第四章 放課後の
言いつけ通り、バルトは決して人前に姿を見せなかった。通学中の住宅屋根の上や電信柱の影から視線を感じても、学校の屋上や廊下の影に気配を感じても、バルトがそれで納得するなら、と、こちらが我慢できる程度に押さえていた。
「あれ?愛子、昨日のイケメン執事は?どったの?」
休憩時間、机の上で潰れた肉まんになっていた愛子は、汐崎嬢の声で上半身を起こした。
「ゔぇっ!あ、えっとー、お留守番……っていうかぁ……!」
起き上がった瞬間、汐崎嬢の後方、窓の外にバルトの顔があった。どうやってしがみついているのか皆目見当もつかないが、見つかった暁には面倒なことになるのが目に見えていた。想像してみたまえ、愛子の教室は三階にあるのだぞ?
そういったわけで、愛子は両手を万歳の格好で上げ、三日ぶりに船を見かけた遭難者よろしく振り回した。
「ふーん、残念……どしたの?」
汐崎嬢が振り向く僅か一秒前、バルトは合点承知と言わんばかりに頷き、身を翻した。なぜそんなに凛々しい表情をしていられるのか、愛子には甚だ疑問だった。
「ついてきていいって言わんかったらよかった……わーっ!なんでもない!なんでもないから!えっと、あれ?そういえば富田さんは?」
「とみー?あー、とみーは『昨日のショックで寝込んでる』って。先生言ってたよ」
「そ、そうなんだ……」
私もショックで寝込みそう、とは口が裂けても言えない愛子だった。
「はーあ、今日も撮れんかった……」
何事もなく迎えた放課後。何事もなさ過ぎて、目的の達成が遠い。ベンチの上で体育座りをしていた愛子は、自分の生膝に鼻を突っ込んだ。冬に半ズボンは寒いと思うのだが、彼女らにとって、魁の前で生足を隠すのは敵前逃亡に等しい愚行だそうだ。
「じゃあ今日はこれで終了!解散!」
顧問の教師によるお開きの言葉で、部員の輪から歓声が上がった。木曜日は午前中だけしか授業がないため、部活動も十五時過ぎで終わるのだ。大好きなテレビゲームに興じられる時間は、国宝よりも希少で世界遺産より貴重だ。
「あっ、魁センパイ――いけるかな」
魁が一人でグランドに戻って行くのを、愛子は見逃さなかった。
隣に座っていた汐崎嬢も見逃さなかったが、彼女は現実の方もよく見ていた。
「ダメダメ、うちらはこれあるじゃん」
汐崎嬢に肩を叩かれ、愛子は否応なしに引きずり戻された。もう少しで、きゃいきゃい言いながら目の前を駆けていくマネージャーどもと同じ高揚感に浸れたのに。
「はあ……たまには代わってくれてもいいのに」
「ドンマイ、明日があるよ」
「明日が来ても、チャンスは来んもん」
汐崎嬢の手に握られているのは、巨大な空間をさらけだすカゴだった。愛子はしょげながらそれを受け取った。
「私、あっち行ってくるわ」
「うん、ありがと」
汐崎嬢と連携しながら、部員のボトルを回収して洗うのだ。詳細な説明は省くが、例によって他のマネージャーは機能していない。なお、真面目な魁がコート上で何をしているのかは察して欲しい。
「お疲れ様でしたー」
部室へと帰っていく部員たちを、愛子は大きなカゴを持って出迎える。
「お疲れ様です。お疲れ様でしたー」
愛子は一生懸命挨拶するのだが、誰もそれに対する返答はしない。汗と泥とが混じった匂いをぷんぷんさせながら、砂ぼこりが舞うのもかまわずがに股で歩き、無言でボトルを投げ入れ、バカ話をしながら去っていく。空のボトルばかりであればよいのだが、時おり中身が残っている物も混じっており、女子高生には少々厳しい重量になっていく。
「ん……しょ……わっ!お、お疲れ様でしたー……」
傾いたカゴをなんとか膝で支えたのに、ボトルは容赦なく追加される。魁のおかげで女子マネージャーが増えたせいで、サッカー部は校内一の部員数を誇っているのだ。因果応報のお手本がここにはある。
