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機械の右目でなにが見える  作者: 影宮閃
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第十章 ハウステンボス

 翌朝、鳥が鳴き始めるより早い時間から、愛子はカウンターのような長机の前に座らされていた。

「ほら、ちょっと、動かないで!」

 逃げようとしたら、汐崎嬢に頭を掴まれた。鏡の前に引き戻され、愛子はぶつぶつと不平を垂れた。

「い、いいってヴぁ!恥ずかしいよ……」

 鏡の中の愛子は、学友らの手によって絶賛おめかし中だった。学友()というのはつまり、汐崎嬢だけでなく富田嬢まで参戦しているということだ。

「いいですこと?愛子さん、匂いは女性の武器ですの。優しくて、柔らかくて、それでいて妖艶な色気を感じる匂いは、男性の心を掴んで離さないものですわ」

「そ、そうなんだ……?」

 高そうな香水の瓶を振りかざす富田嬢を見て、愛子は疑心暗鬼に陥った。笑ってみる努力はした。

「ええ、わたくしの家から、殿方との逢引に一番あうものを選んでまいりましてよ」

「え、昨日の今日でどうやって持ってきたの?てか逢引って……」

 汐崎嬢のツッコミにより、恋バナという花で埋め尽くされた畑が、一気に急速冷凍された。

 富田嬢はびっしょりと汗をかき始め、どもりながら言い訳を始めた。

「べ、べべべ!別に!昨日の夜に爺やに電話して、速達で送ってもらってなどいませんわ!」

「いや、だから逢引――」

 汐崎嬢の追及は続いたが、愛子は気持ち半分で聞いていた。

 単純に嬉しかったのだ。あの富田嬢が、自分のためにわざわざ香水を準備してくれたことが。




 結局、ハウステンボスの入り口(律儀に入国ゲートと呼称するらしい、妙だ)にたどりついたのは、魁と約束した時間ギリギリになってしまった。ちなみに、開園時間より二十分遅らせてあるため、他の生徒はほとんど先に入園、もとい、入国している。もっとも、女子マネの目につけば八つ裂きにされること請け合いなので、魁の判断が正しかったと言える。

「これでよしっ!」

「完璧ですわ!」

 二人の学友の手によって、愛子はとびきりめかしこんでいた。無論、部活動の延長として来ているため、学生服は外せなかったのだが、富田嬢の物資供給と汐崎嬢のテクニックにより、男性にはそうと気付かれず、かつ、彼女の魅力が増すようにメイクが施されていた。

 もともとさくらんぼ色をしていた唇には、少し赤みを足したリップを、桃色の頬には、肌の透明感が増すラベンダー系のチークを、まつ毛にはマスカラを施し、ツーサイドアップを束ねるシュシュは、ネクタイの色に合わせ、白く縁取りされた赤色に変わっている。

「じゃ、じゃあ……行ってきます」

 コートの襟を何度もなんども直し、愛子はようやく決心をつけた。

 汐崎嬢は笑顔で手を振ってくれたし、富田嬢は腕を組んでそっぽを向いてくれた。おかげで、愛子は笑顔で出発することができた。


「じゃあ、私らは残念会、しますか!」

 愛子の姿がゲートに消えた後、汐崎嬢は富田嬢の肩を抱き寄せた。

「だっ、誰が残念会ですの!?誰が!」

 失敬、私には慰めてやる時間がないものでね。横を失礼するよ。




 入国ゲートはレンガを積んだような大きな建物だった。中には場内の案内やら大量のクマのぬいぐるみやらが置いてあった。私は出口と入り口のちょうど中間あたりのところで、壁に張り付いて待機していた。

「おはようございます、愛子様」

 私が声をかけると、愛子はムスッとして立ち止まった。昨日までのように驚きはしなかった。

「なんでいっつも、あなたたちは突然現れるんですか」

「それが仕事のようなものです」

 ここ数日で、片手では足りぬほどの神出鬼没を目の当たりにしてきたのだ。彼女でなくとも、いい加減見飽きたことだろう。

「バルトのことなら知りませんけど」

 私が話しを切り出すまでもなく、彼女は否定した。

「いいえ、あなた様が解雇なさると言うのでしたら、私は別に止めはしません。そのような権限もない。ですが、ご決断なさる前に、彼があなた様の下へ来るまでの経緯をお耳に入れても、バチはあたらないかと思いまして」

「結構です!」

 愛子は私の方を見ようともせず、肩を怒らせながら歩き出した。さしずめ、デート前の幸福な気持ちを台無しにしてくれるな、と言ったところだろう。

「彼がなぜマシーンと呼ばれているのか、お話していませんでしたね」

 愛子の背中に向けて言ってやると、今度はその歩みが止まった。

 私は右手の上でラマカンテを開き、彼女の方へ歩みを進めた。

MaSeen(マシーン)とは、Man(人間)の中にSee(見る)という単語を入れ、Machine(機械)と掛け合わせた造語です。元来、(あるじ)を守れずに生き残ってしまった騎士には、役立たずや臆病者、騎士失格の烙印が押されるものです。そんな中、彼は顔の右半分を機械化してまで生き延びた……。(せい)にすがり、(あるじ)の危機に目をつぶったとまで言う輩もいます。さらに悪いことに、彼は右目を失ったことで、騎士として必要不可欠な、悪魔を見出す力が半減してしまっている。今後ともその役目が務まるとは思えない……誇りも、尊厳も、果ては騎士としての力もない、愚かで憐れな騎士を揶揄する言い方、それがMaSeen(マシーン)なのです」

