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蘭陵王伝 穀雨の記  (6)  作者: 天下井 涼
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三人の元宵節

安陽の宿で、青蘭に迫った長恭であったが、漢族の風習を盾に拒まれてしまう。そして、青蘭には別な想い人がいるのではという疑惑が頭をもたげる。青蘭への思いに気づいた高敬徳は、長恭、青蘭と三人で元宵節に出掛ける。、


長恭は鄭家に馬車を置いて青蘭を伴うと、(かち)で約束の喬香楼(きょうこうろう)に向った。

元宵節も(さる)の刻(午後四時頃から六時頃)である。普通だったら灯籠(とうろう)(とも)すのには早い時間だが、大街には灯籠見物の人々がすでに多く繰り出している。中陽門街(ちゅうようもんがい)はさながら昼間のように赤々と灯籠に照らされている。


          ★                ★


青蘭は、平陽公主(へいようこうしゅ)黎陽(れいよう)まで送り届けた先日の旅を思い出した。元宵節が近い復路(ふくろ)では、安陽(あんよう)の客舎は混んでいて、鄭氏の力をしても二室しか確保できなかった。長恭と青蘭は図らずも同部屋で一泊することになったのである。


客舎の二階から見る安陽の大路の両側には客舎が立ち並び、元宵節の準備ための赤い灯籠が何重(いくえ)にも連ねられている。早春の風が立ち、夕闇が客坊にも迫っていた。

「風が出てきた。窓を閉めたほうがいい」

長恭の声に青蘭が振り向くと、すぐ後ろに長恭が立っていた。

「明日は、鄴都(ぎょうと)に戻らなければならない。・・・今夜は君と離れたくない」

そうだ、明日鄴都に着けば、また別々の屋敷に戻らなければならない。長恭の言葉で、側にいることが当たり前になっていたことに青蘭は気づいたのだ。

後ろから抱き締められると長恭の滑らかな唇が耳たぶ、そして首筋に降りてきた。

「青蘭、君をだれにも渡したくない。君が欲しいんだ」

外衣の(えり)をずらして、長恭は唇を滑らせて肩口に強く押し付けた。甘い波立ちが青蘭の身体を通り抜けた。青蘭は、慌てて長恭の体を強く押し返して後ろを向いた。


「師兄、・・・私だって・・・。でも、だめよ」

「青蘭、・・・婚儀は三月だ・・・だから」

長恭は熱い溜息をつきながら不満げに唇を尖らせ、青蘭の唇に触れようとした。しかし、青蘭は人差し指を立てて唇に当てた。

(いにしえ)では、許婚(いいなずけ)同士は、婚儀の前一か月は会えなかったそうよ」

漢王朝の頃、数百年前の漢族の習慣だが、このころでも許嫁が頻繁(ひんぱん)に会うのは忌むべきこととされていた。ましてや閨事(ねやごと)ごとに及ぶのは許されないことであった。


「それは、花嫁の顔に驚いて婿が逃げ出さないようにするためであろう?」、

長恭は、一大決心をして迫ったにもかかわらず、あっけなく拒絶された落胆を悟られまいと、冗談にしてしまったのだ。長恭の無礼(ぶれい)な物言いに、青蘭は(こぶし)で長恭の胸を軽く叩くと窓のそばを離れた。


青蘭は、就寝の準備を始めた。青蘭は、榻(長椅子)に置いてある荷物を側の()(小テーブル)に移して、自分が寝る場所を作ろうとした。榻に座った青蘭は、(まげ)から(かんざし)を外して几に並べた。

何気なく長恭を見遣ると、すでに内衣姿(ないいすがた)(寝衣)で榻牀に横になっているではないか。

「青蘭、(とう)でねると風邪をひくぞ。・・・特別、君に榻牀(とうしょう)の半分を貸してやろう」

絹の内衣で横になる長恭の優雅な姿は逞しい体の線がよくわかり、蝋燭(ろうそく)の灯りに照らされ妖艶な影を作っている。心の臓がドクンドクンと音を立てた。確かに榻では、風邪をひくかもしれない。