無作法の群れがようやく終わりを迎え、愛子は大量のボトルとともに一人取り残された。カゴは支えきれず、ついさっき体ごと倒れてしまった。泥だらけになった袖とお腹と頬と髪、バラバラになったボトルの残骸。こんなことのためにサッカー部のマネージャーになったわけじゃない。
ふとグランドに目をやると、魁が十数個のボールを並べ、ロングシュートの練習をしている。女どもが光らせるフラッシュが、舞踏会のシャンデリアのようにきらめいて見える。
泣くもんか。
愛子は強くつよくそう思った。
お父さんとお母さんはずっと昔に死んだ。大丈夫だよって言ってくれたお姉ちゃんももういない。私はこれから、一人で生きていかなくちゃいけないんだ。こんなことで泣くもんか。
さくらんぼ色のくちびるをきゅっと結び、砂まみれの袖でほっぺたを拭った。汗と砂粒が混じり、顔が泥だらけになったが、それでも立ち上がった。
「ではお嬢様、こちらを洗ってまいります」
「ぎゃあっ!」
本当に腰が抜けた。愛子は女の子が出してはいけない声で叫び、その場に尻もちをついた。
まったく、空気も読まずにやってきたのはバルト・シルヴェスタキだ。いつの間にか地面に転がっていたボトルを全て回収し、大きなカゴを片手で持って立っていた。
「ちょ、ちょっと!隠れててって、約束したじゃん!」
「はい。教師がいなくなりましたので、チャンスかと思いまして」
「生徒にも見られちゃダメだって――」
「ですが、今のお嬢様には私の助けが必要です」
そう言うと、バルトは大きな体をくの字に折り曲げ、空いた方の手を伸ばしてきた。突然腰を抱えられたものだから、愛子は驚いて身を固くした。筋肉の硬さというものを初めて感じたし、バルトはなぜだか上品な香りがした。愛子の拙い語彙力ではとても言い表せなかったが、緑豊かな森の中にいるような、静けさと安心感だった。らしい。ともかく彼女は出所不明の剛力により、優しい強引さで引き上げられ、ジェットコースターのような浮遊感の後着地した。
「ふぇっ……!ふえ……ふえぇ……?」
二重三重の意味で困惑した愛子は、肩をこわばらせるわ、目を白黒させるわ、頬を蒸気させるわで大忙しだった。
「お嬢様」
「ふぁい……」
青リンゴのように爽やかな声が、意識のカーテンの向こうから語りかけてくる。
「申し訳ないのですが、手がふさがっておりますので、こちらでお顔をお拭きになってください」
綺麗なミニタオルを手渡され、愛子はようやく我に返った。
「あふ……ありが……うぇ?ちょ、ちょっまっ――」
顔を上げた時、そこにバルトの姿はなく、つむじ風が砂粒を舞い上げていただけだった。
「んむぅ……!」
愛子は左右の手でミニタオルを引っ張った。千切れるほど引っ張った。これを感謝と捉えるべきか、迷惑と捉えるべきか、乙女心は複雑である。
タオルの繊維がぷちぷちと可愛げな断末魔を上げ始めたころ、愛子は想像だにせぬ人物から声をかけられた。文字通り、心臓が飛び出るほどの驚きであったが、それは同時に、待望の瞬間であることに他ならなかった。
「これも頼むよ」
彼女は後に、こう回顧している。
あぁ、あの頃に戻りたい、と。
「うきゃっ……魁センパ――じゃなくて、獅童先輩!」
愛子はツーサイドアップと共に飛び上がった。いつの間にか左隣にいたのだ。愛子の憧れである獅童魁その人が。
「え?別にいいよ、魁で」
スクイーズボトルを手にした魁は、太い眉を吊り上げ、大きな黒い瞳をさらに大きくしていた。やれ、その輝きのまっすぐなこと、綺麗なこと、驚いた表情の中にも誠実さと男らしさがある。愛子のような純情なお姫様にはてきめん効果的だった。
