第十三章 儀式
爽やかなシトラス系の匂いが鼻を突き、愛子は目を覚ました。
ドムトールンではなく、屋外に出ていた。夜が明けかけているのか、東の空から、オレンジの光がねじ込まれている。
寒い、と思った。いつの間にかコートを脱がされ、制服とカーディガンだけになっていた。いや、それよりも――異常に高い高度が、寒さの元凶のように思えた。
視線を右へ向けると、巨大な顔があった。愛子の身長と変わらぬほどの大きさだった。その顔は薄い蒼色をしていて、明るい夜空を真っ直ぐに見据えていた。愛子がいるのは、顔の持ち主の左手の上だった。
「ここ……」
悪寒がした。
自分はここにいてはいけないと、直感で悟った。
あの日、私が話した内容が、彼女の頭にこだましたそうだ。儀式に必要なものは――人柱――――人柱はここにいる――自分だ――だとしたら、あと一つは――
「苦痛を受けた……魂……」
「目が覚めたか」
すぐ後ろで声が聞こえた。振り向こうと思ったが、体が動かせなかった。愛子はようやく、自分が十字架のようなものに縛り付けられていることを知った。
「……魁センパイ」
正面に回り込んできたのは、愛子を拉致したその人だった。
愛子のコートを右腕にかけ、中のポケットをまさぐっている。
「用意周到なやつだ」
魁が取り出したのは、小さなボタンのようなものだった。赤い光を点滅させ、その存在を必死に主張していた。
「だが――」
目の前でボタンのようなものが握りつぶされ、愛子は小さく悲鳴を上げた。なぜだかそれが、自分とバルトをつないでくれる、最後の希望のように思えたのだ。
魁はふん、と鼻を鳴らすと、上体を逸らし、はるか上の方を見上げた。
「準備完了だ」
「ご苦労」
聞き間違おうはずもない。今の声は、ハウステンボスにいた悪魔のものだ。
まるで、それが合図だったかのように、地面が震え始めた。
「な、なにを……」
「誰も邪魔できないようにするだけだ」
震度6も目ではない揺れだったのに、魁は平然としていた。
メキメキという音があちこちから聞こえ始め、砂ぼこりが撒きあがった。愛子は下から突き上げられるような感覚を覚えた。視界がどんどん上に上がっていき、それまで見えていなかった下の景色が、目に飛び込んできた。
愛子の足下から、一直線に道が伸びており、その先、階段の下には死者を癒すための泉がある。高度はさらに上がる。右手には路面電車のレールが見え始め、左手には中心に一本の棒がそびえ立つ広場が、その奥には、ここで起きた惨状を後世に伝える館もある。
写真や映像では何度も見てきた。実際に見るのは初めてだった。
ここは――長崎、平和公園だ。
路面電車の向こうに、大きなトラックやサッカー場、野球場まで望める高度に達し、ようやく地震は収まった。
愛子の乗せられている平和祈念像、これは元々小高い丘の上にあったのだが、今はその丘自体が、五十メートルも高い山に作り替えられていた。眼下の泉で完全に断絶された形となってしまい、人間ではよじ登ることすら不可能だ。遠くには、うっすらと長崎市街の輪郭や、朝日を受けて光る湾まで見える。
「ようこそ、神代愛子さん」
上空で愛子を待ち構えていたのは、ハウステンボスで会った爺だった。羽も使わずに宙に浮き、真っ白な髭を風になびかせ、不敵に笑っていた。
「私がヴァン・エル・シルヴァだ。巷ではダークフォールと呼ばれている。実は初めましてではないがね」
「バルトは……?バルトをどうしたの!?」
愛子はたまらず叫んだ。拘束されているのもかまわず、両手を振り回した。手首にきつく結び付けられていた枷が食い込み、血が流れだしたが、それでも暴れ続けた。
シルヴァ愉快そうな笑みを浮かべ、こちらをまじまじと見ていた。愛子はそれがたまらなく悔しかった。
「彼はもうこちらに来ることができない、とだけ答えておこう。あなたがそうさせたのだが」
愛子はシルヴァの答えに絶句した。暴れる気力は途端に萎え、がっくりとうなだれた。
「獅童」
シルヴァはコートのポケットからこぶし大の透明な玉を取り出した。魁は不機嫌そうにそれをひったくった。
「儀式を始める。手はず通りにやれ」
「言われなくても」
魁の声は恐ろしく冷たかった。
呆然とする愛子の目の前を、シルヴァが滑るように降りていく。見えないエレベーターにでも乗っているかのように、素早く、音もなく。
「セ……センパイ……!」
愛子は隣に立つ魁を見た。
「やめてください……こんなこと……!」