「じゃ、・・・半分だけ借りるわ。・・・向こうを向いていて」

青蘭は冷静を装いながらも、唇が震えた。以前同じ榻牀に寝たことがあるではないか。

青蘭は蝋燭を消し、僅かな光を頼りに外衣と長裙(ちょうくん)(長いスカート)を脱いて衣桁(いこう)に掛けた。そして、内衣姿を見られないように急いで(きん)(掛け布団)をかぶった。

青蘭が、背を向けて身体を固くして横になっていると、静かな寝息が背後から聞こえてくる。それは拍子抜けするほどの正しさだ。

背後から伝わってくる体温の温かさと、沈香(じんこう)の甘やかな香りが、緊張していた青蘭の心を解きほぐした。仰向けになると、自然に長恭の寝姿が視界に入る。


長恭は、その心のように真っすぐで端正(たんせい)な寝姿だ。(よこしま)な期待をしたのは私。青蘭は、しばらく横顔を見詰めていたが、長恭の魅力に負けて鼻梁(びりょう)の陰にそって指を添わせた。鼻の(いただき)を過ぎると面と向かっては見詰めることができない花びらのような唇が僅かに開かれている。

『この甘やかな切なさは、何だろう』

この唇の下にすべてをゆだねてしまいたいという感情が、青蘭を突き動かした。しかし、幼少のころから教えられてきた名節(めいせつ)という言葉が青蘭の心を縛り、指を伸ばしてわずかに唇に触れただけだった。

柔らかく湿り気を帯びたこの唇は、いつも優しく青蘭を労わってくれる。

唇の感覚が目覚めさせてしまったのであろうか。寝返りを打った拍子に、長恭は偶然を装って青蘭の方に腕を伸ばし、抱き付いてきた。

「よく休め、・・・明日は早い」

長恭は目をつぶったままそうつぶやくと、額に口づけをした。


           ★               ★


夕暮れが迫ると、大街(おおがい)の両側に掲げられた元宵節の灯籠は、いよいよ輝きを増していった。二人で大街を進む。長恭の逞しい腕に抱き寄せられると、榻牀(とうしょう)の中での感覚がよみがえって青蘭に甘いときめきを湧き上がらせた。


長恭が青蘭を笑顔で見下ろす。青蘭は薄紅色の水晶の(かんざし)を付け、柔らかい香色の外衣に白孤の縁飾りの披風(とふう)が青蘭の白い肌を魅力的に見せている。


三年前までは、長恭は敬徳とよく二人で灯籠見物に出掛けていた。

昨年、青蘭と清河王府を訪問した時、灯籠見物を提案されたのである。

「私は、もうすぐ出征だ。その前に共に灯籠見物に出掛けたいのだ。青蘭殿も一緒にどうだろう」

敬徳は、文叔の姉である青蘭に対して婚姻を望んでいたのだ。青蘭への好意を感じながら、敬徳に黙っていた(やま)しさから、長恭は強くはね除けることができなかった。



「確か、約束は喬香楼(きょうかろう)の前はずだが」

長恭は、人の波をかき分けて大街を南へ進んだ。孔雀青(くじゃくあお)の外衣は灯籠の灯りに映え、白い頬と清澄(せいちょう)な瞳を一層引き立ててくれる。長恭は側を通る人から青蘭を腕で守るようにして人々の波を進むと、ほどなく多くの人々が集まる喬香楼の前に着いた。


喬香楼は、鄴城で一番の妓楼である。元宵節の灯籠の飾りも、都一の豪奢(ごうしゃ)さを誇っていた。

大きな(やぐら)を組んで何段もの灯籠を(つな)いで飾り、五色の上等な絹が両側に垂れている。豪奢な灯籠飾りを見ようと、喬香楼の前には多くの人が見物の人垣を作っていた。

