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機械の右目でなにが見える  作者: 影宮閃
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第五章 邂逅

「はーっ!楽しかった!」

 日も暮れかけ、夕方の後半に差し掛かり、愛子はようやく満足のため息をついた。

「やれやれ、遊んだ遊んだ」

 すぐ隣を汐崎嬢が歩く。

 ちなみに、二人とも自分のカバンをきちんと持っているのだが、代償として、バルトの顔が大量の荷物で隠れてしまっている。すっかり金遣いの荒くなった愛子が、ブランドもののバッグや服、靴から小物にいたるまで買いあさったせいだ。彼でなければ、視界を遮られたまま人ごみの中を歩くという芸当をこなせはしなかっただろう。

「でもさ、愛子。お金があるなら、明日からの遠征、行けんじゃね?」

「ふぇっ?あっ、そっか」

 愛子は両手をパタン、と重ね合わせた。

「遠征……ですか?」

 後ろからバルトのくぐもった声が聞こえてくる。

「うん、そうそう、明日祝日でお休みでしょ?三連休使って、長崎の名門と親善試合するのがうちの恒例行事なの。でもほら、新幹線でしょ?ホテルでしょ?二日目はみんなでハウステンボスにもいくし……お金がかかるから、愛子はキャンセルしてたのよ」

「そうでしたか」

「うーん……あんまりわがまま言って、お義父さんとお義母さんに迷惑かけたくないし……でもそっか、私、今ならお金あるんだ」

 愛子の胸には、ほんのりと淡い期待が湧いていた。ずっと諦めていた遠征――あわよくば、魁とお近づきになるチャンスがあるかもしれない遠征。行けるものなら何十回でも、何百回でも行きたいに決まっている。

「そういうことでしたら、私が後で手続きをしておきます」

「えっ!ほんとう!?」

 愛子は嬉々としてバルトの方へ振り返った。

 バルトは荷物の陰で頷いていた。

「はい」

「よかったね、愛子」

「やったー!バルト、ありがとう!」

 愛子は人目もはばからず大声で叫び、飛行機のまねごとをする子供の様に、両手を開いて駆け出した。

「急に走ると危ないですよ」

「あっはは」

 優しく注意するバルトや、愉快そうに笑う汐崎嬢の声を背に、愛子はぐんぐん加速した。こんなにも嬉しいことがあるなんて、世界はまだまだ捨てたもんじゃないと思った。

「私――よかったよ、お姉ちゃんの遺産相続して」

 大きな交差点に差し掛かったところで、愛子は立ち止まった。目の前を行き交う車やバイク、荷物を運ぶトラックや人を運ぶ路面電車を、我が物顔で見つめていた。

「お姉ちゃんが死んだときはホントどうなるんだろうって思ったし、バルトが(うち)に来た時はマジどうしようって思ったけど」

 愛子は真隣にいる汐崎嬢を見て、それから後方に控えているバルトを見た。

「今は――バルトが執事でよかったって思ってるよ、ごはんおいしいし!」

 そう言った瞬間、荷物の隙間から見えていたバルトの顔が、晴れやかな光に包まれた。滅多に表情を動かすことのない執事だが、その中にもきちんと喜怒哀楽があるということを、愛子は徐々に理解し始めていた。

「よかったじゃん!バルチぃ!」

「もったいないお言葉です」

 汐崎嬢に叩かれながらも、バルトは器用に会釈していた。

 二人の様子を見ていたら、突然、愛子はこの執事が愛おしくてたまらなくなってしまった。どこまでも礼儀正しく、いつまでも愛子を見守ってくれる、得体のしれない執事が、だ。愛子は彼の出自や経歴を露ほども知らないが、彼は――彼なら――両親や姉と違って、愛子が死ぬその時まで、隣にいてくれる。そんな気がしたのだ。人で溢れかえるこの街の中心で、彼の存在だけがくっきりと浮かんで見えるのは、決して、その身なりが目立っていることだけが理由ではないのだ。

