三月の婚儀
元宵節で二人の結びつきの深さを知った敬徳であったが、青蘭を想う心は止められず、思い出の玉を取り出すのであった。
一月の下旬、衛将軍、斛律光|が、北軍騎兵一万を率いて絳州に出陣した。高敬徳は、右衛将軍として右衛を指揮した。
紀元五五六年の始め、斛律光将軍は絳州の三城を陥落させたが、次の年(紀元五五七年)の末には、北周の将軍曹迴公が、汾水ぞいの汾州から南の絳州に進出してきた。そして白馬城や翼城を窺う勢いを示していたのである。
当時、斛律光は、中原で最強を誇っていた。この年斛律衛将軍は、一月の末に北軍の騎兵一万騎を率いて翼城に至った。そして、右衛将軍である高敬徳は、幕僚の一人としてその戦塵の中にあった。
二月に入ると、斛律光の北軍は汾州に軍を進め、さらに汾水を渡った。そして、二月の半ばには、曹迴公の軍を絳川に追い詰めて苛烈な攻撃をしていた。
★ ★
二月の下弦の月が、絳川の東の空に掛っている。
夕餉を終えた敬徳は、深い溜息をつくと幕舎の榻牀に座り込んだ。曹迴公の軍への総攻撃が明日にせまっている。一か月に及ぶ戦闘が、敬徳の身体に拭いがたい疲労を蓄積させていた。
敬徳は酒瓶を取り上げると、酒を注ぎ強い酒を、一気に喉に流し込んだ。いつもは冷静な敬徳の理性に、酒気がじわじわと染み込んでいく。
敬徳は、懐から梅花の玉珮を取り出し灯火にかざすと、白い玉が滑らかに輝いている。敬徳は、元宵節の夜のことを思い出しながら玉佩を撫でた。
青州刺史を退任し侍中として都に戻った敬徳にとって久しぶりの鄴都の元宵節であった。
高帰彦への敵討ちを誓ってから、婚姻を諦めていた敬徳であった。ところが、子靖と知り合うにつれ、かつて破談となった王青蘭との婚姻を望むようになったのである。
しかし、紹介された長恭の許嫁は、自分が婚姻を望む王琳の娘青蘭であったのだ。
二人の仲睦まじい姿を垣間見た敬徳は、隠していたことを責めることにより、青蘭との友情が失われることを恐れた。そして、二人の婚姻を祝福さえしたのだ。
婚儀間近い長恭と青蘭を誘い灯籠見物に出かけたのは、青蘭への未練であった。
敬徳は、白玉を両手で握った。迷面の賞品の代わりに三人で分けた玉珮である。一つは長恭にそして、もう一つは青蘭の手元にあるに違いない。
長恭は、王琳を斉につなぎ止めるために、婁皇太后の命によりいやいや王琳の息女を押しつけられたという巷間の噂もあった。
しかし、間近で接してみると、二人の仲睦まじさに嫉妬を覚えるほどであった。長恭は、心を通わせている最も愛する女人を娶ろうとしているのだ。
元宵節は、幼少の頃より長恭と毎年出掛けていた祭事である。
しかし、二人に会う段になってみると、素面では平静を保つことができず。喬香楼で酒を痛飲してしまったのあった。青蘭に、敬徳は妓楼に入り浸る男子と思われてしまったであろうか。我を忘れて、青蘭の肩に触れてしまったのは、酒のなせる技である。
長恭とは幼少のころより弟のように接してきた。高岳という功臣を父に持つ敬徳は、決して皇子である長恭に羨望を感じることはなかった。しかし、学友として共に学んできた青蘭を想い人にし、娶ることができる長恭を心底羨ましいと思ったのである。
この屈辱感を払拭するために、敬徳は明日の総攻撃での武功を誓った。
★ ★