「青蘭、見てみよ。灯籠の絵が見事だ」 

長恭は、一番上の絵灯籠を示した。

桃や牡丹などの草花、そして獅子(しし)などの吉祥(きっしょう)の動物などが精巧(せいこう)筆致(ひっち)で描かれている。昨年、宣訓宮の元宵節で青蘭が造ろうとした灯籠に良く似ている。

「美しいわ。でも、・・・師兄の絵の方が、ずっと清雅(せいが)だわ」 

長恭の耳に唇を寄せると、青蘭は囁いた。

「青蘭、・・・世辞(せじ)を言っても、何も出ないぞ」

長恭は、悪戯(いたずら)っぽく笑うと、上機嫌(じょうきげん)で青蘭の手を握った。

 

青蘭を引き寄せようとしたとき、喬香楼の中央の扉から、青碧色の外衣を纏った敬徳が現われた。

長恭は思わず、青蘭に回していた腕に力を込めた。

敬徳が、喬香楼の(きざはし)を足早に降りてきた。

「長恭、・・・待たせたな」

「やあ、敬徳。遅いと思ったら、登楼(とうろう)していたのか」

敬徳は赤い顔で長恭と青蘭に上機嫌な笑顔を見せた。

すでに敬徳は、喬香楼の中で酒をかなり飲んできたのであろ。清廉(せいれん)な兄として信頼していた敬徳が、妓楼に入り浸っている男だったのだ。信じられない気持ちで、青蘭は敬徳を睨んだ。