「いえ、そんな……」
愛子はバルトに抱きかかえられた時とは比べ物にならないほど頬を赤くし、すごすごと視線を下げた。ボトルが差し出されるのを視界の端で感じていたが、魁の顔を直視できず、殿様からの褒美を授かる家臣のように、両手を杯の形にして受け取った。
「お嬢様、追加ですか」
そしてやってくるのは決まってバルトだ。真隣に音もなく現れた。
「うわっ!ちょっと、急に出てこなくとぇいいから!」
どいつもこいつも突然現れすぎなのだ。ボトルを落とすのだけは防いだが、口の動きが追いついてくれない。
「あ、あんた誰だ……?あれ、昨日の――」
「誰でもありません!誰でもありませんから!気にしないでください!」
愛子は小さな背をめいっぱいのばし、魁の視界からバルトを隠そうと試みた。無念残念、バルトの身長は平均的な日本人男性のそれより遥かに高い。愛子がぴょんぴょん飛び跳ねても、首にぶら下がっても、体表面の六十パーセントを隠すのがせいぜいだ。
「申し遅れました。私、お嬢様の執事を勤めさせていただいております――」
「執事?」
「いえ、違います。全然、なんでもないんです。誰でも。ていうか、なんでこんなときに出てくるわけ?もう終わったの?」
魁には全力の愛想笑いをしながら両手を振り、バルトには渾身のしかめっ面をする。怪人二十面相も真っ青の変貌を愛子は見せる。
「いえ、まだ半分くらいです」
「そっかー、まだ半分くらいかー。それならいっか、まだ半ぶ――えっはやくない」
バルトがあまりにも淡々と言うため、脳が周回遅れで異常を感知した。あの短時間に何本のボトルを処理したというのだ。
「そちらもいただきます」
「いーってヴぁ!一つくらい私も洗うから!」
バルトの長い腕がクレーンのように伸びてくる。愛子は我が子を守る母ザルのように、ボトルをひしっと抱きしめる。これはただのボトルではない。獅童魁が口をつけたボトルなのだ!
「しかし――お嬢様に、そんな召使いのようなことを――」
「これは私が好きでやってるの!いやー!ちがくて!好きっていうのはマネージャーの仕事がであって、決して――」
我ながらみっともないと思った。そうだ。
なにぶん、バルトは超人的な素早さで懐に飛び込んでくるし、(女の子にあるまじき行為だが)クセっ毛の黒髪を鷲掴みにして応戦しても軟体動物のような柔らかさで滑り込んでくるし、ボトルの防衛に心血を注げば口が疎かになるし、慌てて否定しようものなら本来守るべきボトルを放り投げてしまう。これだけの動作をいっぺんにやってのければ、自己嫌悪にも陥るというものだ。
ちなみに、結果を報告すると、執事の奇行を止めるためにその右腕にしがみついた愛子と、愛子を右腕にぶら下げたままプロバスケットボール選手顔負けの跳躍を見せたバルトによって、ボトルは無事回収された。
いっそ殺して欲しい。執事の腕にぶら下がったまま、愛子は半泣きになった。
「なぁ、俺も一緒に洗うよ」
ところが、魁の口から発せられたのはとても暖かみのある言葉だった。愛子は思わずバルトと目を見合わせた。
モルタル二階建ての部室棟、その裏には蛇口が六つほど並んだ水場が設けられており、ボトルを抱えた三人がせっせと洗浄作業にいそしんでいた。
「すみません……センパイにこんなことさせて」
気まずさと申し訳なさで愛子は小さくなっている。ちなみに、彼女はさっきからずっと同じボトルを洗い続けている。
「いいんだ。今日は早く終わったし……彼の言うとおり、マネージャーは召し使いじゃない。君ばっかりに押し付けてはいられない」
魁は愛子の左側で黙々とボトルを洗い続けている。ちらりと横目で盗み見ると、ユニフォームの上からでもわかるくらい肩が盛り上がっていて、袖口からのぞいている二の腕もたくましい。高校生とは思えぬその体つきに、愛子はドキドキしてしまう。
