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機械の右目でなにが見える  作者: 影宮閃
3/16

第三章 バルト・シルヴェスタキ

「私はフツーの女の子です」

 それが彼女の口癖だった。

 愛子は窓の桟に体を預け、つぶれた肉まんのようにしぼんでいた。日付は変わり水曜日、彼女は学生の義務を果たすために登校し、休憩時間を謳歌していた。

「愛子ー、だいじょぶ?」

「大丈夫じゃない」

 今日は自信をもって言うことができる。全然大丈夫じゃない。

 眼下には学校の正門が見える。そして、正門の向こうにはバルトの姿が見える。閉ざされた門に阻まれ、校内に入ることができないのだ。相変わらず凛々しい表情をしているが、瞳だけは飼い主に捨てられた仔犬のそれだった。そんな目で見上げられると、なぜだかこっちが悪いことをしたような気分になってしまうから不思議だ。

「うわ、まだいんじゃん。ホントに愛子の執事なんだ」

「ち、違うってヴぁ!」

 汐崎嬢が感嘆の声を漏らしたため、愛子は慌てて否定した。今日はもう、十四、五回は同じことを言っている。


『んなっ!なんですの!?』

 今朝、登校するなり、校門付近でヒステリックな叫び声が上がった。

 声の主は愛子の苦手な富田嬢だったのだが、果たしてその原因がわからない。愛子は富田嬢の視線が自分の背後に向けられていることに気付き、何の気なしに振り向いた。

『へっ――ちょっ、なんでついてきてんの!?』

 殺し屋も顔負けだ。愛子の斜め後ろ十五センチの距離を、バルトが音もなくついてきていた。愛子はツーサイドアップを鬼のように逆立てた。

『私はお嬢様の執事ですので』

 バルトは落ち着いて返答した。

『いーよ!いーから帰って!』

『執事!夢見さんに、執事!いい度胸してらっしゃいますわ!私だって、学校には爺やのお付きを認められなかったというのに――』

『ちっ、違うの!この人は――えぇと――昨日……お姉ちゃんからぁ……』

 必死に説明を試みる愛子だったが、富田嬢が騒ぎ立てたせいで、多くの生徒に気付かれることとなってしまった。そもそもバルトは人一倍目立つのだ。背が高いし、服装が西洋だし、顔立ちがいい。多くの日本人の真逆だ。

『ねー、誰あれ?めっちゃイケメン』

『新しいセンセー?転校生とか?』

『留学生とか?まっさか、マンガみたい。ウケる』

『でもなんか、夢見さんの知り合いみたいだよ』

 色恋に最も花を咲かせる年頃であるうら若き乙女たちは、一人残らずバルトの姿にくぎ付けとなり、口々に噂し始める。校門付近はバルトをよく見ようとする生徒達で渋滞が発生し、ざわめきはちょっとした騒音レベルまで成長を遂げる。

 となれば出てくるのは教師だ。若手から教頭まで、出勤している全員が徒党を成して飛んできた。愛子はあっという間に大人たちに取り囲まれた。

『ちょっとどうしたのあなたたち――あっ、あなた、誰なんですか?学校へは関係者以外立ち入り禁止ですよ』

『私はお嬢様の執事を務めております。バルト・シルヴェスタキと申します。お嬢様の身の回りのお世話を――』

『お嬢様って、夢見さん?あなたの?』

 女教師の肩と眉が同時に吊り上がるのは、愛子が英語で赤点を取って以来のことだ。

『そうです』

『違います』

 そしてややこしいことに、この自称執事は、自分が執事であるということに関して絶対の自信を持っていた。強面の教師や年寄りのベテラン先生にすごまれても、少しの譲歩もしなかった。