「喬香楼の灯籠は、なかなかだろう?私の絵もあるのだよ。そうさ、あの牡丹の花」

敬徳は、一番上の灯籠を指さした。喬香楼に通う上客の中で、絵に心得のある者に依頼したのであろう。青蘭が目で探そうとすると、敬徳が酔いに任せて青蘭の肩に手を置いた。

「ほら、一番右の灯籠だ」

肩に置かれた敬徳の手を、青蘭はどぎまぎしながら外した。

敬徳の示した灯籠の絵は、繊細(せんさい)筆遣(ふでづか)いで、牡丹の花びらや葉を描写している。花弁に塗られた赤い色は、喬香楼の美姫(びき)を暗示しているようだ。

「んん、とても、・・・華艶(かれい)です」

青蘭が感想を言うと、敬徳は笑顔で青蘭の顔を覗き込んだ。書画に堪能(たんのう)な長恭らしく、敬徳に辛口に評した。

「敬徳の牡丹は、百花(ひゃっか)の王らしく、堂々としているが、・・・牡丹の色に色香(いろか)が過ぎるな」

敬徳は、気品に欠けるという長恭の評価に苦笑いした。いつも温順な長恭に似ず、なぜか今日は言葉に権がある。


早春の太陽が沈み、喬香楼に夕闇が迫ると、大街に飾られた灯籠が、一段と輝きを増した。

美麗な二人の貴公子の周りには、いつの間にか人集(ひとだか)りができ、喬香楼の窓からは多くの技女が、長恭と敬徳に秋波(しゅうは)を送っているのだ。

「師兄、もう行きましょう」

青蘭は、心の動揺を抑えて長恭の袖を引きその場を離れた。三人は喬香楼の前から、中庸門街の人波の中に入った。


人波をかき分け大街を南に行くと、漳枝溝(しょうしこう)にかかる橋の北、光福坊(こうふくぼう)萬福寺塔(まんぷくじとう)が建っていた。

萬福寺塔の猜灯迷(せいとうめい)には、燈籠に迷面(めいめん)(なぞなぞの問題)を記した短冊(たんざく)が多く吊してある。

謎かけは、詩歌の一部や漢字の一文字であったりするので、経書(けいしょ)文選(もんぜん)を読んでいる士大夫にとっては挑戦したい気持ちをそそる物なのである。


青蘭は、長恭を初めて見たときも、敬徳と共に迷面に挑戦していたのを思いだした。

「敬徳様も、猜灯迷がお好きでしょう?一緒にやりましょう」

青蘭は櫓の下に行くと、無邪気を装って笑顔で振り向いた。敬徳に向けられた可憐(かれん)な笑顔が、長恭の胸の奥に(あお)い炎を灯した。


「どれができるかしら」

燈籠を見上げる青蘭の眉目に明るい陰影ができた。敬徳の目線が自ずと吸い寄せられ、凝視してしまう。

害怕(がいはく) 上当(じょうとう)。罠にはまるのを怖がる季節は何かしら?・・・」

長恭は、燈籠の灯りで手に取った短冊の文を素早く読んだ。

「怖がる季節?・・・ううん、何だろう」

「上?当?当の上の部分を使うと小だから、何だろう。・・・もうすぐだ」

青蘭は、顎に手を当てながら、敬徳を見た。敬徳は、首を振りながら腕組みをして歩き回っている。

「二十四節季の中で、小が着くのは・・・」

長恭が、急に手を打つと、得意気な目付きで敬徳を見た。

「あっ、師兄、分かりました」

「何だ、ずるいぞ二人だけ。待て、待て」

敬徳は、先ほどまでの余裕はどこへやら、額に手を当てて必死に考えている。

「怖がるのは、寒とも言うから・・・。分かった。やったあ」

敬徳が何度も頷くと、青蘭が麗しい笑顔を浮かべた。三人は顔を突き合わせると、声を揃えて同時に答を言い放った。

「答は、小寒!」

三人が、一斉に笑顔になった。

「じゃ、私が賞品を貰って来よう」

敬徳は、萬福寺塔の建物の方に、走って行った。


長恭は、敬徳が行くのを確認すると、青蘭をほの暗い櫓の柱の陰に連れて行った。

「青蘭、・・・君は敬徳に優しすぎる」

「敬徳様は命の恩人よ。・・・そんなに無下にできないわ」

長恭は、疑わしげに眉を寄せて青蘭を見た。

「君は、私との婚約を・・・」


その時、斛律須達と斛律蓉児の声が聞こえた。

「蓉児、人ごみの中で勝手にいくなよ」

振り向くと、人ごみの中で須達が蓉児に大声で説教をしている。

須達は、蓉児の手巾を返して以来ギクシャクした関係になっている。

「やあ、須達。君達も灯籠見物に来ていたのか」

蓉児は、長恭に何か言いたげな眼差しを向けてくる。その気がないにもかかわらず、蓉児との婚姻を断られたときの、屈辱感が蘇って来た。

長恭は挨拶をすると、そそくさと青蘭を促し、二人の許を離れた。


萬福寺塔の方から敬徳が戻って来るのが見えた。長恭は、青蘭の手を引いて敬徳の方に歩み寄った。敬徳は、同じ三つの玉珮を持っている。

「この玉珮が、賞品だ」

梅花を象眼(ぞうがん)した白玉に紅色の房を付けた玉珮(ぎょくはい)を見せた。(きず)のない白玉はかなり高価である。

『これが、賞品のはずがない。何の真似なんだ』

長恭は、敬徳の顔を覗き込みながら目線で尋ねた。しかし、敬徳は長恭の疑問を無視して笑顔を作った。

「賞品の玉珮だ。今日の記念に三人で付けよう」

敬徳は、長恭と青蘭に玉珮を渡すと、自分の帯に着けた。

「戦場でもこの玉珮を見ると、きっと勇気が沸いてくる」

しかたなく、長恭は青蘭と自分の帯に玉佩をつけた。


長恭が元宵節の夜空を見上げた。望月の照り映える空には、すでに多くの天灯が浮かんでいる。

「三人で、天灯を揚げないか」

敬徳は急に真顔で提案した。一月の下旬には汾州への出陣が決まっているのだ。

敬徳は、長恭と青蘭を促して人波をぬうように進むと、漳支溝(しょうしこう)の方に向った。

橋の周りには、天灯を商う露店が多く出ていた。

漳支溝の橋の袂では、すでに多くの男女が天灯を持って集まっている。敬徳は、三つの天灯を買うと、二人に渡した。天灯には、筆でそれぞれの願い事を書き込んで飛ばすのである。