一方、右側で千手観音の如くボトルを裁いている執事を見ると、一気に気分がなえる。ムードもくそもあったものではない。第一、人は手がダブって見えるほど速く動かせるものなのだろうか。
「彼はすごいな」
魁がため息をつくのもわかる。バルトは左手側にそびえ立つボトルの山をみるみる切り崩し、右手側にジェンガのように積み上げていく。一人で愛子と魁の四倍の作業量をほこっている。
「あ、あはは……」
愛子はいたたまれない気持ちになって、誤魔化すようにボトルを洗うふりを続けた。
「ほかのマネージャーはどうした」
手元のボトルと格闘しながら、魁が問う。
「えぇと……汐崎って子はいつも手伝ってくれるんですけど――」
愛子は部室棟の方を見上げた。実は、汐崎嬢が数分前から部室棟の影に隠れ、こちらの様子をうかがっていたのだ。こちらと目が合うと、汐崎嬢は口をパクパクと動かした。
「――それ以外の人は……すぐに帰っちゃって……」
愛子は首をすぼめるように頷き、ボトル洗いごっこに戻った。
「全員が?あんなにたくさんいるのに?」
魁が首をひねっている。ボトルの奥にこびりついている汚れを覗き込んでいるようにも見える。
「でも君はちゃんと仕事してる。君と――汐崎さん?は」
「は、はい……一応、マネージャーだし」
「一応なもんか、立派なマネージャーだ。君は?なんて言うの?」
魁は洗い終えたボトルを脇に置き、両手をぷらぷらと振った。あやうく視線が交錯しそうになり、愛子は慌てて顔を逸らした。
「かっ――愛子です……夢見、愛子……」
「夢見……愛子……?いい名前だな。覚えておくよ」
名前なんて、自分で決めたわけでもないのに。魁に褒められたことがとにかく嬉しくて、愛子は右耳の裏をカリカリとなぞった。
主がだらしなく頬を緩ませているのを、バルトは鋭い視線で捉えていた。もちろん、ボトルを洗う手を止めはしなかった。作業を継続したまま、獅童魁という男も抜け目なく見ていた。
「冬はこんなに冷たいなんて……知らなかった」
魁は一人呟きながら、粛々とボトルを洗い続けている。ともすれば、ひたすら同じボトルを洗い続けている主人よりよっぽど立派だろう。バルトの目にも、魁は真人間として映っていた。
「大変なんだな」
額に汗を光らせながら、魁は力強くボトルをこすっていた。
バルトはくすぐったそうに右目をしばたかせた。
「はーっ!マジ!最っ高!」
人で溢れるアーケード。その中心で、天井を突き破るかのように両手を高く掲げている女の子がいた。制服姿の愛子だ。
「やったじゃん!愛子!」
同じく制服姿の汐崎嬢が駆けよってきて、愛子は背中をベシンと叩かれた。
「マジどうやったの?気付いたら、あんたたち二人でボトル洗ってるんだもん!」
「えぇ~わかんないよぉ……!あーでも、さすが魁センパイ、マジ神!一緒に洗ってくれるなんて……しかも、『夢見愛子……いい名前だ、覚えておこう』だってぇ!」
愛子は首を左右に振り、両手でほっぺたを包み込み、目をうっとりとさせ、右手の親指と人差し指を直角にして顎の下に当て、キザに笑った。どのセリフとどの動きが連動しているのか、諸君らにもわかるはずだ。
「ちょっとまっ!マジで羨ましいんですけど!」
「心配しないでよー、カナメの名前もちゃんと言ってるってヴぁ!」
汐崎嬢に頭をくしゃくしゃにされたが、愛子は現在、上機嫌の最高潮に到達している。ニマニマと笑いながら、タコのように体をくねらせている。
「そんなんで覚えてもらえるわけないじゃん!うわー、マジしくったー、私がそっち側、行っとけばよかったー」