「そ、それが……どうしたって……」

「事実、神官や騎士団の中には、彼を除名すべき、との声もありました。ミリオンセラーを持つには相応しくない、と」

 私が話している間、愛子は一歩たりとも動かなかった。私はとうとう彼女を追い越してしまい、出口の光を背に、彼女の方へ振り返ることとなった。

「ですが、彼は諦めませんでした。反対派の騎士たちを納得させるため、三ヶ月で100体の悪魔を滅却すると宣言したのです。彼はシベリア撤退戦の二日後には出発しました。悲しみにくれる暇もなかったことでしょう。それでも、世界中を飛び回り、わずかな痕跡から悪魔を見つけ出し、片っ端から始末していきました。銃撃のできなくなったミリオンセラーで、近接戦闘のみでです。途方もない労力と、血のにじむような努力があったことでしょう。そしてあなた様のもとへ馳せ参じた前日、彼はついに達成しました。考えてもみてください。どう計算しても一日一体以上倒したことになる。それも、世界各地に散らばる悪魔をです。いったい、彼はいつ寝て、いつ休んでいたのでしょう……?次第に、悪魔たちの間でMaSeen(マシーン)は〝死〟を意味する言葉へと変わり、彼を慕っていた騎士からは、畏怖と尊敬の念を込めてそう呼ばれるようになりました」

「し、知らないもん!そんなの!」

 入国ゲートの中に反響した彼女の叫びは、それ以上聞きたくないという意思の表れに他ならなかった。

 愛子は私の視線を避け、ゲートの出口に向かって歩き始めた。

「なぜ彼が、ミリオンセラーに残った一発を、お姉(・・)さま(・・)()お残し(・・・)()なられた(・・・・)最後の・・・一発(・・)()、使わずにとっておいたとお思いですか!」

 私は小さくなっていく背中に問うた。

「なぜ、あなた様を守るために、躊躇なく撃ったとお思いですか!」

 問えば問うほど、彼女は足早になった。

 最後はほとんど駆け足だった。

「全て、あなた様の騎士となるためです」

 私はそこでラマカンテを閉じた。




 愛子は入国ゲートを走り抜け、外に踊り出た。

 一気に視界が開け、幅広な運河と、運河にかかるレンガの橋と、橋の向こうに続く色鮮やかな花畑と、さらには花畑の中につらなる風車群まで見えたのに、彼女はその一切に感動することなく、大声で叫んだ。

「むうぅぅぅ~あーっ!」

 周りにいた客の視線を一斉に集めてしまったが、そんなことはどうでもよかった。兎にも角にも、自分の中にあるイライラを吐き出してしまわなければ、潰れてしまいそうだったのだ。

「はあ……はあ……はあ……」

 大人は嫌いだ。

 勝手に押し付けて、勝手に期待して、それがだめなら、今度はお涙頂戴の話で同情を誘うわけ?

 いい加減にして欲しい。

 これは私の人生、その、一番輝く瞬間がもうすぐそこまで来てるっつーのに、祝福されるならまだしも、ジャマされるいわれはない。

 というのが、当時の彼女の言い分をかいつまんだものだ。認めよう、正しい。

 人一人の人権を超える正義など、この世には存在し得ぬ。

 だが――一つだけ、彼女は勘違いしていた。

「ゆ、夢見……?」

 魁の声が聞こえて、愛子はとっさに顔を上げた。

 そこにはハウステンボスの園内マップを持った魁がいて、心配そうな表情でこちらを覗き込んでいた。学ラン姿とはいえ、そのかっこよさに愛子は見とれてしまった。

「かっ……魁センパイ!」

 愛子はバラバラになりかけた毛先を撫でつけ、上気した頬を叩いて冷ました。

「どうかしたのか?」

「あ、いえ……ちょっと色々あって……あぁぁ、待ってください!私っ、汗かいちゃって――」

 魁が当たり前のように近づいてきたので、愛子は心底慌ててしまった。瞬間移動を繰り返す執事もどきの爺から逃げるため(それは、ひょっとしなくても私のことか?)、全速力で走ってきたのだ。全身から汗が噴き出していた。

「コート持つよ。なんだか暑そうだ」

「ふえ……」

 魁の笑顔が眩しすぎて、愛子は立ち眩みがした。

「で、でもっ……センパイにそんな、荷物持ちみたいな……」

「大丈夫、そのうち冷えるだろうし、それまで持つだけだよ。持って歩くには重いだろ?あ、じゃあ……代わりと言ったらなんだけど、これ」

 少し考えた後、魁は手に持っていた園内マップを振ってみせた。

「これと交換、ってことにしよう。俺の代わりに見てくれないかな?ここ、広くてさ」

 自分のことを気遣ってくれて、かつ、こちらが気後れしないよう、配慮してくれるとは。愛子は激しい感動の渦に巻き込まれた。

 執事どもとのやり取りで疲弊した心に、魁の優しさが染みる。

「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……」

 ちょっぴりはにかみながら、愛子はダッフルコートを脱いだ。心配していた汗だったが、香水のおかげで全然臭わなかった。むしろ、柔らかいフルーツの香りに、自分自身が癒された。さすがは富田家の執事。片手間で執事を名乗る男とはわけが違う。

