うっううっっ・・・・」
「お前が悪いんだっ・・・、だ、誰かっ!!怪しい男が妻を手に掛けて東門の方へ逃げたっ!!追えっ!!」
たった今、すぐそばで男女が言い争っているような声が聞こえる。
声のする方向を見ると、真に迫った声で男性と女性を演じ分けてるのは、市女笠の若君だった。
若君は虫垂衣の中で俯き、何かに没頭するように扇をいじりながら、ブツブツと口だけを動かしてた。
よく聞くと同じ会話を何回も繰り返しているようだった。
若殿が静かに口を開き
「若君は母が殺されたそのときも現場にいた。
犯人が母を手に掛ける様子を厨子の中で聞いてしまったんだ。
その直後、母の悲惨な姿を見て強い衝撃を受けた。
おそらく、それ以降、緊張や恐怖という当時と同じような感情を感じると、その衝撃の場面を記憶から呼び覚まし、記憶に焼き付いた会話を何度も無意識に口に出すことで、本能はそれを克服しようとしてるんじゃないか?
反復行動は緊張を和らげるのかもしれない。」
えぇっっ??!!
でも、それじゃあっ!!
「ええと、でも、若君の話した内容が正しいとすると、まず『彼が東門まで迎えに来てるの。出ていかせて!』って若い女性が言ってたんですよね。
これが母君の言葉だとすると、もしかして、その日、母君は誰かと東門で待ち合わせしてたんですか?
その後の中年男性の声『私の珠を返せっ!』が犯人の声で、その犯人が最後の『お前が悪いんだっ・・・、だ、誰かっ!!怪しい男が妻を手に掛けて東門の方へ逃げたっ!!追えっ!!』って言ったなら・・・・犯人って・・・もしかして、間男じゃなくて・・・」
全員がブルブルと肩を震わせうつむく八支正道を見つめた。
若殿がフッと息を吐き、
「あなたはあの日、若君を連れて出ていこうとしていた北の方を塗籠で見つけた。
塗籠においてある単衣か何かを取りに来た北の方と偶然、出くわしたのかもしれない。
夫婦喧嘩を始めたあなたたちを横目に退屈になった若君は厨子の中に入った。
先ほどのような会話があり、あなたは妻を手に掛けた。
そして妻の殺害を東門で待っているであろう間男の仕業に見せようとした。
忍び込んだ間男が子供を奪おうとして争い、妻を殺めたことにしようとした。
しかし大声を出してしまってから妻が旅支度をしていることに気づいた。
誰かが来る前に妻の市女笠を隠さなければならない。
塗籠の櫃は小さすぎるし書棚には隠せない。
あなたは厨子から若君を引っ張り出しそこへ市女笠を隠し、妻の壺装束の帯をほどいた。だから侍女が見たとき、腰まで衣がたくし上げられていたんだ。
だが、沓脱にあった草履を隠すことは忘れてしまったようですね。」
八支正道は震える声で
「・・・はい。そうです。
駆け落ちをしようとする妻に怒りを覚えましたが引き留めても仕方がないと諦めました。
ですが、許せないことに、私の子を、天珠を、連れて出て行こうとした!
だからっ!
私の掌中の珠、天珠は置いていけ、返せ、と言ったんです。
だが妻は私の子ではないと!
殺そうと思いました。
当然でしょう?あの女は私と過ごした全ての過去において、私を裏切り続けていたんですから。
その後、厨子の中から市女笠を取り出すことを忘れていたせいで、もう一度、厨子に隠れた天珠に見つかってしまったんです。
天珠はそれをいつも身につけて離さなくなりました。
説得して取り上げようとしましたが、泣きわめいて決して手放そうとしません。
彼にとっては母の形見ですが、私にとっては犯した罪を何度も目の前に突きつけられる拷問道具です。
あれを見るたびに頸を絞めた時の妻の表情を思い出し、恐怖と後悔にさいなまれるのです。」
若殿が険しい表情で
「あなたを弾正台に連行します。」
八支正道はゆっくり頷きボソリと
「妻の市女笠を被る天珠は、改心を説く仏神の応身(化身)なのか、それとも罪業を責め立てる地獄の鬼の応身なのか。
『理趣経』では愛欲は清浄なる菩薩の境地であると説かれていますが、私にとって愛欲とは、妻を殺し息子の心を破壊した修羅へと私を変貌させた、忌まわしい汚れた淫欲でしかなかった。」
若殿は首を横に振り
「あなたは妻子への妄執を絶つことができなかった。
無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるという仏教の真理を、頭では理解していても、実践することができなかったというだけのことです。
本来の『愛欲』とその恍惚は、清浄なる菩薩の境地であると、私は固く信じています。」
自分を励ますように、静かに呟いた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
酷暑の現代こそ、日よけ、虫よけ機能のある市女笠って流行りそう!って思いました。
市女笠を市中で身につけて歩く最初の一人は勇気がいるでしょうけど。
時平と浄見の物語は「少女・浄見 (しょうじょ・きよみ)」に書いております。