二人とも我を忘れてはしゃいでいるが、バルトはきちんと後ろをついて歩いている。江戸時代の大和なでしこよろしく、主人の三歩後ろを。
「お嬢様、人前ですので、節度ある行動をお願い致します」
「「あ、はい」」
深みと落ち着きのある声で諭され、女子高生二人はさっと口をつぐんだ。
「んなんだ、案外まともじゃん、愛子の執事」
汐崎嬢は感心したようだった。素直に愛子から離れて行った。
が、問題なのは主人の方だ。
「んもー、バルトったら、今日は記念日なんだよ?」
愛子は(自分の中では)落ち着いた風を装っていた。ところがなんだ、顔からニヤつきがとれていない。ボサボサになった髪をなでつける仕草も、どこか借り物だ。
「……記念日?ですか」
「そう!記念日!」
「愛子はさっきの先輩にお熱なの」
汐崎嬢がめいっぱい背伸びして、バルトに耳打ちした。バルトは背中を丸めて聞き入っていた。
「なるほど、そうでしたか」
「わー!ちょっと!バカバカ!そんなんじゃないってヴぁ!センパイのことは……好きとか嫌いとかじゃなくて、憧れっていうか……そう、憧れ……」
親友にあっさりと想い人をバラされ、慌てふためく愛子だったが、道端にあるものを見つけたとたん、その場に立ち尽くした。
「どったの?愛子」
汐崎嬢が駆けよって来る間も、愛子は軒先に置かれたメニューボードを見続けていた。
それはいつぞやの高級パンケーキ店だった。カラフルなチョークでパンケーキの絵が描かれている。天外の価格もあの頃と変わらず、女子高生の厳しい懐事情にケンカを売っている。
「あぁ、こないだの店じゃん。なぁにぃ?記念日だからって、たっかいスイーツでも食べようっての?」
「ぅえ?いや、だって――こんな時じゃなきゃ食べらんないし――」
当初、愛子の思考は通常通り営業していた。つまり、カバンの中に財布が入っているという事実と、財布の中に五千円札が一枚と千円札が二枚入っていることを思い出し、今後欲しいと思っていた色んなあれそれを我慢すれば、ここでパンケーキを食べることができるという結論へと至っていたのだ。
「あら、汐崎さんに夢見さん」
ところが、店外に張り出したテラス席から角砂糖のように甘ったるい声が聞こえてきた時、愛子の思考は営業を中断し、顔をしかめることに費やされた。
「あなたたち、やっぱりここの常連でしたの?」
学校を休んだからと言って侮るなかれ、愛子が苦手とする富田嬢は、今日も今日とて執事をはべらせ、フリルのいっぱいついたドレスを着て、指先でつまむようにしてフォークを持ち、メレンゲのようにふわふわなパンケーキを口元に運んでいた。カールした金髪や濃すぎるアイシャドウが映えるのはこういう衣装なのかと、関係ないところで愛子は感心する。
「とみー、学校は?」
「あぁ、わたくしとしたことが、少々動揺してしまいましてよ……」
特大のため息をつき、額を押さえながら富田嬢は言う。なぜ演劇チックにしか喋れないのか、愛子は突っ込みたくてたまらない。
「今まで何不自由なく暮らしてきたと思っていましたのに、まさか――公園の隅っこで寂しく咲いている雑草のような方に――あら失礼、コホン、一生懸命頑張って生きてらっしゃる夢見さんにも、あんなに素敵な執事がいらっしゃっただなんて――」
カチン、と目の奥で音が火花が散った。
「とみー!さすがに言いすぎだって――」
「これはこれは、大変失礼いたしましたわ。わたくしとしたことが――」
愛子の思考は臨時体勢で営業を再開した。なにせ、雑草と言われたのだ!しかも〝公園の隅っこで寂しく〟という条件まで付された雑草だ。みじめなことこの上ない。
望むところだ、と店長代理夢見愛子は唸った。たとえ隅っこで寂しく咲こうとも、見てくれる人はいるのだから。