「俺も、お言葉に甘えて。ふふっ」

「えへへ……」

 魁はうやうやしく園内マップを差し出してくれた。愛子はエサを与えられたひな鳥のように、無垢な喜びでそれを受け取った。



 入場から十分で愛子の幸福度は頂点に達し、歩くたびに頂点がどんどん突き破られていった。なにせ、大きな運河を背景に、ゆっくりと羽を回転させる風車を見ながら、花でいっぱいの道を歩いているのだ。それも、獅童魁と並んでだぞ!

 これが教科書に載らないとは、人類はいったい何を記録しているのか!くだらぬ日本史など焼き捨ててしまえ!というのは少々言い過ぎのきらいがあるが、彼女は割と本気でそう思った。そうだ。

 ご希望通りとはいかぬが、ラマカンテには克明に記録しておく。あとで読み直していただきたい。

「うわぁ……ホンットすっごい……!」

「風車もすごいけど、水路がでかいな。本物の運河みたいだ。向こうは家みたいなのがたくさんあるし……いー眺めだなぁ」

 魁の言う通り、運河の向こう側に見えるそれは、さながら水の上の住宅街だ。家々はきっちりと区画整理され、デザインの統一を図っているのだろう、とんがり帽子のような屋根がズラリと並んでいる。

「ホントだ、可愛い!う~ん、でもあっちには行けないみたいです」

 愛子的に不満を上げるとすれば、一点、園内マップを持っているせいで、魁と手が繋げない、というところだ。もっとも、それを求める勇気はまだ備わっていないのだが。

「アトラクションも色々あるみたいです。センパイ、どこから行きましょうか」

「どこでもいいよ、夢見の行きたいところに行こう」

「えぇ、そんな……悪いですよ」

「いいっていいって、夢見が楽しそうにしてる方が、俺も嬉しいし」

 愛子は反射的に園内マップを握りしめてしまった。手の平からにじみ出る汗で、染みができるほどに。




「じゃ、じゃあ……お先に、行ってきます」

 ヘルメットをかぶり、命綱を括りつけられた愛子は、へなちょこな敬礼で魁に別れを告げた。

「うっ……きゃあぁぁ!」

 魁が笑顔で手を振ってくれたと思ったとたん、足元から地面が消えた。愛子は頭上の太いパイプに吊られ、高速で木々の中を滑走していく。

 パイプはのたうち回るヘビのように曲がりくねっており、時々とんでもない遠心力で振り落としにかかってくる。その度に、大きな木に衝突してしまうのではないか、という恐怖に襲われる。

「きゃー!いやー!」

 なんともスリリングなアトラクションだ。騎士の恐怖克服訓練に使えるのではないか?実物を見たわけではないが、私はそう思う。


「はーっ!面白かった!」

 愛子はお腹を抱えて笑いながら、遅れて帰ってきた魁を迎えた。

「いやー、久しぶりだ。こういうのに乗ったのは」

 魁はアトラクションの方を振り返りながら、しみじみと言っていた。次の乗客が、きゃーきゃー言いながら森の中を通り抜けていった。

「いいもんだな、たまには」


「むー……センパイ、どっちだと思います?」

「うーん……俺は右、かな……」

「私は左です」

 二人は分かれ道でうんうん唸っていた。周囲を木組みの壁で囲まれたここは、五階層に及ぶ巨大迷路だ。なんと、隠し扉まである充実ぶりだ。ここに来るまで、二階層をクリアーしてきたのだ。

 お互いの意見が違った場合の解決策は、いつも同じだった。

「じゃあ……」

「よし!」

「「じゃーん、けーん――」」


「う、うわわわわ!センパイ、前に進まないです!」

 ライフジャケットを着た愛子は、オールを水面に突き刺し、必死に抵抗を試みた。するとなんだ、その場でカヤックが90度回転してしまったではないか。

「はっはっは!よし、任せろ!」

 前の座席に座っていた魁が、ほら貝のように大きな声で笑った。それだけで十二分に素敵なのに、魁は力強くオールを回し、たった一人でカヤックをまっすぐに立て直してしまった。

「いくぞ!夢見!」

「わっ、お願いします!」

 学ランを脱ぎ、カッターシャツをまくり上げているため、魁の二の腕が白日の下にさらされている。たくましい筋肉を惜しげもなく使い、愛子と魁のカヤックは爆速で運河を進む。


「いやあ、暑い暑い」

「お疲れ様でした、センパイ」

 愛子は園内マップをうちわ代わりにして、湯気立ち上る魁の顔を扇いでいた。

 彼はベンチの背もたれに全体重をあずけ、さんさんと輝く太陽を仰いでいた。

 いくら三月といえども、こうもアクティブなアトラクションばかり続けていたら、暑くてかなわないだろう。愛子のコートと魁の学ランは役目を一時はく奪され、ベンチの背もたれに乱雑にかけられている。