『どこの誰だか知りませんがねえ、あなた、帰ってもらえないなら警察を呼びますよ!夢見、お前はちょっと職員室まで来い』

 結局、堪忍袋の緒を切らした教頭によって愛子は連行され、バルトは学校の敷地内に入らないことを条件にその場に残った。


「でもいーじゃん、イケメンだし」

 汐崎嬢は窓から体を乗り出し、額に手を当ててバルトを見下ろしている。

「いいわけないよぉー、学校中で大騒ぎだし、富田さんはなんか突っかかってくるし……」

「とみーは嫉妬してるだけだって、愛子が若くてイケメンな執事連れてんのに、自分のは棺桶に片足突っ込んだ(じじい)だから。ね、歳はいくつなの?」

 女子高生という生き物は時に残酷なほど事実をありのままに表現する。私も陰でなんと言われているのか、想像するだけで恐ろしい。

「二十三って言ってたけど……」

「んー、ちょっと離れてるか……でも許容範囲っしょ、ありゃ渋いおっさんになるって」

「知らないよぉ……あー、もー、どーしよ、こんなの魁センパイに知られたら……」

 愛子は腕の中に頭をうずめ、自らの運命を悲観した。

「いーじゃん、その時はあの執事に慰めてもらえば」

 汐崎嬢のプランは全然慰みになっていない。愛子は窓の桟を思いっきり叩きつけ、抗議の意を示した。

「絶対にイヤ!わけわかんないイケメンより、わけのわかるイケメンがいいもん!」

「まーまー、そんなに言わなくても。まだ出会って二日目じゃん?」

「二日でこれだもん。もっとめんどくさくなるって……絶対……」

 愛子は再び窓の桟に体を預け、腕の隙間からバルトの姿を盗み見た。

 バルトは先ほどの姿勢から指一本動かしておらず、まるで忠犬ハチ公のようにこちらを見つめ続けていた。


「みーとーめーまーせんわ!夢見さんに、あんな……あんな……ハッ――優美なお方が――」

「いや、私の執事じゃ――」

「ユービ……?いや、ハンサムでよくね?てかイケメンで」

 愛子は両手で桃色の頬を挟み、また肉まんになっていた。もちろん、つぶれている。

 ここは学校のグランド、そのうちのサッカーコートだ。愛子、汐崎嬢、富田嬢の三人はジャージに着替え、練習にいそしむサッカー部員をベンチから見守っている。

「なんと破廉恥な!そんな言葉づかいでは殿方が寄ってこなくてよ。女性はもっとつつしみを持った――」

「えー、なんか、古くない?愛子の執事は?こういう時なんて言うの?」

「いや、だから私の執事じゃないって……」

 だから嫌だったのだ。金持ち具合と環境の充実において校内敵なしの富田嬢が、自分を差し置いて執事を連れ込むことを、そう易々と受け入れるはずがない。あと、喋るたびに身振り手振りを激しく付きまとわせるものだから、至近距離でミュージカルを見せられている気分になる。疲れる。

「いいですこと?そもそも、あの方は執事を務めるには若すぎますわ!夢見さんにはもっと、経験と実績を積んだ殿方がお似合いですの。そう、うちの爺やのような――」

「いちねーん、シュート練始まるから、ボール拾いよろしくー」

 先輩マネージャーからのお達しが飛んできて、愛子はほっとため息をついた。汐崎嬢とともに「「はーい」」と返事し、その場を後にした。

「あっ、そうだ。よろしければ、執事経験を積ませるために我が家で修業させてはいかがでしょう?もちろん、その間はうちの爺やをお貸しいたしますわ。ええ、それがよろしいでしょう、あの方にとっても、夢見さん、あなたにとっても」

「何してんの?」

 先輩マネージャーに突っ込まれるまで、富田嬢の独演会は続いていた。


 愛子たちはサッカー部のマネージャーをしている。それ自体は今までの記録を見れば推察がつくだろうが、特筆すべきはマネージャーの数の多さだ。

 愛子の通う高校の、一学年あたりの学生数は二百。その半分、約百名が女子生徒だとして、サッカー部のマネージャーとして届け出を出している一年生女子は全体の十分の一、実に十二名にも及んでいた。もはやマネージャーだけで一チーム作れてしまう。だから、シュート練習(一人がパス出しの役となり、他の部員が順番にシュートを撃っていく練習)のボール拾いなど、ほとんど突っ立っているだけで済むはずなのだ。しかし――

