第六章 ミリオンセラー
それは愛子が見たことのない武器だった。
こんな銃があるだろうか。途中で折れ曲がることなく、持ち手から切っ先まで、張り詰めたように真っ直ぐなのだ。西洋で言うダガー、日本で言う脇差のような長さで、鏡面の如く磨かれた刃は、闇夜を切り裂くほどまばゆく光っている。
とは言え、こんな剣もないだろう。片刃は背に銃身を背負っており、その側面には綺麗な彫刻が施されている。切っ先には銃口と思しき穴まで見受けられるし、持ち手についているのは間違いなく引き金だ。
剣と呼ぶにはあまりに重厚で、銃と呼ぶには失礼なほど洗練されたそれを、バルトは目にも止まらぬ速さで振るう。
謎の生き物――バルトの言葉を借りて言うならば〝悪魔〟――は、ゲーッ!と啼き、鋭い一閃をかわして距離をとった。そして、何もない空間へ左手を突き出した。途端に空間が裂けはじめ、夜より暗い闇が口を開けた。
バルトがすかさず距離をつめたが、悪魔は闇に左手を突っ込み、何かを引っ張り出した。それは先ほどの槍の半分ほどの大きさの短剣で、バルトの持っている名称不明の武器と激しいつばぜり合いを繰り広げた。
真に恐ろしいのは、悪魔かバルトか。筋骨隆々の魁でも敵わなかった相手を、バルトは何食わぬ顔で圧倒していく。両手の剣(銃かもしれぬ)で激しく攻め立て、悪魔の左手から短剣を弾き飛ばし、がら空きになった腹部に回し蹴りを食らわせた。
悪魔は唾や汚物をまき散らしながら転げ、ここで初めて、背中から翼を生やした。物理法則を無視して折りたたまれていたそれは、巨大すぎるコウモリのような形をしていた。羽の折れた蛾のようにぶざまな動きで、悪魔の体が宙に浮いた。
バルトが右目をぎゅぅっと引き絞るのを、愛子は見逃さなかった。
見逃したのはその後だ。
おそらくだが、バルトは周囲の状況を一瞬で把握した後、二メートルも跳びあがり、右手にあった民家の塀を蹴った。大きく方向を変え、近くの電柱に向かって高く飛び上がると、今度は電柱を蹴りつけ、哀れ空へと退路を求めた悪魔の背後に躍り出た。最後は両手の武器を振り下ろし、醜い翼を一刀両断した。
空力を失った悪魔はもがきながら地面へ墜落し、砕けたアスファルトがそこら中に飛び散った。
一方、バルトは滑空するムササビのようにコートをはためかせ、地面で一回転することで着地の衝撃を和らげた。愛子の目は、ようやく執事の動きに追いついた。
「はあ……センパイ!」
魁の存在を思い出し、愛子は地面を這って進んだ。腰が抜けて立てなかったのだ。それでも、自販機の下で気を失っている魁の元までたどり着き、その肩をゆすった。
「センパイ……センパイ……!」
「ミリオンセラー……キサマ、マシーンだな?」
破片を踏みしだく音と、ごぼごぼと鳴るヘドロのような声が聞こえ、愛子は振り返った。
「クソ……ダークフォールめ……ダマしたな……」
声の主は悪魔だった。立ち上がり、あるはずのない目でバルトを睨みつけていた。
「あぁ」
バルトは思い出したようにつぶやいた。地面に片膝をついたまま、脅すように両手の武器を鳴らした。
「居場所を知っているのなら――」
「オシえれば、ミノガしてくれるか?」
悪魔が醜い笑みを浮かべた瞬間、バルトはまた加速した。悪魔にひるむ暇さえ与えず、右手の剣を振り上げた。
「コォオオオオ……ァゲャァァアアア!」
まるで、地獄の底から響いてきたようだった。悪魔の断末魔は電線を揺らし、自販機や街灯を点滅させ、愛子の髪を縮み上がらせた。ぬめりとした体は雲散霧消し、わずかに残った黒いチリが、不気味に漂っていた。
「ん……んん……」
呆然と執事の背中を見つめていた愛子だったが、両膝のあたりから声が聞こえ、はっと我に返った。
「せっ……センパイ!よかった……!怪我ないですか?」
魁が目を覚ましたのだ。愛子は思わず魁の手をとって握ってしまった。
「あぁ、俺は大丈夫だ。夢見、君は……」
「私は、えっと――バルトが……」
どう説明すればいいのか、愛子にはわからなかった。バルトの方を見ると、彼は未だ、道路の真ん中に立ち尽くしていた。両手の武器こそしまっていたが、どうやら、悪魔の残したチリを見上げているようだった。
声をかけるべきか悩んでいると、バルトがはじかれたように振り向いた。
「お嬢様!」
バルトは夜を置き去りにして瞬間移動し、愛子の目の前に現れた。
「大丈夫ですか?お怪我は!」
「なっ――ないない!ぜんぜん!大丈夫だから!」
視界の光度が数パーセント落ちた。背の高いバルトに月光と街灯を遮られたのだ。鼻と鼻がくっつきそうな距離に、愛子は頬を赤らめ、目を逸らした。執事の狼狽ぶりがすさまじく、隣にいる魁が若干引いていた。
「そうですか、ご無事で――よかっ――た――」
急激に光が蘇り、ドサリ、と音が聞こえた。助けに来た時と同じくらい突然に、青リンゴのように爽やかな声が途絶えた。
「えっ――」
足下にバルトが倒れていた。
先ほどまでの雄々しい姿は見る影もなく、苦悶の表情が浮かぶ顔は、死人のように青ざめていた。
「バッ……バルトぉ!」
愛子は執事の肩を掴み、激しく揺さぶった。バルトの体はぐにゃぐにゃと揺れるばかりだ。彼は『痛い』とも『苦しい』とも言わなかった。
「どうしよう……息してない!」
愛子は軽いパニックに陥った。魁がいてくれなかったら、そのまま路上で泣き出していたことだろう。
魁はバルトの口元に手をやり、きちんと確認をとった。
「落ち着け、息はしてる。救急車を呼ぶんだ。病院に連れて行かないと」
「ぅぇっ、はい。スマホすまほスマホすまほ――」
そこで二人は顔を見合わせた。
なんとも間の抜けた音が、緊迫の夜を貫いたのだ。
ぐうぅぅ、という音の出所は、どう聞いてもバルトの腹だった。