 愛子の趣味嗜好がいささか小学生男児じみていると思われるだろうが、おそらくこれは、幼いころに姉や親とあまり遊べなかった故の反動だと推察される。ペダルで進む白鳥のボートや、親子一緒に参加するアスレチック教室など、愛子が幼少期にやり残したことは多々あるはずだ。もっとも、アクティブな趣味を持つ淑女も多くいらっしゃるので、これは私の偏見なのかもしれないがね。

 いずれにせよ、愛子はアトラクションを大いに楽しみ、心地の良い空腹感に見舞われていた。

 それは魁も同じようで、背もたれから起き上がった後、彼は自分の腹を何度もさすった。

「いやー、お腹すいたな、ちょうどお昼だし、なにか食べに行こうか」

「あっはい、えっと」

 愛子は背もたれのコートに手をつっこみ、魁から預かっている園内マップを取り出した。そこには、園内に散らばるレストランも記されているのだ。

「色々ありますね……」

「んー、そうだな、夢見は何が食べたい?」

 一つしかない園内マップを覗き込むため、魁の顔が急接近してきた。爽やかなシトラス系の制汗剤の匂いが鼻を突き、愛子は思わず顔を上げ、早口でまくし立ててしまった。

「えっ?私ですか?いえ、あっじゃあ、午前中は全部私のわがままだったし、ごはんはセンパイの食べたいものでいいですよ!順番です!」

 もう少しで、鼻と鼻がぶつかってしまうところだった。ドキドキが止まらない。何が匂いは女の武器だ。愛子は口の中で富田嬢を呪った。その逆だって、恐ろしい破壊力を秘めているではないか。

「お互い遠慮してたら決まらないもんな、よし」

 魁は不思議そうに首をかしげていたが、深く追及してくることはなかった。




「うーん、なんていうか、落ちてきたら、怖いよなぁ」

 冗談では済まないことをサラリと言いながら、魁が空を見上げている。

「迫力ありますね」

 園内マップで太陽の光を遮りながら、愛子も同じようにしている。

 彼女らはハウステンボスのシンボルタワー、ドムトールンへとつながるアーチ橋の上にいた。

ドムトールンとは、高さが105メートルもある建物で、大きな直方体を二つ重ねた上に、教会や城のように尖った頂上部分が堂々と座している。細長い窓や十字架のような装飾が施されているなど、日本建築ではまず見ることのできない荘厳さがあり、園内どこからでもその姿を見ることができる。

 愛子たちはアーチ橋を渡り、ドムトールンの足下まで来た。真下から見ると、その巨大さにさらに圧倒される。魁が言葉にしていたが、たしかに倒れてきたらただ事ではすまない。ちっぽけな人間などぺしゃんこになってしまうだろう。

「あそこの一階でレモンステーキ食べられるらしい。行ってみよう」

 魁はドムトールンの入り口、愛子たちから見て右手にある店を指さした。そこはレストランになっており、どうやら、ステーキとハンバーグの店のようだった。




 あー、ほんと、ホントにホント、マジないわー。

 ラマカンテにオーディオコメンタリーがついていたならば、きっと彼女はそう言っただろう。抑揚のない声で、ひどく無機質に、無感情に。

 それもそのはず、レストランに入った愛子と魁を、珍客中の珍客が待ち構えていたのだ。

 そやつは店の中央のテーブルを四つも占拠し、なぜ四つもテーブルが必要なのかと言うと、四つ中三つのテーブルに、空になったステーキの鉄板が山のように積まれており、残りの一つにも今まさに累々と積み上げられている最中で、その原因が何かと探れば、残された僅かなスペースで、バルト・シルヴェスタキが貪るようにステーキを食っていたのだ。彼はまさに二週間ぶりの食事にありついた遭難者、主人の落胆などどこ吹く風、行儀など二の次三の次、いつものクールな佇まいはなりをひそめ、頬をソースでベトベトにし、手を油でテカテカに光らせていた。

 愛子と魁、二人の高校生は入り口を入ったところで完全に固まってしまい、掃除機の如く肉を丸呑みにしていく自称執事を、死んだ魚のような目で見つめていた。

 と――、こちらの視線に気付いたのか、バルトが手(と口)を止め、ハッと顔を上げた。

 大きな背中を小さくちいさく丸め、口の端からステーキをボロン、と垂らし、両手にフォークとナイフを握ったまま、じっとこちらを見つめていた。真っ黒な瞳がつぶらな光を宿しているのが、愛子にはもはや嫌がらせのように感じられた。

 店にいる客全員がチラチラ見ていたし、店員は皆青ざめた顔で給仕を行っていた。

 その、冷たい視線全てをなかったことにして、バルトは麺でもすするかのように、ちゅるん、とステーキを吸い込んだ。

「なぁんでここにいるの!?」

 愛子の我慢が決壊した。

昨日(さくじつ)お嬢様を追いかけ――いえ、休暇先へ移動するため、莫大なエネルギーを消費してしまいました。これはその補給です」

 愛子が騎士も真っ青の瞬間移動で机をぶっ叩き、机上の鉄板を倒壊寸前まで追い込んだのに、バルトは何食わぬ顔で食事を終え、ナプキンで口元を拭き始めた。

「〝追いかけた〟って言っちゃってるし!ていうか、普通にしてたらそんなに疲れないよね!ねえ!」

「いえ、同じ車両内にいれば、尾行がバレてしまう恐れがありました。ですので、新幹線の外壁に張り付き、特急の連結部にぶら下がり、最後はバスの死角に隠れて走って追跡しました」