「ぅわ、次のつぎ!」

「先輩!頑張ってー!」

「きゃー!魁せんぱーい!」

――どういうわけか、ここのマネージャー連中は機能していない。ほぼ全員がライン上に固まって、グランドに声援を送っている。

「ちょっと……あっ……」

「くっそ、マジ働けって、少しは!」

 愛子と汐崎嬢はたった二人でボールを追いかけ、走り回っている。キーパーにはじかれたり、ギリギリで枠を外れていったボールたちは、防球ネットに当たって地面に落ちていくのだが、転々と転がっていくため、早く拾わなければコート内に入ってしまうのだ。

「「「きゃー!いやー!」」」

 ひときわ大きな歓声が上がり、鋭いシュートがゴールネットを揺らした。ボールを両脇に抱えたまま、愛子はがっくりとうなだれた。

「あぁ……また見れんかった……」

 愛子のお目当ては――というより、マネージャー全員のお目当てが――一人のサッカー部員だ。名を()(どう)(かい)、歳は十七、愛子たちより一つ上の二年生だ。サッカー選手にしてはめずらしく、筋肉質でガッチリとした体形をしている。身長も(バルトほどではないが)高く、リーチの長い脚から大砲のようなシュートを放つことができる。そして、女子の注目を集めるということでやはり顔立ちが整っている。太くてまっすぐな眉毛は力強さを感じさせるし、大きな黒い瞳は正義感に満ち溢れている。外国人のように高い鼻と、ワイルドな口元がセクターさを醸し出せば、ソフトモヒカン風のスポーツ刈りが爽やかさを演出している。これだけではちきれるほど満腹だというのに、この魁という男、スポーツ万能にして秀才、さらには誰に対しても人当たりのいい好青年というから頭が下がる。今も今とて、ギャラリーに一切媚びることなく、淡々と待機列に戻り、声出しにいそしんでいる。そういった姿勢が、余計にファンを増やす結果となっている。

「ヤバかったね」

「私、めっちゃいい写真撮れた!」

「うそ、マジ、送って!」

「私も!」

 淑女諸君は完全にあてられて(・・・・・)しまっている。もはやボール拾いなど二の次三の次、誰もやらなくなった本来の仕事を、愛子と汐崎嬢が渋々引き受けているのが現状だ。もっとも、魁がシュートを外した際は、我先にとボールの取り合いが始まるから摩訶不思議よ。

「はーあ……私だって欲しいのに」

「ドンマイ、またすぐ次来るって。てか、私も諦めてないし」

 汐崎嬢に肩を叩かれ、愛子は力なく笑った。ボールは次から次へと飛んでくる。たった二人でさばくのは、どう考えても不可能だ。

「ナイッシュー!」

 魁は列の真ん中あたりで声を出している。愛子はその姿をチラリと見てから、両脇のボールをキャスター付きのカゴに投げ入れた。

「これ、あっちに返してくるね」

「うん、ありがと」

 カゴがボールでいっぱいになったら、パス役の部員まで届けに行く決まりなのだ。愛子はカゴを押し、ただの観客と化しているマネージャー達の後ろを通り抜け、コートの白線に沿って一生懸命走った。

整地の行き届いていないグランドでこの作業は困難を極める。車輪がガタガタと鳴るし、ボールがカゴの中で暴れまわる。

「あっ!ヤバ……!」

 これ以上蹴られるのはゴメンだと言わんばかりに、ボールが一つ飛び出した。しかも白線の内側、コートの方へ転がっていく始末だ。このままでは練習の真っただ中に侵入しかねない。愛子はその場でカゴを止め、放蕩息子を追いかけた。

「あぁぁあ……待って……!」

 実はこの時、魁の順番が回ってきていたことなぞ、愛子に気付けるはずがない。ましてや、魁の放ったシュートがクロスバー(ゴールの角の部分のことだ)に阻まれたことを、どうして知ることができただろうか。