長恭は、婁皇太后から賜った屋敷の改修に奔走していた。この屋鋪は、父高澄が高一族の当主となり、婁氏が本邸に戻って以来、庶系の公主の屋敷としてしばらく使用される以外、ほとんど使われていなかったのである。
常日頃は質素倹約に努めている皇太后であったが、愛孫のために財物を惜しむことはなかった。多くの職人の手が入り、正殿や北殿、偏殿なども、真新しく改修された。
三月に婚儀を行うことが正式に決定した。それと同時に、長恭に儀同三司の加官が行われ、開国県公府の開府が認められた。
水温む二月になって、長恭と青蘭は新たに改築された屋敷を確認のために訪れた。
大門の前に馬車を止めると、門衛に導かれ長恭と青蘭は邸内に入った。
垂下門を入ると前庭の正面には立派な正殿が建ち、左右には回廊の後ろに簡素な偏殿が建ち並んでいる。本殿や偏殿の後ろにも幾列かの殿舎が建ち、決して小さい屋敷ではない。
正殿に続く北殿の北には、後苑が広がり蓮池と築山、そして四阿(東屋)などいくつかの瀟洒な舎殿が建っている。
正殿の堂房に入ると、真新しい檜の香りが立ち昇ってくる。窓を大きく取り薄絹を張っているためであろうか、堂房の中は明るい。左に行くと書房には広く壁一面に書架が設けられている。右には客人のための居房が広く取ってある。居房の奥に行くともう一つの広い生活の場の居房があり、その奥には卧内が設けてあった。すでにおもだった家具類は、据え付けられて仕切りの帳も張られていた。
宦官は長恭に拱手をして出ていった。
士大夫の屋敷の造りは、ある程度決まっている。居所には、まだ調度品は十分にそろってはいない。簡素であるが、暖かみのある造りである。
回廊を回って女主人の居所の北殿に行くと、家具などもなくがらんとしている。
「私の居所はどこかしら?几案や書架も必要だわ」
青蘭は、不満げに長恭を覗き込んだ。
「どうせ、一緒に正殿で暮らすのだ。正殿の居房を一緒に使おう」
「そんな、私の書冊と師兄の書冊の区別ができなくなります。それに、衣や簪など・・・」
長恭は、青蘭の両肩に手を置いた。
「家族は、いつも一緒にいるべきだろう。寝殿を別にする必要はない。私は、温かい本当の家族になりたいのだ」
長恭は『本当の家族』との言葉に帰ことを込めた。幼きころ父母と死別し、長恭は祖母に育てられたが、どれほどの孤独を抱えて生きてきたのであろう。長恭は青蘭を抱き寄せた。
「わかったわ。正殿の居房で一緒に暮らしましょう。でも書房は必要でしょう?」
青蘭は、長恭の胸から顔を上げると、笑顔を作った。
「でも、きっとみんなに陰口を言われるわ。けじめがないとか、師兄を独り占めしているとか」
青蘭が心配を口にして胸に頬を寄せると、長恭は、青蘭の耳に唇を寄せた。
「いや、むしろ・・・君の全ての夜を、独り占めしたいんだ」
指で青蘭を上向けにさせると、優しく唇をふさいだ。
★ ★
激烈な攻撃の末、斛律光は絳川を陥落させると指揮官の曹迴公を斬ったのである。
二月の半ば、斛律光はさらに西進した。斛律光は、佰谷城を陥れるだけに留まらず、その西の文侯鎮を占拠し近くに砦を築いた。ここでいう佰谷城は、洛水の南にある佰谷城とは違う周との国境の城である。
しかし、北周も黙っていなかった。柱国大将軍の達渓武が一万騎を率いて砦の建設を防いだ。北周との国境近くまで進出していた斛律光は、壁と砦の建設を諦めたが国境付近の守りを固めた。