「決めた……」
「「……へ?」」
愛子への態度について取っ組み合いで話し合っていた汐崎、富田両令嬢は、その勇ましい声に振り返った。
「私、いーこと思い出しちゃった」
愛子は両手を腰に当て、鼻息荒くふんぞり返った。
「バルト!私が相続したお姉ちゃんの遺産って、いくらだっけ?」
「えぇっ!?バルト様!?いらしてたんですの?」
発狂する富田嬢をしり目に、バルトがずい、と進み出る。コートの内側から黒い表紙の手帳を取り出し、いつものように、よどみなく読み上げる。
「はい。お嬢様が相続されたものは、現金、株式、金など――現在の価値に換算して――総額十一億五千六百八十万四千円。ご実家のお屋敷と、敷地一体、夢香様名義の乗用車、自動二輪車等計三台。関西国際空港にプライベートジェットが一台、そして、執事であるわた――」
「そう!じゅーいち!億!だよ!」
一番大事な部分を無慈悲に遮り、愛子は叫んだ。
「ねえバルト!そのお金って、今使えるの?」
「はい、急な出費に備え、いくらかは手元に置いております。高額な出費の際は、こちらのカードを――」
「いや――そうじゃなくね――いいの?あんたは」
眉一つ動かさずに財布やカードを取り出すバルトを、汐崎嬢が憐れむように見ていた。
「じゃあそれで食べよっ!カナメの分も、私が出すから!」
「え!?いやいや、いーって、そんなの悪いもん。気にしないで、ほら、私、愛子が食べ終わるまで待ってるから――」
「ダーメッ!今から私、このお店貸し切りにするから!ほら、バルト!買ってきて!」
怒れる愛子は空いている席にドカドカと歩み寄ると、学生カバンを思いっきり叩きつけた。それでも収まらなかったので、今度はテラスの床板を打ち抜くつもりで椅子に座った。
汐崎嬢も富田嬢も、富田嬢お付きの老齢の執事も、口を半開きにして固まっていた。
「はい。かしこまりました」
バルトだけはいつも通りだった。青リンゴのように爽やかな声で、店の奥へと消えていった。
「「うぅ~……!っはぁ~!」」
無人になったテラス席で、声にならぬ声を上げているのは愛子と汐崎嬢だ。バルトは隣の机との間にしれっと立っている。
「ちょっと待って、やば!可愛い!」
「愛子愛子、これ、よくない?ほら、これとか!」
「うっわ待って、カナメ、天才!」
二人はスマホのライトをこれでもかと光らせ、テラス席をパシャパシャという音で埋め尽くしていた。撮った画像をお互いに見せあい、その出来栄えを女子高生にしかわからない言語でたたえ合っている。
ヒビだらけの画面に映っているのは、つき立ての餅のようにふっくらとしたパンケーキだ。上から雪のような粉砂糖がまぶされており、脇にはオレンジやストロベリー、ブルーベリーが山のように盛られ、ミントの葉が乗ったホイップクリームまで共演を果たしている。
「「んーっ……!んまぁー!」」
十四、五分経って、二人はようやくパンケーキを口に入れた。甘い悲鳴が裏路地を席巻した。
「うわ、もーちょい、もーちょいもーちょい……ストップ!」
「はいっ!あー、行き過ぎたぁ……!」
汐崎嬢の指示通りにボタンから手を離したはずなのに、アームは言うことを聞いてくれなかった。愛子は地団駄踏んで悔しがり、さくらんぼ色のくちびるを尖らせた。
二人の狙いはUFOキャッチャーの景品であるもぐりんだ。白いつっかえ棒に引っかかるようにして配置されているのだが、アームの端で頭を撫ぜられただけで、押しも引きもされずにその場に居直った。私は未だにもぐりんが何なのか理解できていないのだが、二人がここまでの執着を見せるのだから、さぞ資産価値が高いのだろう。
「んー、あとちょっとなのに……あっ、ねえねえ、バルト、これやってみて!」