「「「あぁーっ!」」」

 役立たずのマネージャー軍団の叫び声も、愛子の耳には届いていなかった。やっとの思いでボールに追いつき、限定コスメを手に入れた時に等しい安息を得たばかりだった。

「あふっ……と。ふぅ……」

 我が子のようにボールを抱き上げた時、ようやく汐崎嬢の声が届いた。

「愛子、愛子!」

「へっ――」

「ボール!ボールぅ!」

 クロスバーで跳ね返ったボールは、既に放物線の下り半分に入っていた。運の悪いことに、地球の引力に惹かれる隕石のように、愛子の頭めがけて落ちてくる。

「ぅえぇっ、わっ!」

 よほど訓練をつんだ人間でも、咄嗟の反応というものは取りづらい。一介の女子高生である愛子はなおさらであろう。彼女は突然降ってきた災厄から逃げ出すことができず、その場で亀のように頭をすぼるのが精一杯だった。


 待っていましたと言わんばかりにバルト・シルヴェスタキは加速した。私にはひどく退屈な速度に見えたが、おそらく、グランドにいた生徒達には瞬間移動と同義だったはずだ。

 彼ら彼女らの耳に届いたのは巨大な風船が破裂したような音であり、目に飛び込んできたのは愛子の前に忽然と現れ、左手一本でボールをはじく執事の姿だった。

 映画のような出来事を前に、グランドは静寂に包まれた。


 破裂音に肩をビクつかせる愛子だったが、自らの頭に何も着弾しないことを、さすがに不審に感じた。恐るおそる右目を開いてみると、夜のような色が見えた。

「え……んなぁっ――!」

 バルトのコートだと一目でわかった。

「んまぁっ!またあの方ですの!」

 ヒステリックな悲鳴が聞こえた。富田嬢がベンチのあたりでハンカチを噛みしめているのが、容易に想像できた。

「え、誰?」

「あー、朝いなかった?あの人」

「あっ、夢見さんの執事ってやつ?」

 魁ファンクラブの面々も色めきだっていたが、バルトは気にしていないようだった。こちらに向かって軽く会釈をすると、深みと落ち着きのある声で尋ねてきた。

「大丈夫ですか、お嬢様」

「大丈夫じゃないって!なぁんで入ってくるの!?」

 愛子はおてんばだった。言いつけを守らない執事に、手元のボールを容赦なく投げつけた。

 先ほどのボールを電光石火の速さで吹き飛ばしたバルトだったが、なぜか愛子のボールには手を出さなかった。ぴっちりとアイロンをかけた服に砂ぼこりがつこうとも、甘んじて受け入れた。

「お嬢様に危険が及んでおりましたので」

「頭にボールが当たったくらいで死なないって!」

「脳震とうを起こす可能性がありました」

「そんなこと言ったらなんでも……あっそうだ、ボール、ボールは……?」

 バルトがふっとばしたボールの行方を目で追っていくと、なんと、ボールは二つに裂け、中身の綿をそこら中にまき散らして死んでいた。愛子の桃色の頬が青く染まった。

「ちょっと!弁償しなきゃいけないじゃん!」

「ボール一つで愛子様がご無事なら安いものです」

 バルトが一切の迷いなく言い切ったので、愛子は余計に腹が立った。

「そーじゃなくて!ボールは壊すし、勝手に入って来るし!なんで言うこと聞いてくれないの!?執事なんでしょ!?」

「お嬢様の命が全てにおいて優先します」

 バルトが一切の迷いなく言い切ったので、愛子は呆れてものが言えなかった。

「あーらら、お熱いこと」

「ゆっ、ゆめっ、夢見さんの命が、全てにおいて……ゆう……せん……!?」

 汐崎嬢は既に他人事、ベンチ付近にいた富田嬢はあわを吹いて倒れる、ゴール付近の女子生徒はにわかにざわつく。はっきりと言おう。場が荒れている。

 極めつけは、ボールを蹴った張本人である魁だ。ふらふらとボールの残骸に近づいて行って、震える手でそれを拾い上げた。なんとまあ、ボールは綺麗に真っ二つに、それこそ何か鋭い刃物で切られたように、すべすべとした断面をさらけ出していた。魁は呆然とした表情でこちらを見てきた。

