姫様と爺やはご乱心
ジャンル:ヒューマンドラマ
あらすじ:淑女の仮面を被ることに嫌気が差したお姫様と、その従者の話
※ふわふわ設定ご容赦
「それではまた、パトリシア様」
「ええ、来週の歌劇を楽しみにしておりますわ。お気をつけてお帰りを」
婚約者を見送り、部屋から足音が聞こえなくなってから、パトリシアはようやく息をついた。
「ふう……、どいせっと」
腰を叩きながら椅子に座り、皿に残った大きなクッキーを2、3個まとめて口に放り込む。咀嚼していたら粉が喉に入り「げっほ! ごほっ!」と咽込んだので、盛大に音を立てて紅茶をすすった。
「姫様、そんなに一気に召し上がっては喉に詰まります」
「なによ」
顔を顰めて側に立つ従者をじろりと睨めば、彼は諦めたように首を振った。
「いいでしょ、爺や。誰もいないんだから」
「よろしいですけれどもね」
「全然よろしくない口ぶりね」
ぷいと顔を背ける姫に、老齢の従者はくすりと笑った。
少し前まで、パトリシアはこんな粗雑ではなかった。
彼女は同年代の貴族女性の中でも最も地位が高い王女で、誰よりも美しく、優雅。立ち居振る舞いは完璧で女性たちの模範となる、いわば『淑女の鑑』である。
だが、侯爵家跡取りと婚約の決まったパトリシアは、突然自分の人生に嫌気が差した。
なぜなら、結婚しても一生この取り繕った仮面を取れず、個を殺して完璧な淑女でいなければいけないことに気付いたからだ。
『なんだかもう疲れた。なんでもいいからモラルに欠けることをしたい』
そう言われて絶句した従者だが、他の目のないところでは彼女の好きにさせることにした。
要は、パトリシアは長年の貴婦人生活によるストレスから自棄になっているのである。
遅めにやってきた反抗期であった。
♢
『モラルに欠けること』と言ったって、別に犯罪を犯すわけではない。
一人きりの部屋でマナー無視でお菓子を食べたり、会話相手が目を逸らした隙に変顔して遊んだり、下世話な本を読んで「ガハハ」と笑ったりするだけである。
そして従者はできる限りそれに協力してやった。幼い頃から知っている王女もじきに嫁ぐ。それまでのわずかな時間、自由にさせてやりたいと思ったのだ。
ある日、夜中にこっそり部屋を抜け出したパトリシアは、従者を捕まえて厨房にいた。
「これこれ、これが食べたかったのよ」
食料保冷庫の奥から引っ張り出した缶の中には、たっぷり蜜のかかった揚げ菓子が入っていた。
昼間のおやつの時間に出されたものの、周りの話を聞きながら行儀よく食べていたら、半分ほど残っていたところで回収されてしまったのだ。
それをカトラリーも使わず、手づかみで口に運ぶ。
「あーおいしい! 夜中の甘いものって最高にギルティよね。爺やも食べたら?」
「いえ、胃がもたれますので」
「ダメねぇ」
言いながら2つ目に手を伸ばす。
「そうだわ、聞ひへよ。ほうねふくってたししゅんに」
「姫様、何を仰っているのか分かりかねます」
「……んぐっ、あのね今日ね、ハリー様が私の刺したあの刺繍をご覧になって何て仰ったと思う? あのね、『薔薇がお上手ですね』って! あはははおかしい!」
「最近根を詰めて刺していらっしゃるハンカチですね、本当は何なのでございますか?」
「ドクロなのよぉ! あははは!」
つられて従者も吹き出した。
パトリシアは刺繍も非常に上手い。しかしまさか姫がドクロを刺しているとは婚約者も思わなかったのだろう。苦し紛れに薔薇だと答えを出したのかもしれない。
「どこまでだったらヤバい絵図だってバレないと思う? 蛇はどうかしら?」
「全然問題ございません。いけます」
「悪魔は?」
「見た目を天使にカムフラージュさせれば分からないのでは?」
暗い厨房で二人でその図を想像して、ぷーっと笑う。
パトリシアは菓子を3つ食べたところで、蓋を閉めた。
「そういえば明日は画家が来るのよね……」