『婚姻の成就、武運長久』

長恭は、欲張りすぎかなと笑みを浮かべると、筆を置いた。青蘭の方を見ると、身体で天灯を隠すようにしている。

「何を書いている?」

「いやあ、師兄。・・・見てはだめです」

回り込んで青蘭の手元を見ると、天灯には見慣れた詩賦が書き記されている。

「結髪して 夫婦と為り、恩愛 両つながら疑わず」

青蘭は、恥ずかしそうに慌てて天灯を後ろに隠した。

長恭は、昨年の元宵節の夜に、二人だけで天灯を揚げたことを思い出した。その時は、正月の宴で怪我をした青蘭は、大街に出られず宣訓宮で二人だけで天灯を揚げたのである。


それぞれ願い事を書き込むと、三人は漳支溝の橋に昇った。

高くなった橋の頂に登る。鄴城の街並みが下に見え、夜空が広く望まれた。天灯に灯を灯すと、三人の顔が明るく美しい陰影を作った。長恭は青蘭の耳に唇を寄せて囁いた。

「来年は、二人で一つの天灯を揚げよう」

敬徳がまじめな顔で目を閉じ、一心に何かを念じていた。


周りの明るくなった天灯が力を得て、ゆっくりと人々の手から離れる。

長恭がとなりの青蘭を見ると、その手から詩賦を記した天灯がするすると天に昇っていく。天に昇っいく天灯を注視していると、長恭は自分が取り残されるような感覚に襲われて思わず青蘭の手を握った。

敬徳は、武運長久と書いた天灯を橋の上でゆっくりと挙げた。そして、少し離れたところで天灯を見上げている青蘭の姿に目を遣り、じっとその瞼に焼き付けていた。

          

        ★              ★





宣訓宮の正殿を出て、斛律蓉児は回廊を清輝閣に向かった。幼き頃、父斛律光将軍の供をして婁氏を訪ねたおり、優しく端整な長恭に会いたくて良く紛れ込んだ長恭の居所であった。

『あの中に、長恭兄様がいるのだわ』

元宵節では、人ごみの中で僅かばかり声を聴いただけであった。以前長恭が手巾を返しに来て以来、顔もまともに合わせていないのだ。



長恭の婚姻を聞き及び、どうしても阻止したい蓉児は、灯籠見物に出かけた長恭を捕まえて、父親の斛律光を説得して長恭との婚姻の破談をさせようと考えていたのである。

蓉児は、人波をかき分けて長恭に近づこうとした。しかし、その時長恭、敬徳と親し気に笑顔を交わす女人が目に入った。

香色の外衣に白狐の縁取りをした被風をまとった女人が、長恭の隣に寄り添っていた。黒目勝ちの瞳と愛らしい唇が特徴的だがとくだん美女と言うわけではない。平凡な女人である。

白狐の被風の女人が、許嫁の王琳の娘なのであろうか。隣にいる侍中の高敬徳にも遠慮しない王氏の親し気な様子が、蓉児に声を掛けることを躊躇わせた。


兄の斛律須達は、華やかな喬香楼の妓女たちを横目で見ながら、蓉児に声を掛けた。

「蓉児、ここは妓楼だ。あちらへ行こう」

蓉児は、兄に伴われて灯籠見物の人波にまぎれた。

『長恭兄様は、敬徳様との灯籠見物に許嫁を連れて来たのだわ』

たまたま許嫁になっただけで、当然の様に長恭の隣にいる王氏が、妬ましい。

『狡い、私が一緒に居たいのに』

蓉児の視線は、自然と人ごみの中に長恭を探した。

明るい迷面の短冊の下に、長恭、敬徳、王氏の三人を見付けた。三人は、短冊をめくりながら仲良く迷面の問題を解いているのだ。士大夫の令嬢は、漢籍にも通じているのだろう。蓉児は、さりげなく選ぶ振りをしながら近づいたが、長恭はまったく気が付かない。