 終わった――。魁と目が合うなんて奇跡、この一年で一度も無かったのに、それがこんな形で実現してしまうなんて。

「もう……なんてことしてくれるのよ……!帰ぇってえぇー!」

 愛子の悲痛な叫びが、冬の空へ吸い込まれていった。




 スズメが鳴いている。朝だ。よほどの田舎でもなければ、ニワトリがそれを告げることは無い。

「んんー」

 愛子はベッドのなかで寝返りを打った。まだ寝ていたい。なぜなら、頭痛がするからだ。なんだかとても、寝覚めの悪い夢を見ていた気がする。

「お嬢様、朝でございます」

 深みと落ち着きのある声が、ドアの向こうから聞こえてくる。そう、こんな声だ。こんな声をしたイケメンがいきなり家にやってきて、自分は姉の遺産だ、お前は遺産を相続した、つまり、自分のことも相続したのだ、とか言いはる夢だ。思い出すだけで頭が痛い。やはり、まだ寝ていたい。

「んー、あと五分……」

「わかりました、では五分後に」

「んー」

 声の主はすんなりと引き下がってくれた。ありがたい、これであと五分はゆっくりすることができる。誰にも邪魔されずに――

「いや違うから!」

 パジャマ姿なのもお構いなしに、愛子は自分の部屋を飛び出した。

 階段に足をかけたバルト・シルヴェスタキが、不思議そうな顔をしてこちらに振り向いた。ちなみに、朝早くだというのに早くも正装に着替えていた。部屋の中でコートを羽織るのが正装かどうかは疑問を残すところだが。

「時間聞き間違えた?みたいな顔しないで!そーじゃなくて!なんでいんの!?」

「私はお嬢様の執事ですので」

「だから、そーじゃないってヴぁ!昨日『帰って』って言ったじゃん!」

「はい、ですから帰りました」

「へっ?」

「私はお嬢様の執事ですので、お嬢様の家が私の家になります」

「いや……あっでも待って、昨日、家中探したのに……!」

 話が通じないのはもとより、この執事の声は青リンゴのような爽やかさをたたえているので、長時間聞いているとクラクラしてくる。愛子はこめかみを揉みしだきながら言った。

「お嬢様のご機嫌が悪かったのは、私の不徳のいたすところ。そのような状態で顔をお合わせになれば、無用なストレスを与えてしまうと思ったのです。一度ならず二度もお嬢様に苦痛を与えてしまうとなれば、それはもはや執事失格。昨日の私がとるべきは、お嬢様の視界に入らぬよう、最善を尽くすことでした」

 背の高い執事はうやうやしく頭を下げた。クセっ毛の黒髪が、愛子の視線と同じ高さでピタリと止まった。

「ぅえ!?あっ、そう……?」

 愛子は単純だったから、自分のことを気遣ってくれたというだけで頬を染め、右耳の後ろをカリカリとなぞった。

「な、なんだ、あなたってちょっと世間知らずだと思ってたけど、意外といいところあるじゃない。その、気を使ってくれるなんて――」

「はい。ですから昨晩はずっと屋根裏に」

「屋根裏!?」

 前言撤回、世間知らずの極みだ。一歩間違えなくても犯罪者の入る所だ、そこは。

「どっから……ていうかやめて!怖いから!」

「しかし、『帰れ』とのご命令でした。お嬢様の言いつけを守りつつ、お邪魔にならない場所となれば、屋根裏以外に選択肢はありません」

「いや、だからってぇ――」

「では、私は朝食の準備がありますので」

「あっ!ちょっと!」

 愛子が次の口撃を探している間に、バルトは右手を胸に当てて一礼し、滑るように階段を下りていった。

「んにゅにゅにゅ……」




 寝間着のままでは追いかけられない。愛子はしかたなく洗面所で顔を洗い、寝癖だらけの髪をブラシでほどき、制服に着替えた。ネクタイをするにはまだ早い。シュシュと一緒に持って下に降りて、ごはんを食べてからつけるのが毎日の流れだ。それらを取るため、いったん部屋に戻った。