絳川での支配を確かなものとした斛律光は、三月の初旬、輝かしい戦果を引っ提げて鄴城に凱旋した。
斉の皇宮、文昌殿で凱旋祝いの宴が行われていた。皇帝高洋の戦勝を寿ぐ褒詞の後、胡姫による胡舞が披露されると一機に無礼講の雰囲気になってきた。、斛律光以下各将軍たちは、戦塵の香りをまとって堂に居並び、注がれた酒を浴びるように飲んでいる。
「やあ、敬徳殿、聞きましたぞ、そなたの武勲」
侍中の高徳正が酒瓶を持って、敬徳の前に座った。
「さすが、鮮卑族の武人じゃ。戦働きこそ鮮卑族の誉れ。口が達者なだけの漢族とはわけが違う」
高徳正は、斉の朝廷で漢族の官吏が幅をきかせ、出世していくのを常日頃不満に思っていたのだ。
「まあ、そなたは文武両道。学問の方もたいしたもんだがな」
高徳正は、敬徳と自分の酒杯に酒を満たすと、豪快にあおった。
「そう言えば、そなたは出るのか?」
「はっ?」
徳正の言葉に、敬徳は酒を飲む手を止めた。
「明後日、長恭殿の婚姻の式があるのだろう」
長恭の婚姻の日取りを正確に知らなかった敬徳は、不意を打たれて狼狽した。屋敷には、既に招待の手簡が来ているに違いない。
「えっ?・・・もちろん祝いに行きます」
敬徳は、曖昧に笑うと酒杯に口を付けた。
『明後日が、・・・長恭と青蘭殿の婚姻の日だったのか』
その後、何人かが凱旋を祝って酒を注ぎに来たが、敬徳は上の空であった。緋色の花嫁衣装をまとった青蘭の姿が、瞼に浮かんでくる。敬徳にはすでに手が届かない女人なのだ。
敬徳は、乱暴に酒を満たすと三杯続けて飲んだ。
★ ★
鄭家の前には、紅絹を身に付けた楽人と花嫁・花婿を一目見ようと老若男女が集まってきている。紅絹で飾られた馬車に、花婿用の迎えの馬、囍の字を刺繡した巾を捧げ持った従人。その全てが、めでたい紅色で染められている。
青蘭が、|紅絹で飾り立てられた大門を出ると、緋色の花婿衣装に身を包んだ長恭が待ち受けていた。団扇で顔を隠した青蘭は、その晴れがましさにめまいを感じて思わず目を伏せて階を踏み外しそうになった。
「青蘭、大丈夫か?」
長恭は青蘭を支えて手を取ると、心配げに声を掛けた。緊張のせいか、それともいつもより厚い花嫁化粧のせいであろうか、団扇の隙間から見える青蘭は、気のせいか蒼ざめているようだ。
長恭の白い肌と清澄な瞳に、緋色の花婿衣装がよく似合っている。冠から垂らされた紅色の細い巾が、長恭をより妖艶に見せている。花婿の麗姿を見ようと、多くの人で鄭家の大門の前が埋めつくされている。
青蘭は、長恭に手を引かれて馬車に乗り込む。顔を隠す団扇、慣れない宝冠と長く裾を引く花嫁衣装が、青蘭の歩みを困難にした。長恭の逞しい腕に抱えられるようにして、青蘭はやっと馬車に乗り込んだ。
「もう少しの辛抱だ」
長恭が優しく言うと、青蘭もやっと笑みを漏らした。馬車の中の座に据わると、青蘭は昨日からのうんざりするほどの出来事を思い出した。就寝時の見張り、朝餉に沐浴、化粧に着替えそして、先祖と養父母、実母への挨拶。これから、まだまだ儀式が続くのだ。
花嫁の馬車は、前のすだれが上げられている。紅絹で華やかに飾られ、花嫁の姿が透けて見えるようになっている。絶世の美女であると噂の花嫁の姿を一目見ようとする好奇心一杯の人々の視線を感じて、青蘭は馬車の中で深い溜息をついた。