「もうヤダ意味わかんない……」

 普通がいいのに、普通でいいのに。バスと同じ速度で走ったということだろうか。そんなことを公の場で言わないで欲しい。恥ずかしさとかを超越した何かが、背中をゾワリと撫でている。愛子は手近な椅子の背に両手をかけ、その場でうずくまった。

「まさか……今日もつけてないよね」

 顔だけを上げてみると、バルトの整った横顔が目に入る。彼はいつもの調子で淡々と答える。

「はい」

 信じられねえ。

 愛子は心の底からそう思った。

「今日の午前中何してたの」

「森の中で森林浴を嗜んだ後、木でできた城を見物し、運河のほとりで風に当たっておりました」

「それをつけてるって言うの!」

 愛子の怒りが再び決壊した。もう修復不能だ。

「あー!もー!なんでどっか行ってくれないの?なんで一人にしてくれないの?一日くらい、静かにさせてよ!今日だって、私――」

「ゆ、夢見……?彼は……来てないんじゃ、なかったのか?」

「あっ!センパイ!ちょっと待っててください、ちょっと!すぐに済みますから!」

 愛子は魁に全力の笑顔を見せ、バルトの方へ振り返った。絶対に魁には聞かせまいと、最大限の小声で怒鳴った。

「いい!?私、今日センパイとデートなの!カナメとか、富田さんまで気をつかってくれてるの!ほんっとーに、余計なことしないで!お願いだから!」

「なるほど、承知いたしました」

「わかったら、大人しく――」

「では、何かお困りごとがございましたらお呼びください。必ず助けに参ります」

「そうじゃなくて――えっ?」

 愛子の怒りが三度決か――おや?二度と止まらぬと思っていた憤怒の濁流が、神のごとき力によって一瞬で蒸発した。愛子は当初、聞き間違いかと思ったほどだ。

「今――なんて言った?」

「私はしばらく距離をとっておきますので、お困りごとがございましたらお呼びください。必ず助けに参ります」

 いや、呼ばんけど。

 と言いそうになったが、願ってもない答えだ。そこはグッとこらえる愛子だった。

「あ、ありがと……」

 少々肩透かし感は否めないが、執事はどうやら、本気で言っているようだった。愛子は突然、店員と客の注目の的になっていることを思い出してしまい、右耳の後ろをカリカリとなぞった。

「あ、あのー、お客様……お連れ様でしょうか?」

「いえ」

 近づいてきた店員にやや辛らつな物言いで答え、バルトは立ち上がる。

「私は休暇中ですので、一人です。お構いなく」

 鉄板の中から伝票を救出し、バルトは店を後にした。余談だが、バルトが手にした伝票には、愛子が今まで見たことのない桁数が記されていた。

 店の中にいた店員が一斉にため息をつくのを、愛子は称賛をもって聞いた。




 さて、諸君らは既におわかりのことと思うが、この男が素直に引き下がるはずなどなかった。

 彼はすれ違いざま、愛子のコートのポケットにボタンサイズの発信機兼盗聴器を滑り込ませ、(あるじ)のいるレストランから、道を挟んで反対側にある別のレストランへと入った。そこでデザートを注文し、コートの内ポケットからスマートフォンのような機械を取り出すと、そこにイヤホンをつなげ、二人の会話内容を盗聴し始めた(スマホの画面には、愛子の位置情報まで表示されていた)。もちろん、機械の右目は店の壁に向けられていた。

〔なんだ、やっぱり彼、来てたんじゃないか〕

〔あー、うー、いいんです、もう〕

〔いいっていうのは?〕

〔邪魔しないで……じゃなくて、バルト、ホントは今日お休みなんです。だから、私のことは気にしないで、遊んできていいよって〕

〔なるほど……〕

 常人には、大量のスイーツを注文し、壁を睨みつけるヤバい客に見えていただろう(そもそも、あまりにも大量に頼みすぎたため、本来細長いプレートにミニケーキが三つほど乗っている商品だったのに、大皿に山盛りになって出されていた)。

 しかし、彼の右目には、隣のレストランの中がはっきりと見えていた。魁との会話が進むにつれ、(あるじ)の顔が大層嬉しそうにほころんでいく様子や、どうにも疑心を拭えぬ獅童魁が、人の好さそうな笑顔でそれに応じている瞬間が。