 愛子の部屋は雑貨で溢れかえっている。姉から送られてくる誕生日プレゼントに図らずもハマってしまい、少ない小遣いをはたいて色々買うようになっていたのだ。壁掛けの鳩時計や窓際のドリームキャッチャー、机の上に並べられたマトリョーシカなどが前者で、木製のペン立てや姉とのツーショット写真が入ったフォトフレームなどが後者だ。

 愛子は写真の中の姉にしかめっ面をして見せ、小さな万国博覧会の中からシュシュとネクタイを探しあてた。椅子の上に投げていたカバンを肩にかけ、そこにネクタイをつっこみ、シュシュは左手に握ったままリビングへと下りた。

「おはようございます。お嬢様」

 リビングに入ったとたん、愛子は口をあんぐりと開けた。水色のシュシュが手から滑り落ち、床まで落ちていった。

「落としましたよ」

 執事を自称する男は、さりげなく近づいてきてシュシュを拾った。そして愛子の左手をとると、そこにシュシュを握らせた。

「どうぞ、こちらへ」

 バルトは流れるような動作でテーブルまで移動し、椅子を一脚、軽やかに引いた。この間、愛子は口を開けっぱなしだった。なぜなら、バルトが背を握っている椅子の前、テーブルの上には、今まで愛子が見たこともない――訂正――ドラマや映画の中でしか見たことのない、新鮮さと豪華さを兼ね備えた朝食が用意されていたからだ。大きな皿の上には湯気の立ち上るスクランブルエッグとソーセージ、脇にはこんがりと焼き目のついたベーグルがスタンバイし、その反対側にはドレッシングのかかったサラダが待ち構えている。

「えっ……と……私、コックも相続してたっけ?」

 バルトに促され、椅子の前に移動しながら、愛子はしどろもどろしていた。豪華な朝食に見とれている間に、流れるようにカバンをとられ、椅子に座らされていた。

「いえ、僭越ながら、私が作らせていただきました」

 固く閉じてしまった左手の指が、一本ずつ優しく開かれていくのも、愛子は気付いていなかった。

「えっ!?これ、あなたが作ったの!?」

「はい」

 シュシュをそっと脇に置きながら、バルトが説明を始める。

「お嬢様の健康を促進し、一日の活力が得られるよう、主食・主菜・副菜のバランスを考えました。朝はお身体が冷えるでしょうから、ご一緒にホットミルクをどうぞ」

 バルトがどこからともなくホットミルクを取り出すのを、愛子は尊敬の眼差しで見つめていた。

「ほ、本当に食べていいの?」

「はい。もちろんでございます」

 バルトは愛子の右斜め後ろに下がると、それ以上何も言わなくなってしまった。愛子は執事から視線を引きはがし、朝食に向き直った。

「ぅわぁ……」

 芳醇な温度、鮮やかな香り、温かい色彩、見ているだけで楽しくなってしまい、どれから手を付けていいのか悩んでしまう。

 愛子はまず、手元のフォークを握った。小鉢に入ったサラダにそれを刺し、ドレッシングのかかった葉物野菜を拾い上げた。

「い、いただきます……」

 口に含んでみると、シャク、と瑞々しい音がした。心地の良い歯ごたえと、緑の香りが口いっぱいに広がり、それらを邪魔しないよう、ドレッシングが舌の上を滑るように流れていった。

 言葉にならない美味しさというものを、愛子は生まれて初めて感じた。ただのサラダでこれだ。大皿のベーグルたちを食べたら、一体どうなってしまうのだろう。未知の世界への期待と興奮は、早くも最高潮に達しつつあった。

