藤の花翳(ふじのはなかげ) その5
「二年前に何があったのですか?」
「・・・・」
真赭姫は何も答えなかった。
「相手の男は誰ですか?」
真赭姫は低い声で
「二年前ではないですわ。私がまだ何もわからない、幼いころからあいつは・・・、根岸は・・・。
二年前に月のもの(月経)が始まり、ばあやが結婚の準備だと教えてくれるようになって初めて、あいつのすることの意味がわかったのです。」
「なぜ誰にも打ち明けなかったのですか?」
「怖ろしくて・・・!月のものがすぐに止まり、吐き気がする一方で土や葉っぱなどの異常なものが食べたくなって、私は自分が取り返しのつかない事をしたと思いました。
冷たい河に入れば元に戻るかもしれないと思い入ったのです。死んでしまってもいいと思ったのです。」
「根岸はなぜそんなことを・・・」
と若殿が言いかけて口をつぐんだ。
「・・・はじめは・・・満開の藤の花の下で・・・一緒に遊んでくれると思ったのです。でも、何度目だったか、私が嫌がるようになると、誰にも言うなと口止めしたのです。
恐ろしくなって近寄らないようにしたのですが、近くに寝泊まりしているものですからどうしても顔をあわせてしまいます。」
真赭姫は震える声でいい、泣いているようだった。
彼女の苦痛と恐怖を私は想像もできないが、死にたくなるほどの苦しみを与えた根岸が心底憎かった。
「私がバカだから、無知でどうしようもなく愚かだから、つけこむ隙があったから、こんな目にあったのです。全て私が悪いの・・・。」
幼い彼女に拭い去れない傷を残した罪はどう考えても許されない。
根岸を殺しても彼女の心は元には戻らないだろう。
生きたまま、彼女の精神を殺した。
そんな犯罪を何も考えず、自分の欲望からだけで犯したのなら、彼女にとってあまりにも理不尽だ。
根岸は彼女の精神を殺し、人を信用する心も、自尊心も奪いさった。
私はそこにいられなくなり、逃げ出すように若殿をおいて屋敷に帰った。
彼女と顔を合わせても何も言える自信がなかった。
自分の房で丸まって寝ていると、若殿がきて
「お前には言いたくなかったんだ。こんなことなら傷つくだろうと思って。従者とはいってもまだ子供だしな。」
私は何も答えない。
「梅が言うには、今まで何も気づかなかったらしい。思い出してみると、真赭姫は小さいころは根岸にすごくなついていて、いつも二人で遊んでいたらしいのが、七歳のある日を境に怖がるようになって避けるようになったそうだ。」
「やめてくださいっ!聞きたくないです!」
私は耳をふさいだ。
「耳をふさいでもいいから、最後まで聞いてくれ。」
私は耳をふさいだままじっと動かなかった。
「その日を境に真赭姫は根岸と二人きりにならないように、いつも梅や茜と一緒にいようとし、夜も一緒に寝たがり泣いて頼んだそうだ。
梅は幽霊でも怖がってると思って気にせず一緒に寝ていた。
十一歳になり月のものが始まると、大人なんだからと言って一人で寝るように家原様も命じた。
それに乗じて根岸がまた真赭姫に近づいたらしい。」
私は胸が苦しくなった。
「家原様が根岸を問い詰めると、根岸は真赭姫を愛しているから嫁にもらいたいと言った。」
「そんなこと!真赭姫が可哀想です!嫌がってるんでしょう!怯えてるんでしょう!ダメです!」
「家原様も同じ意見で、根岸は屋敷から追い出された。」
「愛してるだなんて!それでも、あんなことしちゃだめですよね!」
若殿は青ざめて深刻な顔をした
「そうだ。愛していても、絶対あんなことをしてはいけない。」
「今更・・・今更、根岸を追い出しても、遅いじゃないですか!彼女はどうなるんですか!これからどうするんですか?」
「私には何もできない。時間が癒してくれるのを待つしかない」
「こんなの理不尽ですっ!彼女は何も悪くないのに!狐憑きだなんて!自殺しようとするなんて!」
私は泣きながら怒りを若殿にぶつけた。
だれもかれも憎いと思った。
大人はみんな間違っていると思った。
根岸のような奴を無傷で野放しにして、真赭姫の傷は一生癒えない。
こんな理不尽なことを許すなら、みんな死んでしまえばいい。
私が殺してやる。
根岸の殺し方を頭の中で何度も何度も想像しているうちに落ち着いてきた私は、自分の根性のなさにあきれもしたが、若殿がその事件を境にふさぎ込むようになったのにも気づいた。
その事件以降、若殿は二度と宇多帝の姫を膝に乗せなくなり、抱き上げなくなった。
そして、姫にむける微笑みにはわずかに翳を含むようになった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
これを書かないと時平の葛藤の意味が伝わらないかな?と思いまして。
どうでしょうか?
時平と浄見の物語は「少女・浄見 (しょうじょ・きよみ)」に書いております。