愛子は斜め後ろに控えている執事に手招きした。
「はい」
祭りのような電子音の中であっても、バルトは一貫して古風な佇まいであった。静かに返事をして、滑るようにUFOキャッチャーの前に移動した。
「あちらの景品を取ればよろしいのですか?」
右矢印と上矢印、左右の手で二つのボタンを撫でながら、バルトが問うてくる。愛子は操作台に積み上げていた百円玉をつまみあげ、子気味の良いリズムで投入する。
「そうそう!頑張って!」
「そうだ!頑張れぇー!」
台の右側、ガラスの向こうで汐崎嬢も応援している。
「かしこまりました」
そう言ったかと思うと、バルトの右目がきゅっと絞られた。アームの移動範囲、もぐりんとの位置関係、白いつっかえ棒の角度に至るまで、筐体の隅々へと走らされたようだった。そして一切の迷いなくボタンが押され、チャラチャラとした音楽に乗ってアームが動き出した。
「「おぉぉ……うわーっ!」」
一連の動きは、芸術作品といっても差し支えないほどに洗練されていた。女子高生二人は拍手喝采した。
それはいいが、犠牲となったもぐりんの悲惨さよ。頭から真っ逆さまに落ち、首が90度曲がった状態で取り出し口にやってきた。誰か供養してやってくれ。
「やっるじゃん!バルチぃ!」
「はい」
テンションの高い汐崎嬢から変な名前で呼ばれても、背中を叩かれても、バルトは身じろぎ一つしなかった。
「バルトありがとう!」
「お嬢様に喜んでいただけて何よりです」
愛子がもぐりんを差し出すと、バルトは慎ましく頷き、景品用のビニール袋にもぐりんを突っ込んだ。頼むから、彼の頭を下にするのをやめてやってくれ。見ていて心苦しい。
「ねね、愛子、これ見て」
「なあに?」
汐崎嬢に呼ばれ、愛子はエスカレーターの最後の数段を駆け上った。ここはすでにゲームセンターではない。若人の行動力をなめてはいけない。彼女らはバルトに荷物持ちという大役を押し付け、家電量販店のCDコーナーに侵入していた。今さらだが、バルトの服装がかなり人目を引いている。
「うわーっ!白崎心音のニューシングルじゃん!」
汐崎嬢が握っているCDパッケージには、白いワンピースを着た、おさげの女の子が写っている。茶目っ気たっぷりにピースするその顔は、この世の光を全て集めたかのような明るさに包まれている。愛子は食い入るように見つめてしまう。
「どうなされましたか?」
両肩に学生カバンをかけ、もぐりんの死体が入ったビニール袋を持ち、バルトがやってくる。愛子は執事の方を見もせずに話す。
「知らないの?今すっごく人気なんだよ!あっ、見て!限定生産盤はチケット先行販売付きだって!」
「え、まじ?」
愛子は、無数に並ぶ女の子のパッケージから、汐崎嬢の持っているのとは別デザインのものを取り上げた。
「先行販売かー、確かに、一般は手に入んないもんねぇ」
汐崎嬢がしみじみと言い、頭をかきむしっている。愛子は両手でCDを握りしめ、意を決して叫ぶ。
「ねえ、私、これ買うから!カナメも一緒に行こう!」
「へ?」
「次のライブ!ほら、4月ならこっちでやるんだよ?」
CDの右下に張られている小さなシールを指さし、愛子は訴える。
「いやー、嬉しいけどさ、愛子。私さっきもおごってもらったのに、もうもらえないって――」
愛子が白い歯をイーっと出すのを、バルトは静かに見つめていた。
「えーっ!一人で行くのは寂しいじゃん!」
「魁センパイと行けし!」
「それは恥ずいじゃん!まだ!」
「あ!まだって言ったな!?この……!」
汐崎嬢が愛子の脇を突っつき始めた。バルトはじゃれあう二人から目を逸らし、整然と陳列されているCDを見た。数秒、首をひねったのち、愛子が手にしているのと同じものを持ち、レジへ向かった。