「あ、これ、どうですか?」

「食べられちゃうぞ、夢見」

 トリックアートが数多く展示されたスペースで、魁がクスクス笑っている。飛び出して見えるティラノサウルスの顎の間に、愛子が頭をつっこんでいるのだ。

 バルトは壁一つ隔てたところから見守っている。

「わ、これとか!」

「俺が奥に行こうか?」

 今度は奥行きを利用したトリックアートだ。手前にいた人が巨人のように見え、奥に行った人が小人のように見える部屋だ。

「あー、でも、これじゃ俺達、どうなってるのか見えないな」

「たしかに!誰かに写真撮って欲しいですね!」

 二人は楽しそうに笑っていた。

 バルトは壁越しに二人を見ながら、右目をしばたかせた。カシャリと乾いた音がした。バルトの手元のスマートフォンに、はしゃいでいる二人の姿が転送されていた。


 その後もバルトの極秘の追跡劇は続いた。

 二人がベンチに腰掛けてアイスを食べている様子を、定期運行している馬車の上からこっそり見たり――800トンの水を用い、オランダに伝わる伝説を再現したアトラクションでは、部屋が暗くなるのをいいことに、彼女らの真後ろの席に座り、愛子に水がかかりそうになる度に高速でミリオンセラーを振り回し、風圧ですべて弾き飛ばし――巨大なロボット(著作権の関係で名は明かせぬ)を彼女がぽかんと見上げている間、魁がよからぬことをせぬか、近くの佐世保バーガーショップに並びながら監視し――色とりどりの傘で空を埋め尽くした通りでは、インスタ用の写真を撮ることしか考えていない愚か者が愛子にぶつかりそうだったので、事前に自らが壁になり、代わりに体当たりを受けた。

「あれ、バルチぃじゃね?」

 ちなみにこの時、かすかに聞こえる程度だが、右耳が汐崎嬢の声をとらえた。間髪入れずに声の方へ右目を向けると、約100m先、通りの入り口付近に、汐崎嬢と富田嬢の姿を認めた。バルトは、彼女達が目の錯覚だったと思い込むほど素早く動き、その場から離脱した。




「お客さーん!危ないから、そこから降りてくださーい!」

 警備員の大声を、バルトは素知らぬ顔で聞き流していた。

 アイスのコーンを逆さにしたような屋根が連なった、教会然とした建物。この中には数々のガラス細工が展示されており、宝石と見紛うほどの幻想的な作品群を見ることができる。赤や青、緑に染まったガラスは、どのようにしてその色を出したのか、興味を引いてやまない。ただ――展示品の中には世界最大級のシャンデリアも含まれており、それほど大きいものを飾る広間も、それはそれは開放的な作りになっている。つまるところ、身を隠す場所がないのだ。

「ちょっとー!降りなさいってー!」

 だからバルトは、屋根の傾斜が一番きついところに張り付いて、内部を透視しているのだ。ここなら、しばらく誰も近づけない。

 途中、愛子がまさに教会の内装を再現した部屋に迷い込むところが見えた。キリスト教でない諸兄姉にあっても、結婚式場で見たことがあるだろう。ステンドグラスがあり、神父様が使う聖書台があり、参列者が座る木製のベンチが並んだ部屋を。愛し合う二人が、永遠を誓う場所を。

 ハウステンボスにあるそれは、照明をあえて減らしてあり、厳かな雰囲気を醸し出していた。おてんばな愛子が、借りてきた猫のように黙りこくるほどだった。


 執事に監視されていることなど露知らず、愛子は教会のステンドグラスに心奪われていた。

 それは縦に細長い形をしていて、赤、青、黄、緑、四色のガラスが使われていた。真ん中にある赤い花がひときわ綺麗で、力強くて、彼女の視線を釘付けにした。

 ステンドグラスの向こうからは光がさしていて、薄暗い教会の中、自分だけを照らしてくれていた。まるで、自分がこの教会の主役になって、祝福されているかのようだった。

 振り返ると、参列者のいないベンチが連なっているのが見える。真ん中には、おあつらえ向きの通路まで用意されている。

 あとは――教会の隅、ガラス細工を見入っている、学ラン姿の背中――そう、あとは。

 喉の奥に灼熱の太陽が誕生した。熱くて、苦しくて、彼女はむせかえりそうになった。思わず自分の首を絞めた。行き場を失った熱は彼女の中へと落ちて行き、血管を通って全身を巡った。今にも体中が燃え上がりそうだった。

「うー……!もー……!」

 こんな状態の中、魁に振り向かれでもしたら、間違いなく爆発してしまう。彼女はその場でじたばたして、なんとか熱を逃がそうと試みた。


 教会の屋根で、バルトは顔をしかめていた。




 外に出ると、すでに空は夜に包まれていた。振り返ると、建物全体が青と白のイルミネーションに彩られ、光り輝くクリスタルの城に見えた。傍らに立つ大きなツリー(なんと、高さが教会とほとんど変わらぬ)も、雪をかぶったように青白く光っている。奥の方にはオレンジに光るドムトールンも見え、コントラストが美しい。

 辺りを見渡してみると、オランダの街並み全てがイルミネーションで飾られていた。園内マップによると、これが冬の恒例行事だそうだ。欧風だった景色が、幻想的で、神秘的な世界に変わっている。夢の中に迷い込んだような錯覚まで覚える。

「素敵……」

 愛子の口からは、自然と言葉が漏れていた。




 二人は入国ゲート近くへ戻ってきた。ここまでの間、七色に光る運河や、建物の屋上から流れ落ちる光の滝、その先に広がる光の海などを通ってきた。

 ゲート近くの花畑も同様で、花々の間を埋め尽くす電球たちが、ピンク、青、緑、黄色、オレンジ……と、色の帯を作り、順番に光っては点滅を繰り返していた。光のさざ波をうっとりと見つめる恋人や、光を追いかけて走り出す小さな子供、それを見守っている両親……幸せそうな表情がいくつも浮かび上がっては消え、浮かび上がっては消えた。