「あれ?夢見?」

 その時、太陽が沈み、空は闇に包まれたという。

 それさえなければ、愛子はバルトにもっとたくさんの謝意を述べていたのに。

「へっ?」

 どうか、彼女の心変わりを許してやって欲しい。彼女はまだ十六の女の子であり、恋に恋する女子高生なのだ。

「やっぱり、夢見じゃないか」

「か、魁センパイ……!?」

 青色で点滅する歩行者用信号機の足下に、獅童魁がいた。学ラン姿で、学生カバンを持って、こちらを見ていた。

「こんなところで会うなんて奇遇だな」

「な、なんで……」

 魁は嬉しそうに顔をほころばせ(少なくとも、愛子にはそう見えた)、造作もなく距離を詰めてきた。愛子はうつむき、両手でスカートの裾を掴んだ。

「塾の帰りなんだ。夢見も?習い事?」

「あ、いえ、私は――友達と遊んでたっていうか……」

 執事のことなど秒で吹き飛び、髪が乱れていないか、服にシワが入っていないか、そんなことばかりが気になってしまう。頭上に位置する魁の顔なぞ、どうして直視することができただろうか。

「そうか、あぁ!彼女が噂の汐崎さん?おぉ、彼は相変わらずすごいな」

 魁の興味が自分から逸れたと見て、愛子はほっと胸をなでおろした。要するに意気地なしや腰抜けと呼ばれる行為に出たわけだが、今回は汐崎嬢の顔をチラリと盗み見ることがそれに該当した。

「夢見から聞いてるよ、いつもうちの部で、ありがとう」

「あぁ~気付くのが遅かったですね!でも気にしないでください、仕事ですから!」

「はは、さすがプロだ」

 魁に握手を求められても、汐崎嬢はあっけらかんとしていた。あと、愛子の方をすごい形相で睨みつけてきた。

 愛子はムリムリ、と口パクで訴え、首をめっためたに振り回した。魁の大きな背中が視界に入っているだけで、卒倒しそうなくらい血圧が上がっていた。

「いつもこんな時間まで?」

「んいえ~今日は部活早く終わったんでぇ、たまの息抜きですよぉ」

「なるほど、そうか」

「あっ、そうだ先輩、もしよかったら、愛子を送ってあげてくれません?ほら、もう暗いし、私、方向が違くて」

 汐崎嬢の顔に意地悪そうな笑みが浮かんだ。さっと青ざめる愛子だったが、恥ずかしさで頬の温度が上昇していたため、二色がまじりあって紫になった。

「そうなのか?」

 魁の実直そうな眉毛がこちらに向けられる。愛子はスカートの裾が千切れるほど握りしめ、閉じかけた喉から声を絞り出した。

「え!?ぅえぁえ、えっとー……」

「そうなんです!」

 一人でバタバタしている間に、汐崎嬢にとどめを刺されてしまった。

「そういうことなら、もちろん送るよ」

 魁の瞳に正義感の炎が宿り、いつもの三割増しでカッコよく見えてしまう。愛子の脳は途端にパンクする。

「あっ、うぇっ……」

「そんなことはありません。お嬢様は私が――」

「あー、バルチぃはこっちぃ」

 バルトが前に進み出たが、汐崎嬢がすかさずその耳を掴んだ。

「しかし――」

「私の荷物持ってくれなきゃ困るもん。ごめんね愛子、執事ちょっと借りてくわ」

「お待ちください、私は――お嬢様――!」

「ぅあっ、ちょっと、待って、カナメ――」

 執事って、そんな気軽に貸し借りするものだっけ。処理に困る疑問が沸き上がり、その答えを探している間に、汐崎嬢はバルトを連れて行ってしまった。

 愛子は魁と二人、交差点にポツンと取り残された。心臓が早鐘をうち、誰かが鼓膜をドンドコ叩いていた。




 バルトは汐崎嬢に耳を引っ張られ、愛子たちがいるのとは反対車線の歩道まで連れてこられた。

「ごめんねぇ、バルチぃ的には、愛子のこと、気になるんだろうけど」

 アーケード街の端っこであるためか、歩道に沿うようにして客待ちのタクシーが列をなしている。その列に沿うようにして、汐崎嬢は歩いていく。

 大荷物を抱えたまま、バルトはトボトボとついていく。

「はい」

 本心のまま答えたのだが、汐崎嬢はお腹を抱えて笑いだした。あまりに笑いすぎて、その場でうずくまり、ひいひい言っていた。

「あはははは!ゴメンゴメン……バルチぃってば、愛子のこと、ホントに大事に思ってるんだね」

「はい。お嬢様をお守りすることが私の使命です。たとえこの身が滅びようとも」

「なぁるほどね、愛子は幸せものだよ。両手に花!って」

「花……?」

「ライオンかも」

 バルトはあまり冗談というものを知らなかった。だから、汐崎嬢がガオーと唸っても、両手を獰猛な形にして構えても、彼女の言いたいことをちっとも理解できなかった。

「んまあいいや、はいこれ」

 女子高生とは、切り替えの速さではバルトを上回る生き物だ。汐崎は肉食獣の真似をさっさとやめ、カバンの中に手を突っ込んだ。

 彼女が差し出した手を見て、バルトは大量の荷物を地面に置いた。

「パンケーキの分、愛子に返しといて」

 そう言う汐崎嬢の手には、三枚の千円札が握られていた。

 バルトの表情が憂いに曇る。

「しかし、あれはお嬢様から――」

「いーのいーの、金のやり取りってのはちゃんとしとかないと。私はあの子と親友でいたいしね。あっ、ライブのチケット代は――うーん――またバイトして稼ぐから!それまでつけといて!」

