第一章 地獄の門
人には魂の入れ物がある。
もちろん、そういった類の内臓器官があるわけではない。
レントゲンでも、CTスキャンでも見ることはできない。
だが、確かに存在する。
バルト・シルヴェスタキ
真っ白な大地を駆けていた。
真冬でないのが唯一の救いか。そうでなければ、この地は氷点下60度を下回る。両手に握る剣なぞ、当の昔に掌と一体化していただろう。
「はあ……はあ……お嬢様!」
氷でできた針葉樹の森を抜け、凍った湖の上へ出る。数メートル先を、主が走っている。亜麻色の髪が陽の光を反射し、雪の結晶をきらめかせる。
鳥が絶命する時のような叫喚が、方々から迫ってくる。湖の上でバルトは振り返る。針葉樹たちの隙間から、地を這うゴキブリの大群のように、真っ黒な塊が次々と這い出てくる。森を飛び越え、雨あられのように降ってくる。バルトは再び加速する。
日の当たる氷の盆に乗ることで、追跡者の姿がはっきりと見える。きゃつらの影は無限を数え、その全てが、頭部に小さな二本の角を生やし、背中にコウモリのような翼をもっている。
諸君らには決して見ることのかなわぬ存在――悪魔だ。
「バルト――」
淡い、翡翠の瞳がこちらをとらえる。バルトは叫ぶ。
「お嬢様、お早く!」
そう叫んだ時、主の顔に、真っ黒な手が伸びていることに気付く。二人は既に、大量の悪魔に囲まれている。視界をびっちりと埋め尽くす、悪魔の大群に。
「くっ……!」
バルトは両膝を屈折させ、雪の粉を舞わせながら飛び上がる。空中にいる悪魔を蹴り、また別の悪魔に飛び移る。その度に剣の引き金を引き、悪魔の頭部を撃ち抜いて行く。こちらに飛びかかって来る悪魔は、鋭い一閃で切り落とす。斜めに着地し、天然のスケートリンクで横滑りしながら、悪魔たちの足を叩き切っていく。
どれだけ切ったろうか、どれほど撃ったろうか、悪魔の数は一向に減らない。それどころか、視界の外から次々にやってくる。空間を埋め尽くし、占拠し、圧迫するほどの量に膨れ上がっている。
とげとげしい翼や、ぬめりとした体表の狭間から、一瞬だけ主の姿が見える。胸の前で両手を握りしめ、懸命に祈りを紡いでいる。祈りによってできた目に見えぬ障壁が、悪魔の進入を防いでいる。
だが、それも完ぺきではない。大きな球形だった障壁は徐々にその直径を縮めていき、あちこちにひずみができていく。悪魔たちは我先に飛びつき、ひっかき、噛みつき、蹴りつける。かぎ爪のついた何十本という手が、障壁の中に差し込まれていく。
バルトは両手を無我夢中で振り回した。右肩にかぶりつかれ、左足を槍で刺されてなお、前進を続けた。ミリオンセラーの一撃で、自らと主の間に巣くう悪魔をなぎ払った。その衝撃は凍った湖の表面に十数メートルの巨大な亀裂を入れ、遠く針葉樹の森を震わし、枝に積もった雪を全て地に落とした。バルトの周囲にいた悪魔は跡形もなく消え去った。さながら、真っ黒に染まった大地に、真っ白な隕石が落ちたようだった。
「ぜっ……はあっ……お嬢様――」
最後に見た主の姿を、彼は今でも夢に見るという。たとえそれが、脇腹を食い破られた痛々しい姿であっても、唇の端から血を流した頼りない笑顔であったとしても。それこそが、彼の人生において最も尊く、最も美しい御姿だったからだ。感謝と信頼の念に満ちた翡翠の瞳を、いかにして忘れられようか。
生き残った悪魔たちが、さかりのついた鳥のようにわめきながら、雪崩のごとく押し寄せてくる。バルトは両手の剣を握りなおし、近づいて来る悪魔たちの頭を寸分たがわず撃ち抜いていく。それは終焉の到来をほんの少し押しとどめる結果をもたらしたが、圧倒的な物量差には敵わない。死体を乗り越え、あるいは引きちぎり、きゃつらは次々にやって来る。
視界が真っ黒に埋めつくされる寸前、黒き壁の向こう側に、こちらを狙っている銃口を見た。
そやつは湖の対岸で、拳銃のようなものを構えていた。奇妙なことに、悪魔ではなく、人間然とした姿をしていた。遠くからでもはっきりとわかる白髪に、顎先だけ生やした真っ白な髭、この時は白黒の迷彩服で、ファーのついたブルゾンを羽織っていた。
次の瞬間、バルトは右目に強烈な痛みを感じた。対岸の爺がニヤリと笑った、そう思った直後だった。視界が半分、閉ざされていた。
刹那の熱線と衝撃の後、バルトはありとあらゆる感覚を失った。世界から音が消え、光が消え、確かだった感覚が、両手から零れ落ちる水のように消えていった。
群がる悪魔の下に主が消えていく。
彼の生きる意味はここで無くなる。
見届けることさえ、許されず。