「青蘭様、出発致します」
窓の外に立つ介添え役の晴児が声を掛けて、ゆっくりと馬車が動き出した。宝冠から下がった金歩揺がシャラリと音を立てた。宣訓宮の侍衛と盛大な楽人隊に守られながら花嫁行列は、中庸門街から戚里へと進んでいった。
開国県公府は、柱や門など全てのところが紅絹や吉祥紋様の剪紙でめでたい飾りつけがされている。婚姻の式は、開国県公府の堂で行われた。祭壇を前に両側に高家、鄭家、王家の親族が立ちならんでいる。
控え室から養兄嫁である蔡炎に手を引かれて堂へ向うと、入り口で長恭が待っていた。
青蘭は手に団扇を持ち、士大夫の令嬢らしく顔を隠して静々と進んで扉の前に立った。
「青蘭、綺麗だよ。・・・斉で一番の花嫁だ」
長恭は団扇を押しのけて青蘭の顔を覗くと、満足げに微笑んだ。
「長恭様、婚姻前に花嫁をそんなにじろじろ見るものではありませんわ」
蔡炎は、むしろ花婿の美しさにどぎまぎしながら冗談めかして言った。
「待ちわびた花嫁姿だ。じっくり見ても罪にはならぬであろう」
青蘭は、義兄嫁の前なのに真顔でそんなことを言う。青蘭の健康的な美貌は、長恭のとなりに立つと途端に色あせることを青蘭は知っている。
「もう師兄ったら、冗談ばかり」
青蘭は恥ずかしくなって、団扇で長恭の胸を叩いた。
堂には入ると、両側には延宗や敬徳、前年に司空に昇進した段韶など婁皇太后の恩顧の家臣や友人、そして、日頃あまり交流のない長恭の兄弟達も参列している。婁皇太后の配慮であろうと思うと、感謝で胸が熱くなった。一族に祝福されてこそ、面目が施せるのである。
「天に、礼。再礼、三礼・・・・」
式は、祭壇の前で天に三礼、両親に三礼、そして互いに三礼をして滞りなく行われた。
その後、花嫁は、紅閨に引き上げる。そして花婿は堂や前庭での祝宴へ出席するのである。式には出席しなかったが、長恭の婚姻を知った顔氏門下の兄弟弟子達が大勢押しかけてきた。
前庭には、紅色の灯籠が下げられ、配された卓の周りには、婚儀の祝いに駆けつけた人々が酒を酌み交わしていた。
延宗は偏殿の柱にもたれながら、鄭家の門前の様子を思い出した。
延宗は、花嫁見物の群衆の中に質素な装いをした斛律蓉児を見付けて声を掛けたのである。
蓉児は、今にも泣きそうな顔で一心に兄の長恭を見詰めていた。幼き頃より妻になることを望んだ兄の花婿姿は、蓉児には残酷な姿であった。
「蓉児、なぜここに・・・」
すでに、花嫁行列は鄭家の門を離れて、馬車は小さくかすんで見えた。
「兄様の姿を見るまでは、・・・信じられなくて」
花顔をほころばせ、花嫁を支えた兄長恭の姿は、蓉児の目にどう映ったであろうか。
「兄上は、青蘭殿を娶った。蓉児、・・・もう諦めるのだ」
延宗が強く言うと、唇は強く結んだまま、蓉児の顔は歪んで大粒の涙が大きな瞳から流れた。
斛律将軍の息女が、皇位の望みもない庶出の皇族に嫁ぐはずもない。延宗は、深く溜息をついた。
「長恭が、王琳将軍の息女と婚姻するとはめでたい。これからは、手を携えて行こう」
長恭の長兄の河南王高瑜は、次兄の高珩にさけを勧めると、文襄帝六兄弟の政治的立場が強まったことをまず喜んだ。
「めでたい。しかしまず、一番最初に嫡兄の私に婚姻の報告をすべきじゃないか?」