 そんな愛子を見透かしたように、バルトが静かに動いた。どうやらバルトは、愛子のしたいことを、彼女自身より早く察知しているようだ。半分に切られているベーグルをとると、そこにソーセージを乗せ、大きなスプーンでスクランブルエッグを拾い、これまたソーセージの上に飾った。ケチャップで色味を整えた後、最後はスクランブルエッグが潰れぬよう、ベーグルの片割れでそっと蓋をし、ナプキンで包んだ。

「あ、ありがと……」

 愛子はおずおずと返事をし、ナプキンの上からベーグルのサンドを握った。バルトは視界の外に素早く消えた。それはおそらく、どうぞお食べくださいの合図なのだ。

 両手が温かい。熱すぎず、ぬるくもなく、一番食欲をそそられる熱量で、こちらを見上げてくる。生唾を飲む音が、頭の内側で跳ねっ返り、胃の中へ落ちていく。愛子は胸を高鳴らせながら、小さな口を開く。めいっぱいに開く。白い歯が当たるとまず、ベーグルが優しく沈みこんでくれる。そして、下手に抵抗することなく素直に沈み、赤いケチャップと、ほろほろの卵と、肉のうまみを内包したソーセージを、順序よくリズムよく口の中へいざなってくれる。

 するとどうだろうか、たちまち彼女を襲ったのは、香ばしい小麦粉の香りと、ケチャップの酸味、卵のとろけるような感触と、ソーセージの強烈な旨みだ。自分の鼻から「んふ」という音が出ても、さくらんぼ色のくちびるがケチャップで真っ赤に染まっても、ナプキンの端から卵がぼろぼろとこぼれても、愛子はちっとも気にならなかった。それはバルトが、下品な音に気付かないふりをしてくれたから。ではなく、何も言わずにケチャップをふき取ってくれたから。でもなく、ましてや、こぼれおちた卵を、制服のスカートに着弾する直前で全て器用に回収してくれたから。でもなかった。

「んん……!おいひぃ!」

 そう、体の全神経が集中してしまうほど、このベーグルサンドがおいしかったのだ。その他のことはもはや、一切合切後回しだ。

 愛子は目を輝かせながら無我夢中でベーグルをほおばった。口直しにちょっとサラダをついばんでは、またかぶりついた。喉を潤すためにホットミルクを飲むと、これまた温度が絶妙で、舌や喉に火傷の跡を残すことなく、するすると下りていった。お腹の中からじんわりと熱が広がり、つま先までぽかぽかになった。

 

 愛子が「ふへぇ」とか「ふはぁ」とか腑抜けたことしか言わなくなったので、バルトは(あるじ)に代わって時間を確認することにした。彼は先祖代々受け継いできた懐中時計を持っており、それをコートの内側に常に忍ばせているのだ。

 シルヴェスタキ家の懐中時計は金でできており、蓋に龍の意匠が施されている。古く、鈍くなってしまった黄金の輝きであってもなお、その姿は威風堂々としており、見る者に畏怖と尊敬の念を抱かせる。蓋を開いて中を確認すると、十二のアラビア数字と長短二本の針が、時の流れを彼に知らせる運びとなっている。現在時刻は午前八時、少々過ぎて六分。このままでは遅刻だ。


「お嬢様」

「ふぁ、なあに?」

 むぐむぐと口を動かしながら愛子は答えた。ところで、私はどうしても気になるのだが、どういう経緯をもってして、ケチャップは右頬への旅路を終えたのだろう?