 花と風車の隙間からは大きな運河が――真っ暗なので、水面に反射する光でなんとかわかる程度だが――見える。

「もうちょっとだな」

 スマートフォンを光らせ、魁がつぶやいた。


 金の懐中時計を取り出し、バルトも確認していた。人でごった返しているため、わざわざ身を隠す必要がないのだ。二人から500メートルほど離れた位置で、その一挙手一投足に注目していた。


「楽しみですね」

 愛子が開いた園内マップには、イベントの開催場所、時間がかかれている。


 無論、バルトほどの騎士になれば、ハウステンボスの全行事を頭の中に叩きこむなど朝飯前だ。彼によれば、このフラワーロードでは、〝日本最大全長85mの光の噴水ショー〟という謳い文句の〝Water magic〟が始まるのだそうだ。風車から見える運河の中に、水を発射する装置が幾重にも張り巡らされており、空高く打ち上げた水柱を様々な色で照らす他、そこにエル・クンバンチェロという曲が乗せられる、水と光のショーだ。詳しすぎだ。

 彼は人ごみの動きにも注視しながら、要人を警護するSPよろしく、左耳のイヤホンに手を当てた。


 愛子は両手を顔の前に持ってきて、さくらんぼ色の唇を開いた。夜になればまだ冷える。吐く息は白い。

「寒いか……?」

 魁が隣にやってきて、柔らかく笑った。

「えへ……ちょっぴり……」

 はにかもうとした愛子だったが、びっくりして心臓が止まるかと思った。

 光り輝く花畑の真ん中で、獅童魁に左手を握られているという事実に気付いたのは、それから三十秒も立ってからだった。


 なお、バルトに言わせれば、ものの三秒ほどで彼女は青ざめたらしい。


 愛子は悲鳴を飲み込み、反射的に魁の手を力いっぱい握りしめてしまった。慌てて振りほどこうかと考えたが、愛子がどれだけ力を込めても、魁の右手はビクともしない。

 男性の手というものが、岩のように硬くてゴツゴツしたものだと、愛子はこの時初めて知った。

「しえ、せんぱい……」

 口がわなわなと震え、言葉にならない。自分の頬から湯気が出ているのが、嫌でもわかってしまう。足元から寒気と熱気が一緒くたになって昇ってきて、絶対零度の中で体感温度が39度もあるという、摩訶不思議な体験が始まった。

 え、マジ?

 脳みそが考える力を失ってしまい、彼女の頭の中にはそれ以外の言葉が一切浮かんでこなかった。カチコチに固まってしまい、なんなら、さっきから呼吸もしていない気がする。いや、呼吸をするなんてもったいない。今は全神経を左手に集中させなければならない。周りのイルミネーションなど、見ている場合ではないのだ。あぁ、魁の右手は火にくべた石のように熱い。いや、これは自分の左手が発熱しているのだろうか?なんと恥ずかしい。いや、やっぱり恥ずかしい。恥ずかしくて――


〔死んじゃうよぅ……〕

 主の歓喜のつぶやきを、バルトはイヤホン越しに聞いていた。おそらく、魁には聞こえなかったことだろう。

 それ以上見続けるのは失礼だと判断するだけの分別を彼は持っていたので、ここで一旦、目をそらすことにした。


「嫌だったか?」

 太眉を心配そうにひそめて、魁がこちらを覗き込んでくる。

 言葉を失った愛子は、目と口をきつく結び、首をありったけ振り回した。魁は安心したように微笑んだ。

「夢見がいつも頑張ってるのを見てきた。他のマネージャーが嫌がる仕事も、一人で引き受けて……一緒にボトルを洗った時に思ったんだ。あぁ、この人だけが、サッカー部のために働いてくれてるんだ、って。この遠征で勝てたのも、夢見のサポートがあってこそだと、俺は思ってる」

「そ、そんな……」

 愛子は信じられない思いで魁を見上げた。向こうも、こちらを見た。

「これからも、サッカー部のために……いや、それは言い訳だな。夢見――俺の一番近くで、見守っていて欲しい」

 大きな黒い瞳の奥に、あたりのイルミネーションがキラキラと反射していた。吸い込まれるほど魅力的だった。いや、実際に吸い込まれていたのかもしれない。それとも、いざなわれたのか。

 魁の大きな左手が、自分の頬に添えられるのを、愛子は運命(さだめ)のように受け入れた。少しだけ背伸びして、さくらんぼ色の唇を物欲しそうに尖らせて、左手は、魁の右手を固く握ったままで。

 自分の全てを、彼にゆだねる覚悟だった。

 自分の全てで、彼に尽くすつもりだった。

 彼になら、全てを支配されてもいいと思った。

「楽しんでるじゃないかぁ」

 老いぼれた声帯から、無理やり絞り出したような声だった。

 突然に話しかけられ、愛子は突き飛ばすようにして魁から離れた。雰囲気とムードに流されて――いや、それ自体は最高によかったのだが――ここが人ごみの真っただ中だということを完全に忘れていた。幸せの絶頂の余韻で、脳みそがスポンジケーキのようにふわふわしていた。