 バルトは汐崎嬢に手を握られ、そこに千円札を叩きつけられた。無論、彼はここで金をつき返し、(あるじ)の顔に泥を塗るような執事ではない。クシャクシャになってしまった千円札を丁寧に伸ばし、綺麗に折り畳み、内ポケットに素早くしまった。

「申し訳ありません、私の配慮が足りなかったばかりに」

「いいのいいの。あっ、愛子を怒んないでよ。少しくらい、大目に見てあげて。あの子、ずぅっと一人ぼっちだったんだから」

「承知いたしました。お嬢様はいいご学友をお持ちになられました。羨ましい限りです」

「やっだなぁ!褒めても何にも出ないよ~?バルチぃ」

 汐崎嬢がケラケラと笑い、バルトは背中を叩かれた。その時だった――


 不穏な風と、絶望がよぎった。


 それは全て、気のせいだったのかもしれない。あるいは、考えすぎだったのか。

 しかし、バルトはたしかにそれを見た。

 そやつは立派な口髭を蓄えた、中年のサラリーマンだった。バルト達がいるのとは反対側の歩道にいた。スーツ姿の男が多い日本にうまく溶け込み、誰からも気にされず、相手にされず、人ごみの中にポツンとった。

 その存在の異質さに、バルトは釘付けになった。中年男の周りだけ、時間の流れと空気の密度が違った。既視感が頭の中で警鐘を鳴らし、その理由を探って記憶をたどった。結論にたどり着くまでの数十秒、彼はその場に立ち尽くし、中年男を凝視していた。

 中年男は、苦しむバルトをあざ笑うかのように、ニヤリと口をひん曲げた。

「バルチぃ?バルチぃ……?どったの?ごめん、痛かった?」

 汐崎嬢に袖を引っ張られ、バルトは、自分がびっしょりと汗をかいていることに気付いた。

 慌てて中年男のいた方に視線を戻したが、すでにそこには日常があるだけだった。

「バルチぃ……?ダイジョ――」

 バルトは身を翻し、汐崎嬢の体を抱きかかえた。一番近くのタクシーに駆け寄り、彼女が気付かないくらいの速度と優しさで後部座席に詰め込んだ。さらに愛子が購入した大量のあれそれを助手席に投入し、運転手に一万円札を握らせた。

「これで彼女を、家まで送ってください」

「は?へ?ちょっと!バルチぃ!?」

「これは私の財布からですので。お気をつけて」

「ちょ、ちょっとま――!」

 タクシーが発進した途端、バルトはそれを超える速度で走り出した。




 街灯がぼうっと光り、曲がり角の自販機がジージーと鳴っている。

 それ以外は暗闇と静寂に包まれ、人っ子一人通らぬ住宅街。その中を、愛子と魁は歩いていた。

 隣に憧れの先輩がいる。それだけで、愛子にとってこの道はバラ色のバージンロードの如く輝き、色めき、きらめいて見える。例えを一つ取ってみると、実際はただアスファルトで舗装された道なのに、黄金の上に赤いじゅうたんが敷いてあるように見えるのだ。心臓の鼓動が普段の十倍の速度になって、体温が三度は上昇した気がする。

 もちろん、すべて〝恋心〟というやつのせいだ。愛子の人生において初体験となる病とも言える。治すには現実か幻滅を目にするしかないのだが、得てして恋は盲目となりがちである。彼女がそれを直視する日は、まだ遠いように思える。

「夢見の家はこっちの方なんだな」

「……はい」

「ご両親は?仕事してるのか?」

「はい……えっと、今はなんか、出張に出てるんですけど……私もよく知らなくて」

「……そうか」

 会話が続かない。愛子は口の中がすっぱくなるのを感じていた。

 意気地なしな自分に嫌気がさしたが、それ以上に、魁がかっこよすぎることにいら立った。あぁ、どうして先輩はそんなに真っ直ぐな目と眉をしてるんですか?ため息が出てしまって集中できません。