「失礼でなければ、髪を結ばせていただいてもよろしいでしょうか」

 執事に言われ、愛子は机の上のシュシュを見た。いつそこに置かれたのかさえわからなかったらしいから、諸君、ぜひとも説明してやってくれたまえ。とにかく、愛子は今の今まで忘れていたが、今日は平日、木曜日。八時半の始業に間に合うように、学校に行かなければならないのだ。

 しかし、だ。今日は朝食がうまい。お上品に言い直せば大変においしい。今の愛子にとっては、髪を結ぶ時間さえ惜しい。なにぶん、髪を結ぼうとすれば、鏡の前に移動し、何百、何千もの細くて長い髪をかき集め、形よく整え、それをシュシュに通し、さらには左右のツーサイドアップがバランスよくできているか確認しなくてはならない。乙女の身だしなみにはとてつもない時間と労力がかかるのだ。

「あー、じゃあ……お願い――しちゃおっ……かなー」

 実に戦略的な打算だった。出会って三日目の男に髪を触らせるという決断を下してでも、ベーグルを余すことなく食べたかったのだ。愛子は、バルトが髪をいじれるよう、椅子の背もたれから若干前のめりになって朝食を続けた。


「ありがとうございます。では、失礼して」

 (あるじ)の了承は得た。バルトはコートの内ポケットから木製のクシを取り出し、亜麻色の髪に優しく入れた。根元から真ん中、真ん中から毛先へと丁寧に走らせ、適量にまとめた。愛子の咀嚼を邪魔せぬよう、風一つ立てずに机上のシュシュを取り、手早く、正確に髪を通した。もう片方にも同様の手順を施し、あっという間に愛子のトレードマークであるツーサイドアップを作り上げた。


 バルトの手つきは我が子を愛でる母親のように優しく、敏腕美容師のように的確だった。愛子は無限の心地良さにいざなわれ、作業の間、両足をブラブラさせ、ハミングまで奏でた。

「いかがでしょうか」

 頭の後ろから、折り畳み式の鏡が左右に開かれた状態で降りてきた。愛子は残り僅かになったベーグルをそっと置き、右左(みぎひだり)、斜め前に二人浮かんでいる女の子を見つめた。

「ぅゔぇっ!」

右の子がほっぺたにケチャップをこさえていることに気付き、慌てて指の背で拭きとった。べとべとになった手は、とりあえずベーグルのナプキンにこすりつけた。

「んー」

 気を取り直し、鏡を見つめながら顔を左右に傾けてみると、文句のつけようがない出来栄えであることが瞬時にわかった。それどころか、愛子自身が作ったものよりも綺麗で、完璧なツーサイドアップがそこにはあった。愛子は両手を叩いて喜んだ。

「すごい!キレイにできてる!あなたって、なんでもできるんだね!」

「ありがとうございます」

 執事はしめやかに謝辞を述べ、鏡を折りたたんだ。それが夜のようなコートに吸い込まれていくのを、愛子は目で追っていた。

 決して飾らず、出しゃばらず、さらに驕らず、自慢せず、加えて不敬や不足は一切なし。執事を自称する男は、紛れもなく本物のそれだった。それも、とびきり優秀な。

 右耳の裏がかゆい。調子が狂うとはこのことだ。愛子は、恥ずかしくて叫び出したい自分をカリカリとなでつけなければならなかった。

「あのー……」

 愛子は自分の行いを反省していた。もちろん、みっともなく朝食を食べたことではなく、昨日のバルトに対する非礼を詫びるのだ。

「はい、お嬢様」

「昨日はその、ごめんなさい、ちょっと言いすぎて」

「いえ、私の配慮が足りなかったばかりに、申し訳ありません」


 やれやれ、あっぱれな執事だ!バルト・シルヴェスタキはいつもそうだった!しかし、私が感心しても仕方がない。それ見ろ、いたたまれない気持ちに追い詰められた主人が、人差し指を天井に向けてクルクルと回し始めたではないか!

「あー、うー、えっとー、シ、シルヴェっ……バルトってさ、そのー、屋根裏に隠れられるくらいだから……学校でもあんまり目立たないようにとか……できる?」

 おぉ、恐ろしきかな人の善意よ。十二時間前は忌み嫌われていた相手から、こうも簡単に譲歩案を引き出してしまうのだから。

 誤解のないように言っておくが、彼は決して狙ってやっているわけではない。実直な男なのだ。実に。

「善処します」

 刹那の熟考の末、バルトは右手を胸元に当て、うやうやしくお辞儀した。

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