三兄の河間王高孝琬は、父高澄の正嫡を自認しているせいか、報告が遅かったことに苦言を呈してきた。
孝琬は、父母どちらから言っても平陽公主の従姉に当たる。しかし、婁皇太后は、孝琬には中山王府の件を全く知らせていないようだ。確かに孝琬ば、平楊公主の無事を知れば今上帝に密告しかねない。
司空の段韶の相手をしていると、春の黄昏が訪れて空は星が輝きだしてきた。引きも切らない賓客に痺れを切らした長恭は、もてなしを家宰の石奢にまかせて、北殿に向おうとしていた。
「長恭、そんなに急がないで、・・・私の酒を受けてくれ」
背後から聞き覚えのある声がした。振り向くと、敬徳が藤色の外衣をまとい酒瓶を持って立っていた。
「戦場から、そなたの婚姻を祝いたくて駆けつけたよ。長恭、大願成就だな。・・・めでたい」
敬徳は、二つの酒杯に酒を満たすと長恭に差し出した。いつもは清雅な目が酒で潤んでいる。長恭が一杯目を受けると、敬徳は二杯目三杯目と、立て続けに勧めてくる。
新郎を、紅閨までたどり着かせないための悪戯である。
それまでの酒量と重なって長恭の足元がふらついたころ、延宗が好きな菓子をぱくつきながらやって来た。
「敬徳兄上、こたびの凱旋おめでとうございます。僕から一献奉げさせてください」
延宗は、強引に敬徳から酒瓶を奪い取ると、敬徳の盃に注いだ。
「従兄上、早く行ってください。青蘭が待っているのでは?」
延宗は、片目をつぶると笑顔で言った。
「延宗、恩に着る」
長恭は、緋色の婚礼衣装を翻すと、足早に北殿に向かった。
★ ★
北殿は、紅閨として赤い絹で飾り付けがされていた。特に榻牀には赤い絹の天蓋でおおい、赤い羅(うすぎぬ)の帳が掛けられている。
長恭が北殿に行くと青蘭は決まりの通り、榻牀に腰掛けて待っていた。
「やあ、青蘭遅くなってすまない」
長恭が、笑顔で紅閨に入っていくと、青蘭は口を尖らせた。
「私は、人形ではありません。もう身体が痛くなったわ」
紅閨への到着が遅いので痺れを切らせたのだ。
「師兄は、好きなだけ酒宴を楽しんでください。私は寝てしまいますから」
青蘭は、金の宝冠をシャラと言わせながら横を向いた。花婿は、最初だけ顔を出してすぐに紅閨に向うのが普通である。
「許してくれ。私は、両親もいない。自分で、もてなさなければならないのだ。それに紅閨に来るのを邪魔をする輩がいて・・・」
長恭が、汗をかきながら言い訳をして隣に座ると、青蘭が持っていた団扇を顔の前にかざした。
「青蘭、・・・怒ってる?」
長恭が、団扇をどけて青蘭の顔を覗いたとき、晴児が一対の銀の杯を盆に乗せて現れた。
「固めの杯事でございます」
そうだ、まだ婚儀は終わっていないのだ。
青蘭が酒杯を取ると、長恭が酒杯を持った腕を絡めてくる。結ばれた縁は、決して離れないという意味である。二人は腕を絡めたまま酒杯を干した。強く香りのよい酒が、熱く身体に染み渡った。
侍女の手を借りて、宝冠を外し緋色の外衣を脱ぐと、晴児たち侍女は下がって行った。蝋燭の燃える音が聞こえる。遠くの酒宴の喧噪が反って紅閨の静寂を強調する。
「じゃ、ねようか」
長恭が小声で言うと、青蘭の身体がびくっと震えて、青蘭が緊張したのが分かった。昨年の漳水河岸でのことが長恭の脳裏を過ぎった。平手打ちの痛さと、青蘭の涙の筋がよみがえる。一月に黎陽へ行った時に青蘭に迫ったものの、あいまいにかわされてしまった。