魁は愛子の言葉に何の反応も見せず、平和祈念像の土台を見下ろしていた。シルヴァが降りたった辺りを、じっと見つめていた。
「俺は昔――みじめでちっぽけな男だった」
かすれた、栄養の足りていない声で魁は話し始めた。それが本当の声色なのだと、愛子は悟った。
「不細工で、頭も、運動神経も悪くて、クラスではいつもいじめられていた。家に帰れば、飲んだくれの父親に暴力を振るわれ、母親は俺を救うどころか、自分だけでも助かろうと、俺を差し出す始末だった。家庭がそんなだから、教師も俺に関わることを嫌がっていた。学校にも、家にも、逃げ場なんてものは存在しなかった」
話しているうちに、魁の顔が醜く歪み始めた。身長も縮み、愛子と同じ高さになった。たくましかった二の腕は細く、弱々しくなり、にきびがびっしりとついた頬の上を、涙が滝のように流れていた。
シルヴァの魔力が作り出した幻影のその向こうが、なぜか愛子には見えてしまったのだ。
「毎日言われてたよ。お前、学校に来んな、キモいんだよって。お前なんて生まなければよかった、食いぶちが増えるだけだ、って」
瞬きをすると、魁の顔は元通りになっていた。いや、どちらが本当の顔なのか、愛子にはもう、わからなくなっていた。
「想像を絶する……心がなぁ……痛いんだよぉ……胸の奥が……穴が空いてないのに、空気が流れるんだ。息苦しくないのに、かきむしらずにはいられないんだどうやったら治る!?」
魁は自らの胸を鷲掴みにし、歯を食いしばって叫んだ。飛んで来たツバが、愛子の頬にねとりとまとわりついた。
「高校に入る時、シルヴァに会った。やつは神官と儀式の話をしてくれた。近所に神官の妹が住んでいて、将来、もしものために備える必要があるとも言った」
眼下から、おぞましい歌声が聞こえてくる。理解しえないはずの悪魔の言葉が、言いようのない不安と絶望をもって這いあがってくるのだ。
愛子は目をぎゅっと閉じた。シルヴァの声が届いた瞬間、耳が焼けたのだ。鼓膜がぶちぶちと言ってちぎれ、どろりとした液体が、耳介を通って喉の奥に入ってきた。それは不気味な冷たさで、愛子の背筋を凍らせた。
「信じがたい話だったが、すがれるものなら何でもよかった。昔の人はよく言ったよ、溺れる者は藁をもつかむ。俺が掴んだのは悪魔の手だが――おかげで、俺は誰よりも賢く、誰よりもたくましく、そして誰よりも魅力的な男に生まれ変わった……誰もが俺に憧れ、誰もが俺を尊敬した。クラスでは人気者になり、教師から信頼され、女から告白されない日などなかった。俺を痛めつけていた親は返り討ちにし、逆にあいつらを意のままに操った……」
呪いの言葉に抗うことを、魁の言葉が邪魔していた。彼のすさんだ人生が愛子の脳裏で再生され、同情でもない、悲しみでもない、負の感情をいっぱいにため込んだ重しとなって、心に括りつけられていた。
「結局それが、人の本性だ」
魁の右手に、空の水晶が光る。
「自分より優れた人間にはこびへつらい、おこぼれがもらえないかと付きまとう。そのくせ、見下した相手は、生きようが死のうが関係ない。ストレスのはけ口にして、動物以下の扱いをする。下手に手を差し伸べて自分が傷つくくらいなら、攻撃を加える側に平気で回る」
魁は神に歯向かうかのように、朝日に向かって叫ぶ。髪を振り乱し、狼のように吠える。
「シルヴァに出会わなければ!俺は自分で命を絶つところだった!包丁を手に取り、橋の上から河を見つめ、踏切の前で半日を過ごしてきた!そうすることでしか、無限に続く苦しみから逃れられないからだ!そうやって無碍に奪われた命が、一体いくつあると思ってる!?それを隠蔽し、露呈すれば弱い人間だったと押し付け、いじめなど、家庭内暴力など存在しないと、平然と言いのける輩がどれだけいる!?あまつさえ、勇気を振り絞って訴えた者に、証拠が無い、嘘をついた、被害者面をするなと攻撃まで始める!そこにも、そこにも!そこにもそこにもぉ!そこら中で人は罪を犯している!この世界を悪魔に明け渡すわけにはいかないだと……!?ふざけるな!この世界はもう悪魔の巣窟だ!人が生き続ける限り、決して平等など訪れない!誰かが粛清しなければ!俺のような目に遭う人間がごまんと生まれ!その命の輝きを見せぬまま、自ら人生に終止符を打つ羽目になるんだ!」
「そんなことない……!いい人だっていっぱいいる!バルトだって――」
「あぁそうだ!あぁいういい奴が、バカを見て死んでいくんだ!お前みたいな、自分のことしか考えないやつのせいで!」