 もちろん、そんなことを言えるわけもない。これではなぶり殺しだ。ドキドキするだけで時間が無下に過ぎてしまう。

「汐崎さんと仲がいいんだな」

「……はい」

「いつ頃知り合ったんだ」

「えと……高校に入ってからで……」

「そうか、週末の遠征、夢見も来るのか」

「はいぅ。えっと、行けないかな、って思ってたんですけど、最近お金ができて」

「それはよかった、夢見がいてくれたら、安心して試合ができるよ」

「はい、頑張ります……!準備……とぉ片付け」

 今の彼女は、魁に聞かれたことに返事をするマシーンになり果てていた。

「なぁ、夢見」

 覚醒したのは、この質問からだった。

「なんで、サッカー部のマネージャーになったんだ?」

 愛子はゔっ、と言って立ち止まった。

 一番聞かれる可能性が高く、一番答えにくい質問だった。

「ほかのマネージャーが仕事しないのに、なんで夢見は――夢見?」

 数歩先まで歩いたところで、魁が立ち止まり、こちらに振り向いた。

 その顔をやっぱり見ることができず、愛子はうつむいた。うつむいて考えた。このままはぐらかし続けるのか、それとも、意を決して想いを告げるのか。

 今なら誰の邪魔も入らない。とびきり人のいい親友も、元祖お金持ちの令嬢も、仕事をしない同僚たちも、そして、突然現れた自称執事も――

「すっ――」

「……す?」

 思い切って顔を上げると、そこには首をかしげる魁がいた。愛子はこれまで経験したことのない息苦しさに襲われ、舌が回れ右をして暴れ出した。

「好きだからです!」

 へっぴり腰になってしまった時点で、察するべきだったのだ。

「ぅぇぇえと、サッカーが!」

 こういう結果になるということを。

 愛子はここから逃げ出したくてたまらなかった。顔が熟れすぎたトマトのように真っ赤になり、フルマラソンを走った後のように汗だくになったからだ。

 ハンサムな魁の顔が、居心地悪そうな表情に変わっていった。この世の終わりのように思えた。

「あー……そうか、知らなかっ――」

「あっ、魁センパ――」

「いや、ゴメン、変なこと聞いて――」

「違うんです!別に、ぜんぜ――」

「テレビで見たりするのか?好きなチームは――」

「そっ――えぇと……あいや……」

「じゃあ、好きな選手とか――」

「あむぁ――すみません、わかりません……」

 言い直そう、この世の終わりだった。

「か、帰ろうか……家、もうすぐなんだろ」

 神経質な沈黙が、魁の優しさによって破られた。

 愛子は涙目になりながら魁の後ろをトボトボと歩いた。

「は、はい……ヴぇっ!」

 突然固い岩盤に激突し、愛子はよろめいて鼻を押さえた。何事かと思って顔を上げると、そこにあったのはダムの壁面のように大きくて強固な魁の背中だった。

「セ、センパイ?」

「な、なんだ、あれ……」

 魁の声が震えていた。愛子からは、魁の表情も、魁が何を見ているのかもわからなかったが、ただ一つ、魁が怯えているのだけはわかった。

「ど、どうしたんですか、センパ……」

 怖いもの見たさで愛子は顔を覗かせた。魁の背中に隠れるように、顔だけをひょっこり出したのだ。

「いぃ!?」

 愛子が驚いたのも無理はない。

 閑静な住宅街のど真ん中で、真っ黒な・・・・何かが・・・うごめいていたのだ(・・・・・・・・・)

 雲間から月光が降り、その正体を照らす――サメのように無数の牙が生えた口、それと対象に、一本の毛も生えていない、ぬめりとした体表、異常に細い腕の先にある、かぎ爪のついたまがまがしい手指、そこに握られている、これまた真っ黒な槍。極めつけはつるりとした卵のような頭だ。そこには目と鼻が無い代わりに、二本の小さな角がついていた。この角も、ひどくなめらかな質感だった。

「な……なにあれ……!?」

 そうつぶやいた瞬間、謎の生き物は、鳥が絶命する時のような声で啼いた。

「ゲュェアアアァァァ!」

 愛子は両手で耳を押さえたが、ちっとも効果が無かった。まるで、耳元で黒板を引っかかれ、ヴァイオリンを滅茶苦茶にかき鳴らされ、さらに発泡スチロールをこすりあわされた気分だった。突然に吐き気がこみあげ、目まいまで覚えた。