「さようでございますね」
「いやだわ、ずっと座っているのも疲れるもの」
「ご降嫁前最後の肖像画ですから」
「分かってるわよ」
と全然分かっていない口ぶりの彼女に、従者は若干嫌な予感を抱いた。
そして、それは当たった。
次の日、到着した画家にポージングを指示されたパトリシアは、くるりと背を向けると、半身を捻り、おもむろに腕を上げて力こぶを作ったのである。
「パトリシア殿下、そ、それは……?」
「最近、このポーズが流行していると聞いたのです。身体の筋肉が映えると」
困惑する画家をよそに、パトリシアは「こっちの方がよろしいかしら?」と仁王立ちして「ムン!」と腕に力を入れる。これは闘技場で筋肉ムキムキの剣闘士が相手を威嚇するポーズである。
画家は大変困って従者に助けの視線を向けたが、彼はそれを受け流した。
「おや、ご存じない? これが流行りなんだそうなんですよ」
「いやまさか」
同調する従者に画家がさらに困惑する。だが、パトリシアはくすりと笑うと、あっさり腕を下ろした。
「ああ、でもそういえばお母さまの肖像画と同じポーズにしなさいと言われていたんだったわ、残念」
それからいつも通りの笑みを浮かべて椅子にしゃんと座る。画家がほっとして作業を開始した。
パトリシアと従者は悪戯が成功したように目配せし合った。
「ずいぶん困惑されていましたね」
「ほんとね、あの顔!」
「しかし噂になってしまうかもしれませんよ、姫様が最近おかしいと」
画家が帰り、パトリシアは長椅子の上で足を伸ばしていた。リクエストした焼き菓子が出てきたので、それを昨夜と同じように手づかみで食べる。
「うーん、ほうかひら?」
「姫様がお持ちの扇が独特だという噂をすでに耳にしました」
「え、これ?」
通常、扇は無地か、描かれているとしても花や鳥などの絵である。だが、パトリシアの広げた扇には、白地に黒で文字のような記号が書かれていた。
「これでしょうね。何でございますか、これは?」
「東洋語で『地獄へ行け!』って書いてある」
「…………まあ、誰も読めないでしょうから」
パトリシアはその地獄行き扇で自らをパタパタと仰いだ。
「そうだわ、爺や、これ見て」
「何でございましょう」
彼女が手渡したのは手紙である。中を読むよう促されて見ると、それは婚約者へ宛てたものだった。
当たり障りない挨拶から始まり、先日行った歌劇が楽しかったこと、今度行きたい場所、また会えるのを楽しみにしていると、和やかな文章が綴られている。
一見、普通の恋人同士の手紙だが。
「……これが何か?」
「ここ、見て、こうやって読んで」
パトリシアが手紙の端の部分を指で縦になぞる。
意味に気付いた従者は読み上げた。
「……『おかしだいすき』」
「そうなの、先頭だけで縦読みにしてみたのよ! 気付かれると思う? 気付かないわよね?」
「ふふ、さすがにお気付きにはならないと思います」
「そうよね、ハリー様は本当に真面目な方だし。これで出しちゃおうっと」
従者はその手紙を恭しく受け取った。
♢
パトリシアの行動や持ち物のちぐはぐさは一部では疑問を持たれていたものの、それ以上問題にはならなかった。
そもそも『淑女の鑑である王女』という先入観から、パトリシアがおかしなことをするという想像に至らないのである。
パトリシアもこっそりひっそり誰にもバレないように悪戯をしつつも、表面上は完璧な淑女の顔をしていた。
だが、ある日やって来た遠縁の貴族との面会で、パトリシアはその仮面が剥がれそうになっていた。
「いやあパトリシア殿下は本当に美しくてお淑やかでねぇ、素晴らしい。まったくうちのも見習って欲しいものです、あはは」
遠縁の貴族の当主は腹のたっぷり出た男で、パトリシアと同じくらいの年頃の娘を従えていた。
娘を下働き見習いにさせるために連れて来て、パトリシアと面会することになったのだ。