魁の声はシルヴァの歌声と重なり、千本の針となって愛子の肌に刺さった。骨を貫き、心臓にまで達した。呪いの歌は、死よりももっと恐ろしいものを呼んでいるように感じられた。
「そんな不公平な世界は滅びるべきだ。滅ぼすべきなんだ」
魁がツバをまき散らしながら、水晶を高く振り上げた。
シルヴァの歌声が、一段と大きくなった。
「俺やお前の執事のように、世の不条理によって死ぬ人間を無くさなければならない。死なら平等だ。死は全員に等しく訪れる」
黒い瞳に満ち溢れていた正義感は、間違ったものだったのだ。
「もう二度と、誰も苦しませない!」
水晶は、愛子の胸に叩きつけられた。
呪いの歌がやんだ――
いや、完成したのだ。
「ゔぅ!」
胸に激痛が走った。心臓に杭を打ち込まれ、そこから大量の血液を吸い出されたようだった。
「ふぐっ……ぅくぅぅぅぅぅうううううう!」
やめて、やめて、やめてやめてやめてやめて!愛子は必死に訴えた。手の平に爪が食い込むほど握りしめ、血を流しながら抵抗した。
それでも、力が吸い出されるのを止められはしなかった。
「ああ……あぁあぁぁあーーーっ!」
胸元にある水晶の中に、水色の霧のようなものが噴射された。それはどんどん勢いを増してゆき、水晶の中をいっぱいにしてもなお、とどまることを知らなかった。
そのうち、水晶はひとりでに震え始め、愛子の胸からふわふわと浮かび上がっていった。最初ほどの激痛はなくなったが、自分の一部が、継続して水晶の中へ引っ張られているのを、愛子は感じていた。
「ふっふっふっふっふっ……!はっはっはっはっはっはっはっはっはっ…………!」
水晶が愛子の頭上に浮かんだ頃、像の足下から、シルヴァの笑い声が立ち上ってきた。
愛子は震えた。きゃつがダークフォールと呼ばれるに至った真の理由を、たった今、思い知ったのだ。
これから、思い知るのだ。
「ワァンダフォオオオォォォォォォォォォ!」
悪魔のかちどきと共に、太陽が燦然と輝いた。足元の祈念像は姿を消し、愛子は、愛子と魁は、空に浮いていた。
さっきまでそこになかった、大きな教会が見える。大きな刑務所が現れる。長崎市街のあった方へ、木造の家々が、長屋のように建ち並んでいる。その隙間を、おしゃれもへったくれもない、一つなぎになった服を着た人々が歩いている。みな、防空頭巾を外しながら、それぞれの家に戻っていく。
プロペラが空気を薙ぐ音とともに、上空を巨大な飛行機が駆ける。銀色の体と、トンボの複眼のような窓ガラスを持つ、死を運ぶ船――そこから一発の、たった一発の爆弾が投下される。それは小さなパラシュートのような傘を開き、こちらに向かって落ちてくる。
愛子は叫んだ。誰一人、気付いてはくれなかった。
傘を見上げ、悠長に眺める者までいた。愛子は絶叫した。
宇宙の誕生も、等しく惨いのか。
ファットマンは空中で炸裂し、太陽の光さえ遮った。
爆風と熱波で刑務所は消し飛び、神の庇護など一つもなく教会が崩壊した。
愛子の見える位置にいた人々は蒸発し、間際の声すら残すことは許されなかった。
遠くの人は熱線に焼かれ、服と肌がごちゃまぜになった。上着を脱いでいた者は、皮膚がずる剥けになり、静電気でひっつくビニール袋のように、指先から垂れ下がった。
ある者はまぶたがめくれ上がり、またある者は髪がちぢれ、干からび、血を流し、母の腕に抱かれた幼い赤子の顔には、散弾銃のように襲ってきた窓ガラスがびっしりと突き刺さっていた。
地面が干上がり、火の渦が家々を焼いた。巨大なキノコ雲が、いつまでもいつまでも、長崎の上空を覆い隠していた。
愛子の体を、何千、何万という悲鳴が貫き、愛子の心を、苦悶する魂がのたうち回って破壊した。
「あああぁぁぁ!あああああああーっ!」
現実世界の空、先ほどまでキノコ雲が渦巻いていた空間に、一つの揺らぎが現れる。
頭上に浮かんだ水晶が激しく震え始め、中に溜まった水色の霧が、高速で回転を始める。
「これはこれは……予想以上だぁ……」
ダークフォールをもってしても、これだけの規模はお目にかかったことが無かったのだろう。シルヴァがほくそ笑んでいるのが、愛子の耳にかろうじて聞こえていた。だがそれよりも。
爆心地に、地獄の門が開く。
初めは小さく、徐々に巨大に。最後は平和公園全てを飲み込むほどに。
「さあ、預言の続きの始まりだ」
長いながいトンネルの向こうからやってくるように。
甲高い音と、地鳴りのようなうねりが近づいてくる。
ダークフォールに呼び覚まされ、悪魔の大群が降り注ぐ。
溜めに溜めこまれた悪意をもって、長崎の空は、真っ黒な羽音に覆いつくされた。