さくらんぼ
2023/5/23 キスの日
さくらんぼの茎を口の中で結べるとキスが上手いというアレです
「うわっ、翼すげぇ!」
「ほんとに結べる奴、初めて見た!」
聞き慣れた名前と男子の騒ぐ声に、杏は顔を向けた。
── 一瞬、目が合った。
昼休みの学食。
今日の一番人気メニューは生姜焼き定食。
トレイについてきたデザートはフルーツポンチで、器に乗ったさくらんぼを口に含んで盛り上がっているらしい。
翼と呼ばれた男が、べっと舌を出して周りに見せびらかしている。
遠目からでも目立つ長めの金髪に、隠そうともしていない校則違反のピアス。ただ、腕にはまっている腕時計は装飾の無いシンプルな黒だ。
「すごい冴島くん、さくらんぼの茎結んでる」
杏の向かいに座っていた亜樹も彼らの声に気付き顔を上げる。
「さすが、チャラい」
「普通結べんでしょ」
試しにチャレンジしてみようと周りもフルーツポンチからさくらんぼを引き上げていたが、杏は挑戦する気にはならない。どうせ出来ないからだ。
友人たちは静かに口をもぐもぐさせており、なんだか可愛くて苦笑した。
しかし、亜樹は「無理」と早々に諦めて茎を出す。
「杏ちゃんと冴島くんって幼馴染なんでしょ? タイプ違く見えるけど」
「んー、まあ」
「なんて呼ばれてた?」
「杏ちゃん」
素直に答えた杏に、亜樹がぷーっと吹き出す。
「可愛い、うける。冴島くんのことは?」
「うーん、なんで呼んでたっけなぁ」
タイプが違うと言われても無理はない。
かたやさくらんぼの茎を口内で結べる派手男、かたや黒髪おさげの模範生だ。スカートの長さはキチンと膝丈。
亜樹の質問をはぐらかそうとしたところで、ちょうど昼食を終えた担任が通りかかって杏に声をかけた。
「おっ、ちょうどいいところに。さっきの授業のプリント後で集めといて」
「分かりました」
杏は亜樹たちに「先行くね」と声をかけ、トレイを持って席を立った。
♦︎
「なんだっけ、さくらんぼの茎を結べるの。キスが上手いんだっけ?」
「………………」
「どうなんだろう、試してみたいなあ、本当かなあ」
「…………勘弁してよぉ」
男子高校生らしからぬ物の少ない整った部屋で、壁ドンである。
杏が、翼に。
いや、厳密には壁ドンではない。
床のラグの上に座り、翼の後ろにはローベッド。彼が逃げられない状態で、杏はにやにやしながら体を近付けている。
「……違うんだよ杏ちゃん、やってみたら出来ちゃったの」
「そうなの? 元々得意なのかと思った。見せびらかしてたし、私とも目が合ったじゃん」
「ううう」
翼は両手で顔を覆った状態だ。だが知っている、その手の下は真っ赤になっているはず。
可愛い奴。恥ずかしがるくらいならあんな挑発的な視線を投げなければいいのに。
杏はそう考えながら、翼の耳にくっついたピアスを撫でた。
「耳たぶ」
「ちょ、杏ちゃん、耳さわさわしないでよ」
「つーちゃんの耳たぶ可愛いから」
友人には教えなかった名で呼ぶ。
「ちょ、くすぐったい。杏ちゃんそろそろバイトじゃないの」
「そうだ」
翼の腕時計に指先でとん、と触れた。翼の誕生日に杏がプレゼントしたものだ。
液晶にエメラルドグリーンで時刻が表示される。翼も顔から手を離して時計に目をやった。
「わたし、そろそろ出ないと。やっぱり実力をご披露頂く時間ないなぁ、残念」
「ちょ、ちょっと待って、30秒ちょうだい」
わたわたと姿勢を正す翼が可笑しかったが、笑いを堪えて杏も座り直す。
「杏ちゃん、目を閉じてもらえますか」
「はい」
素直に目を閉じた直後、唇の端に一瞬だけ触れ、だが、それはすぐに離れた。
ちら、と瞼を開けると得意げな翼の顔。
どうやらこれでおしまいらしい。まったく、さくらんぼの茎を結べたらキスが上手いだなんて、都市伝説か迷信だ。
杏はわざとらしくにっこりと笑みを浮かべた。
「上手に出来たね、つーちゃん。でもこうやるともっといいよ」
「えっ、あっ!」
慌てる声を飲み込むように塞ぐと、翼はすぐに大人しくなった。
結局、30秒は大幅に超えた。
《 おしまい 》