「うちには娘が二人いるのですがね、下は出来がいいのですが、こっちはてんでダメで」
下卑た笑いとともに、隣に座る娘の肩をバシンバシンと叩く。娘の方はといえば、苦い笑いを顔に貼り付けてじっとしていた。
先ほどから、男はやたらとパトリシアを持ち上げ、娘を貶しているのだ。
パトリシアは言葉を返さず、ただ薄く微笑んで話を聞いている。
パトリシアは知っていた。この男が自分の娘を差別し、前妻の子である上の娘だけ家から追い出すように連れてきたということを。
身分的には侍女見習いとさせるのが妥当なのに、わざと下働きにさせようとしているのだ。
そして、従者はその様子をそばでヒヤヒヤしながら見ていた。パトリシアの頭に血が昇っているのが分かる。美しいドレスの下で激しく貧乏ゆすりをし、触れているテーブルが小刻みに揺れている。
彼女は女だからと軽んじられ、虐げられるのが一番嫌いである。だからこそ隙のない淑女を演じてきたのだ。
男がパトリシアを過剰に持ち上げるのは彼女を舐めている証拠だし、娘を虐げているのもパトリシアは気に入らないはず。
その様子に気付かぬ男はため息混じりに続けた。
「こんな小娘まったく使えないかもしれませんが、ビシビシ性根を叩き直してください。多少痛い目見せてやっても構いませんから」
そして、パトリシアは切れた。
おもむろに立ち上がり、ポットを手にじょぼじょぼと男の腹に紅茶を注ぐ。
「うわっ!! 熱っつ!!」
「あら、ごめんなさい、わたくしったら粗相を」
持ち上げていたポットを優雅に下ろし、男の服を持っていたハンカチで拭き始めた。
男はそのハンカチを二度見した。牙を剥く、蛇の図柄。
「お……おい! お前! 見てただろう、今のはわざと……」
「おや、こぼしてしまわれましたか。急いで拭きませんと」
「は、はぁ!?」
従者が素知らぬふりでのんびりと布を渡す。
男は呆気に取られていたものの、パトリシアの暴挙を見て見ぬ振りをした従者に憤慨した。
「貴様……!」
「ご心配なさらなくてもお嬢さまはきっと王宮でやっていけますよ、ご実家よりもずっと」
「な……」
「そうね。お話は終わりね。ごきげんよう」
パトリシアが地獄行き扇でパタパタと仰ぐと、男はぷりぷりしながら帰って行った。
男の腹に紅茶を注いだパトリシアの暴挙は露呈し、彼女は1週間の謹慎となった。
♢
夜。
二人はまたこっそり厨房にいた。
「謹慎になってしまったのに、抜け出してしまってよろしいのですか?」
「いいのよ、形だけだもの。あの子はどうしてる?」
下働きとしてやってきた男の娘は侍女見習いとして部屋を与えられたと告げられ、パトリシアは安堵の息を吐いた。そしてまた食糧保冷庫の中から菓子をつまむ。
従者も菓子を勧められたものの、首を横に振った。
「夜中にこんなにお菓子ばかり食べては太ってしまいますよ」
「いいのいいの、たまにはストレス発散しなきゃ」
「ドレスが入らなくなるかもしれません」
「大丈夫大丈夫、それより見て、これ!」
じゃーん、と取り出したのは手紙である。差出人はパトリシアの婚約者だ。
「ハリー様ですね、先日のお返事ですか?」
「そうなの! 見て、ここ、縦に」
パトリシアが指でなぞる部分を読み、従者はぷっと噴き出した。
「……『ぼくもおかしだいすき』ですか?」
「そうなのよ! わたくしが送った縦読みの手紙の返事! しかも手紙と一緒にたくさんのお菓子を送ってくださったの」
「それはそれは」
「ただ真面目でお堅い方なのかと思っていたけど、意外と茶目っ気があるのねえ。人は見た目によらないわ」
向こうもきっと同じことを思ってますよ、と言いかけた従者だが、口を噤んだ。パトリシアがとても嬉しそうだったからだ。
取り繕った仮面を一生取れないことに嫌気が差した彼女の、未来への期待。
降嫁まではあっという間だ。
もう少しだけ、この乱心に付き合ってやろうと従者は思った。
《 おしまい 》