『青蘭には、別に心に想う者がいるのではないか』
床入りを目の前にして、長恭は急に自信がなくなっていた。
長恭は青蘭の肩に手を掛けるとできるだけ優しく抱き寄せた。
青蘭は、急に無口になり睫毛を伏せ頷いた。青蘭の顎に手を添え上を向かせると目を閉じたまま赤い唇は小さく震えている。
長恭はわずかに唇を開くと、青蘭の唇を覆い深く滑らかに浸入した。
以前は、平手打ちをして激しく抵抗した青蘭は、今日は人形のように動かない。本人は、本当にそれを望んでいるのだろうか。
『妻の勤めだから、いやいやながらでも身体を任せるのか』
他に想い人がいるのだろうか。青蘭の唇の滑らかさに耽溺しながらも頭の片隅で疑念が拭いされたい。一度ならずも二度までも拒まれた思い出が長恭を臆病にさせた。
「今日は疲れただろう?ゆっくり休もう」
長恭は、ゆっくりと青蘭を横にすると衾を掛けた。青蘭は緊張が一気に落胆になり何とも気詰まりである。房事について青蘭だって知らないわけではない。鄭家の訳知り顔の侍女から知識も仕入れている。
『ええ?初夜にこんなことってある?』
横を向くと、青蘭と同じ衾をかけ、すでに長恭は目を閉じて眠ろうとしている。秀でた鼻梁と長い睫が見える。唇は固く閉じられている。
衾の中には、絹の内衣を付けた引き締まった魅力的な肉体が横たわっているのだ。
「師兄、お酒を過ごしてお疲れなのね」
青蘭は憎まれ口をきいてしばらく目をつぶっていたが、長恭はとんと動かない。青蘭は寝返りを打つふりをして、衾の下で長恭の身体に手を伸ばした。手のひらが自然に肩から胸をなぞる。
「私は、無理強いしたくない。我慢しているんだ、刺激しないでくれ」
目をつぶったままつぶやくと、長恭は背を向けてしまった。長恭の声に哀願の響きがある。青蘭は、長恭に身を寄せて背後から片腕を長恭の首に回した。
「師兄、私を嫌いになった?」
耳の側に唇を寄せて囁いた。
「そんな訳ないだろう?その、きみがいやなんじゃないかと思って・・・」
長恭は振り向くと、切ない思いで青蘭を抱きしめた。青蘭の温かい体温が、長恭の逡巡を解き放ち、苛立たしげに内衣の紐をほどく手を早めた。
★ ★
柔らかな朝の光が、羅を通して榻牀に差し込んでいる。赤い天蓋が目に飛び込んで、青蘭は目覚めた。
横を見ると、長恭の逞しい裸身が胸と腕をのぞかせている。『無理強いしない』と言っていた長恭であったが、青蘭が手を伸ばすと、切なげな唇と優しい愛撫が、青蘭を陶酔に誘っていった。
身体の芯の疼くような痛みが、昨夜の記憶を呼び起こさせる。青蘭は、胸に残る桜色の印を指で抑えた。
右手で長恭の秀でた鼻梁をなぞってみた。激しく青蘭を求めた桃色の唇、優しく弧を描く顎の線を過ぎると、象牙色の逞しい胸板が続く。
「もう起きたのか。」
いつの間に起きていたのだろうか。清美な瞼を僅かに開けて、長恭は、裸身のままの青蘭を懐に抱き寄せた。春の薄明かりの中、遠くで小鳥が小さくさえずっている、
「青蘭、こんなに冷たくなって風邪を引くぞ」
長恭は、後ろ向きの肩口に唇を当てると、青蘭の裸の腰に手を回した。
念願の婚儀を挙げた二人。喜びにひっているのもつかの間、青蘭は義祖母にあたる、皇太后から皇族の正室としての心得を教授されてしまう。