「いやはや、若さとは素晴らしィ――」

 そこにいたのは老人だった。革製の手袋をして、漆の塗られた杖を突き、年季の入った中折れハットをかぶり、腰元をきつく縛ったコートで全身をくるみ、真っ黒な運河の水面を一人見つめていた。その背中に、どす黒くて重たい何かが張り付いていることに、愛子は気付いてしまった。

「す、すいませんでした……ごめん、夢見――」

 魁は当初、老人から愛子を隠すように体を傾けた。しかし、愛子が老人を凝視していることに気付くと、同じように、老人を見つめ始めた。

 遠くの方から、軽やかな太鼓の音が聞こえてくる。胃の奥をくすぐられるようなリズムだ。音はだんだんと近づいてきて、他の打楽器の音が交じっていき、そして、とびきり大きな笛の音の後、力強いトランペットの音と共に、水面から色とりどりの水が吹きあがった。

 わっと広がる歓声と、スマホの録画ボタンを押す音、そして、疾走感溢れるエル・クンバンチェロの旋律――周囲は音と光で埋め尽くされているのに、その一切が頭に入ってこない。まるで老人が――ただの老人のはずなのに――周囲の世界と愛子たちとを、永遠に断ち切ってしまったかのようだ。

「そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ、夢見愛子さん。いや、こうお呼びした方がいいかな?――」

 老人はハットを抑えると、老齢さを感じさせぬ軽やかさで回転した。杖など必要ないということが、その瞬間にわかった。

 それともう一つ。老人は、顎先にだけ白髭をたくわえていた。

「――神代(・・)愛子さん」

「危ない!」

 魁に抱きしめられ、愛子はそのまま後ろ向きに倒れこんだ。両手でかばってくれなかったら、後頭部を地面にぶつけていただろう。

「ぐっ……大丈夫か!夢見――」

 何が起きたのか、愛子にはわからなかった。視界は魁の分厚い胸板で覆いつくされている。天が落ちてきたかのような圧迫感がある。その脇の下から、見える。

 老人が両手で杖を握りしめている。革製の手袋がミシミシと鳴ったかと思うと、その背後に、黒い円が現れる。

 愛子は以前、これによく似たものを見ている。住宅街で悪魔に襲われた時だ。きゃつが、真っ黒な小刀を取り出すために空間を裂いた時だ。

 しかし、あの時の裂け目は、こんなに綺麗な円形をしていなかった。大きさも、せいぜい愛子の頭くらいだった。それがどうした、老人の背後にある謎の大穴は、どんどんどんどん大きくなっていく。老人を飲み込むのではないかというくらい、巨大に膨れ上がっていく。

「マズいぞ……この前のと同じやつだ!」

 その言葉で、愛子は我に返った。魁が何を言わんとしているか、瞬時に理解した。あれは、愛子たち普通の人間では、決してかなわぬ相手、この世の(ことわり)から離れた存在だ。

「悪魔……!」

「夢見!逃げるぞ!」

 愛子は大きな手を掴んだ。力強い引力で立ち上がることができ、そのまま走り出すこともできた。その直後、暗黒の穴からどす黒い巨腕が飛び出し、さっきまで愛子がいた地面をうがった。腕は愛子の身長より長く、胴ほどの太さがあり、表面にミミズが這ったような紋様が刻まれていた。腕が鎌首をもたげた時、現れた地面は砕け、陥没していた。


 バルト・シルヴェスタキは爆発的な加速を見せた。魁が愛子を押し倒した時にはあと100mの位置まで詰めていたし、二人が走り出したわずか1秒後には現場にたどりついた。

 誤算だったのは、自分が悪魔を見つけられぬことだった。だが、『この前と同じやつ』と言うからには、確実にいるはずなのだ。愛子が否定しなかったことからも、その存在が裏付けられる。

 以上のことを走っている間に結論付け、バルトは二人を追いかけるという選択に打って出た。もはや(あるじ)の言いつけを守ってなどいられぬ。すぐさま合流し、身の安全を確保しなくてはならない。

「くっ……お嬢様――」

 そう思って、一歩を踏み出そうとした瞬間――


 不穏な風と、絶望がよぎった。


 それはもはや、気のせいではなかった。

「この距離まで近づかないとわからないのかね、MaSeenくん?」

 バルトは左袖のリベルタを目にも止まらぬ速さで取り出し、振り向きざまに構えた。

 銃口の先には、一人の老人がいた。

 こめかみに銃を突きつけているというのに、老人は全く意に介することなく、噴水の描くウェーブを見つめていた。

「美しいものだ……恋する乙女の、横顔というものはぁ……」

 老人はくっくっ、と、トゲの引っかかったような笑みを漏らし、仰々しくハットをとった。

 バルトの無表情の中に、激しい嫌悪と怒りが刻まれた。

 氷の湖の、その向こう。

 ダークフォールと、そやつは呼ばれる。

 バルトから、右目も、(あるじ)も、生きる意味さえも奪った悪魔。

「彼女の姉も、そうだったろう?」

 ヴァン・エル・シルヴァが、そこにいた。

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