夫婦のはなし
少し年の差夫婦の話
食卓の上にある見慣れぬ本を目にし、男は固まった。
『完全版! たるんだ腹とはおさらば、鍛えよ人類!』
威勢のいいタイトルを二度見する。表紙にはばきばきに割れた腹筋の男。口元から溢れる歯が白い。
指先でつまんで恐る恐る紙をめくると、上半身裸の男がにやけ顔で腹筋している。
男は自身の腹を見下ろした。
年相応の体。たるんでいるわけではない、はずだ、まだ。
しかし表紙の男に負けないかと言われると、無理だ。負ける。
(えっ、どういうこと。これ、俺にやれってこと!?)
この本の持ち主は自分ではない。ということは、外出中の妻のものである。
妻が「少しは鍛えろ」と暗に告げるため、食卓の上にこれ見よがしに放置したのだとしたら――?
これまで体のたるみについて苦言を呈されることはなかったが、心の中で不満を持っていたとは……。妻は年下でとても美しい女性だし、実は表紙のようなムキムキが好みなんだろうか。
男は自分の不甲斐なさに一瞬落ち込みそうになったが、これではいけない、と思い直した。
大切な妻に捨てられるわけにはいかない。
♢
男が早速腹筋に取り組んでいると、妻が帰ってきた。買い物に行ってきたようで、両手に袋を下げている。
彼女は本を開いて筋トレする夫を見て、目を丸くした。
「えっ、なにしてるんですか?」
「なにって、筋トレだけど……」
腹筋を中断し、開いていた本をぱたんと閉じた。息を整え、汗を拭う。
「ごめんね。君が俺のたるんだ体に不満を持っていたとは思わなくて」
「ち、違いますよ!!」
彼女は慌てた様子で本を掴み取ると、胸元に寄せた。
「これは私がトレーニングするためのものです!」
「え?」
「別にあなたがたるんでるなんて思っていません。私が鍛えようと思ったのです」
「え、でも……」
妻は確かに表紙のムキムキのような腹ではないが、太っているわけではない。過度なトレーニングが必要な体とは思えない。
しかし、妻は半ばすねたような口調で夫に詰め寄った。
「むしろ私に不満があるのはあなたの方ではないですか? お腹ばかり触るではないですか。だから暗に太っていると告げているのではないかと思ったのです」
「違うよ!!」
妻の腹を撫でていたかもしれないが、それは愛するゆえのスキンシップである。決して「お前の腹たるんでるぞ」といったような意味ではない。
男は妻を抱き寄せると、柔らかい背を撫でた。
「鍛えろだなんて思っていないよ。可愛いなあと思って触ってたの。ごめんね」
「…………本当ですか?」
「本当。というかね、別に君が太ったって、髪が白くなったって、しわが増えたって、全然気にしない。そのままでいてよ」
妻は腕の中で「なんだ……」と呟いた。体から力が抜ける。
「むしろ君が俺に不満に思っていることを言って欲しいな。君はなかなか願望を口にしてくれないから」
少し考えてから、妻は口を開いた。
「脱いだ靴下をその辺に放置しないでください。鍵は決まった位置に置いてください。外でお酒を飲みすぎないでください」
「すっげえあるじゃん」
苦笑した男が「ごめんなさい、直します」と言うと、腕の中で妻はくすくすと笑った。
「でもいいです。長生きしてくれれば、それで」
「年齢的に多分、俺先に死ぬけど」
「いいんですか? 死後に私が若い男と再婚しても?」
「化けて出てやる」
妻をぎゅうと抱きしめると、彼女は「じゃあ長生きしてください」と笑う。
彼女を離さないために、やはり体を鍛えようと男は思った。
《 おしまい 》
2021/11/22 いい夫婦の日SS