蓉児は、柱の陰に寄って長恭の様子を窺った。

長恭は高敬徳がそばを離れると、王氏の肩に両手を乗せ真剣な面持ちで何か話しかけている。蓉児は、耳をそばだてた。

「蓉児、ここに居たのか。探したぞ。勝手に離れるな」

蓉児は、いきなり兄の須達に声を掛けられた。須達が、人ごみに紛れた蓉児を追いかけて来たのだ。

須達の声に気づいて、長恭が気づいてこちらを見た。

「須達、今夜は灯籠見物か?」

「ああ、蓉児にせがまれてな・・・」

長恭が手巾を返しに来て以来、須達と長恭の関係は微妙なものとなっていたのだ。長恭は、挨拶もそこそこに王氏を促して離れて行った。

須達は曖昧な笑みを浮かべると、蓉児の手を引いて屋敷の方に歩き始めた。長恭に思いの丈を話したい蓉児は、心を残して兄に引きずられるようにして屋敷へ戻った。


             ★             ★



蓉児は、自分の想いを伝えられなかった後悔が身を苛んだ。そこで、長恭の休暇の日を確かめると、宣訓宮に婁皇太后を訪ねたのである。もちろん、目的は長恭と会うことであった。

斉の武神と言われる斛律光の長女である蓉児の求めに応じて、婁氏も清輝閣へ長恭を訪ねることを許した。


宦官の吉良の案内で、蓉児は長恭の書房に入った。

「長恭兄様、学問ですの?」

遠慮なく長恭の書房に入ると、蓉児は甘えるような笑顔で書冊を読む長恭を覗き込んだ。

「おお、蓉児か久しぶり。今日は如何がした」

長恭は、目の前の蓉児を避けるように、立ち上がった。

「お兄様が、・・・望まぬ結婚をさせられると聞いて、・・」

蓉児は、不満げに頬を膨らませて榻に座ると、皿に盛られた菓子を一つ摘まんだ。

「以前、手巾を贈ったわ。でも、お兄様に想い人がいると知って、私はお兄様を諦めたのよ。ところが、王琳の娘を娶らされるなんて、・・・納得いかないわ」

蓉児は、茶杯に茶を満たすと一気に飲んだ。

蓉児との婚姻を望んでいたわけではないが、須達に自分との婚姻は考えられないと言われたことは、皇宮における自分の位置を思い知らされた衝撃的なできごとだった。その後、親しかった須達とは、いつの間にか疎遠になったような気がする。 

「父上に頼んだら、お兄様は、きっと望まぬ婚姻をしなくてすむわ」

蓉児は、青蘭との婚姻にまつわる噂を信じているのだ。そして、斛律将軍の力を借りろというのである。

「王青蘭との婚姻は、すでに御祖母様の御許しも得ている。破談にはできない」

長恭はきっぱり言うと、笑顔で書冊を書架に仕舞った。

「お兄様には、顔氏門下に想い人が居るのでしょう?その方と添い遂げるべきだわ」

かつて、男子として顔氏門下で学問をしていた青蘭との噂が流布したことがあった。

その想い人は青蘭だったと告げれば、青蘭の性別の詐称を告げなければならない。それは、青蘭の名節を汚すことになるのだ。

「斉の皇族の婚姻は、常に斉の為。斛律将軍の息女であるそなたも、自由ではない」

長恭は二つの茶杯に茶を満たすと、蓉児に勧めた。

「蓉児よ、婚姻は遊びではない。一族や国の命運を賭けたものなのだ。早計にうんぬんで来るものではない。・・・よく考えよ」

長恭は、いつになく冷たい調子で言葉を紡いだ。

「お兄様・・・」

長恭の言葉に、蓉児は茶杯を持つと手を動かすことができなかった。 

「そなたは、嫁入り前の娘だ。もう、ここに来てはいけない。茶を飲んだら帰れ」

長恭は、茶を一気に飲むと、後を振り返ることもせず書房を出て行った。


元宵節で、二人の仲の良さをまの当たりにしてしまった敬徳は、思いを忘れようと戦事に没頭するのだった。

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