「夢見!」

 魁が叫び、愛子は突き飛ばされた。

「きゃっ!」

 尻もちをついた愛子の目に飛び込んできたのは、謎の生き物と取っ組み合いになっている魁の姿だった。

「か、魁センパイ……!」

 魁は、謎の生き物が持っている槍に掴みかかり、なんとか奪い取ろうとしていた。

 しかしどうやら、相手は見た目に反して強大な力を有しているようだ。二の腕は魁より二回りも細かろうというのに、微動だにしないのだ。

「くっ……!夢見!逃げろ!」

「そ、そんな……センパイ!」

「逃げるんだ!逃げて……たっ……助けを……!呼ぶんだ!」

「ヴヴヴ……ゲャァォオオォアォ!」

 この世の物とは思えぬ啼き声をあげ、謎の生き物は槍を振り回した。槍を掴んでいた魁はその場で車輪のように回転し、遠心力で吹き飛ばされてしまった。

「センパァイ!」

 魁の体はダーツの矢のように飛んでいき、道端の自動販売機に激突した。物言わぬままズルズルと落ちていく様を直視してしまい、愛子は金縛りにあったように動けなくなった。

「はっ……ぁあ……いや……」

 右手に槍を持ちなおし、謎の生き物が大きく息をついた。それは下水道のように醜悪な匂いを辺りに撒き散らし、愛子の鼻をひん曲げた。

これはなんという生き物なのか?

なぜ自分が襲われるのか?

 そもそも、これは現実に起きていることなのか?

 そういった疑問はことごとく脇へ追いやられ、ただただ、命を取られるという恐怖に支配された。

「来ないで……」

 右手に槍を持ったまま、謎の生き物がこちらに振り向く。

 愛子は地べたにへばりついたまま、カバンを抱きしめることしかできない。

 ぬめりとした顔が、不気味な殺気を放っている。ガパリと開かれた口の中に、幾重にも並ぶ鋭利な牙が見える。耳を覆いたくなる絶叫が、街中に響き渡っている。

「いや……来ないで……!」

 どす黒い槍が振り上げられ、愛子は目をつむった。それが、この世で見る最後の光景になると思った。ところが、


 絶望の闇夜を、一発の銃声が貫いた。


「えっ――」

「ギィャアォオオオァアォォォ!」

 愛子が目を開けると、謎の生き物が苦悶の叫びを上げていた。槍は地面に落ち、きゃつの右手は、粉々に砕けちっていた。

「ヴヴァアアァァ!」

 謎の生き物は左手で槍を拾い上げ、再度振り上げた。

 槍の切っ先が自らのこめかみに真っ逆さまに落ちてくるのを、愛子は放心状態で見ていた。恐ろしいことに、死が近付いてくる様が、まるでスローモーションのようにハッキリと見えた。


 それでも追いきれぬ速度で、やってきた。


 夜の一部が突然はためき、それが丈の長いコートであると認識した時には、ハーネスブーツが気高くアスファルトを鳴らしていた。直後、甲高い金属音と共に槍の軌道がそれ、愛子の体すれすれで地面に突き刺さった。


 愛子はその名を呼んだ。


「バルト……?」

 執事を自称していた男は、物言わず振り向いた。

 その右頬が大きくえぐれているのを――えぐれた先に、黄金(・・)()輝き(・・)()ある(・・)不思議(・・・)()――愛子は見た。

「言い忘れておりました」

 謎の生き物を前にしても、バルトは青リンゴのように爽やかな声で言った。

 その右頬は槍の先端で大きく切り裂かれていた。なのに――血は一滴も出ておらず、むき出しになった骨は、つぎはぎの跡が機械的に並び、金色こんじきに輝いていた。

「あなたのお姉さまは、交通事故でお亡くなりになったのではありません」

 それだけではない。

「悪魔祓いの最中(さなか)、膨大な数の悪魔に襲われ、その命を落とされたのです」

「えっ――?」

 彼女の想像をはるかに超える現象が、眼前で繰り広げられていく。

「私はお姉さまをお守りすることができず、瀕死の重傷を負いました」

 バルトの右頬がひとりでに治っていく。じわりじわりと皮膚が生まれ、黄金の骨を覆いつくしていく。

「今は、顔の右半分を機械化することで、生き永らえているのです」

 右頬が元通りになるやいなや、バルトは両腕で空を切った。

 コートの袖から出てきたそれは、二丁の(つるぎ)だった。

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