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蘭陵王伝 穀雨の記  (6)  作者: 天下井 涼
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平陽公主の脱出

顔之推の協力により婚約を成立させた二人は、屋敷も賜り婚儀の準備をすすめていた。そんな時、二人は皇太后から、呼び出されあることへの協力を頼まれる。

侍中府の中庭の臘梅(ろうばい)に雪が降りかかり、地面は白く(しゃ)が掛ったように見える。

長恭は、上奏文から目を離し帖装本(ちょうそうぼん)の束の上に戻した。今日は、雪が降っているためか皇宮は静かで書房に人影が少ない。


長恭は、昨日の皇太后の言葉を嬉しく思い出した。

「粛よ、そなたに戚里(せきり)にある徳慈坊(とくじぼう)の屋敷を与えよう。婚姻の後には、共に住むがよい」

徳慈坊の屋敷は、婁皇太后が、高歓の正室を一時外されたときに、高歓から賜った屋敷である。高歓が亡くなり、高澄が高一族の統領(とうりょう)になってからは、太妃(王の母親)として本邸に戻ったため、長らく使われていなかった屋敷である。


気が付くと、書房は火爐(かろ)から昇る熱気により空気がよどんでいるようだ。長恭は、窓を開けようと立上がった。

その時、扉から廬思道(ろしどう)が入ってきた。思道は、窓ぎわの椅にどかっと腰を下ろすと、だるそうに首を回した。

「ああ、つかれた。・・・顔之推殿が入って、少しは(まつりごと)が良くなると思ったが、なあに、船頭(せんどう)が増えただけだ」

今月から、奏朝請(そうちょうせい)として願之推が出仕していた。同じ漢族の楊韻(よういん)とは表だって対立はしないものの、斉の政に対する考え方の違いは明らかであった。最近は、今上帝高洋の酒害がより一層進行し、その時々により陛下はその言を左右にさせるのだ。思道の筆頭(ひっとう)の散騎侍郎としての苦労は並大抵(なみたいてい)のものではなかった。

「陛下は、すでに正常な判断が出来ないのだ。最近は御書房(ごしょぼう)には、とんとお出ましにならない」

思道は、長恭がいれた茶でのどを潤した。


「楊韻が、太原長(たいげんちょう)公主を娶ったぞ」

廬思道が、髭面(ひげづら)の顔を長恭に近付けさせき耳元でささやいた。

太原長公主とは、以前の孝静帝(こうせいてい)の皇后であり、中山王妃であった。そして、長恭の伯母でもある。

「中山王妃が、楊尚書左僕射(しょうしょさぼくや)と婚姻したと?」

長恭の胸が怨嗟(えんさ)の色に染まった。楊韻は、丞相(じょうしょう)であり中山王府の悲劇を防げなかったという意味で、夫の敵といってよかった。その楊韻になぜ中山王妃は降嫁(こうか)したのであろう。

中山王妃と皇太后の胸中を思うと、長恭は忸怩(じくじ)たる思いであった。


     ★        ★


年が改まった。一月五日の大街は正月の華やぎを残している。

鄭家の大門には、正月飾りの神奈(かんな)鬱壘(うつるい)の二神の名前を書いた桃符(とうふ)が掲げられている。


朝の冷気を払って青蘭が、周りに薄絹をめぐらした笠を被り、珊瑚色(さんごいろ)の外衣に身を包んで垂花門(すいかもん)を出てきた。さりげなく周囲の大街に目を配りながら馬車に近付いた。華やかな黒貂(くろてん)の襟を付けた披風(とふう)をまとった長恭に手助けをされながら、青蘭は馬車に乗り込んだ。

長恭は再度辺りを見回すと、騎乗して馬車の前に回った。侍衛が馬車の前に二人、後ろに二人が馬車を護衛している。長恭は、馬車の窓越しに青蘭の様子を確かめると出発の合図をした。


先日、青蘭が元日の挨拶に皇太后府を訪れたときだった。長恭と青蘭は、居房での茶に誘われた。居房に入ると、婁皇太后は、顔を(ほころ)ばせて長恭を振り返った。

「粛よ、・・・平陽公主(へいようこうしゅ)行方(ゆくえ)が分かったのだ」


平陽公主は、北魏の孝静帝と高皇后(太原長公主)の間に生まれた皇女である。

中秋節の中山王府毒殺事件の時には、宝国寺に参詣(さんけい)していたため、公主は危うく毒殺を免れたのであった。その後、近衛軍(きんえいぐん)により執拗(しつよう)捜索(そうさく)が行われたが、その行方は分からないままだった。皇太后の命により、中山王府を訪ねたことがあるだけに、長恭は、平陽公主の安否が長恭は気になった。


「平陽公主は、無事でしたか。どちらにいるのですか?」

婁氏は、辺りを警戒(けいかい)するように声を落した。

「平陽は、天平寺(てんぴょうじ)にかくまわれている。しかし、陛下の探索は依然として続いているのだ。このままでは、いつ殺されるか分からぬ」

太原長公主が丞相の楊韻と婚姻したのには、娘を助けたいという母の願いがあったのかもしれない。しかし、婁氏は、長公主の婚姻には触れようとしなかった。婁氏は、苦悩(くのう)を眉間に表わして、言葉を詰まらせた。

「平陽を、安全な場所に移したいのだ。そこで、そなたたちに頼みがあるのだ」

婁氏は、苦悩に満ちた眼差しで二人を観た。

「平陽を、青蘭の母鄭氏の協力により、大梁(だいりょう)に逃したいのだ。その手助けを頼みたい」

青蘭は、いきなり鄭家の話が出てきたので、驚いて婁氏を観た。確かに、大梁には鄭家の屋敷があり、そこに身を隠せば皇帝の追っ手から逃れられよう。大梁は、黃河の南に位置する商業の中心地である。

しかし、平陽公主を逃がすことに協力したことが露見(ろけん)すれば、一族は死を免れない。そのような危険を犯すとは、母と皇太后は、どのようなつながりなのであろうか。


婁皇太后は、今上帝高洋の母であるが、酒で理性を失った高洋は、すでに母親の制御できない状態になっていた。平陽の命を守りたい一心で苦肉(くにく)の策を考え出したのであろう。

婁皇太后の命とは言え、近衛軍の目をかいくぐって、平陽公主を逃れさせることなどできるのだろうか。青蘭は、即答できず言葉に詰まった。

「青蘭、平陽公主は私の従姉(いとこ)だ。力を貸してくれ」

婁氏は、長恭にとって母親同然である。また、二人の婚約により婁氏と鄭家は、一連託生(いちれんたくしょう)である。また、商いでの関係も深いのだ。

「私にできることがあるなら、ご命令ください。平陽公主のために、長恭様と共に尽力致します」

長恭が拱手すると、青蘭も目を伏せた。婁氏の目が、明るく輝いた。



長恭は、城門にむかってゆっくりと馬車を先導した。早春の空はどこまでも青く地上の争いごとなど存在しないように澄み渡っている。

城門に至った。鄴城でも、門衛が門を出入るする人々を取り締まっている。近衛軍が、平陽公主を捜していれば、探索(たんさく)があるはずである。長恭が、令珮(れいはい)を示し、門を通過した。


遙か遠くを見渡すと、西には林虎山(りんこざん)が、雪を戴いて連なっていた。城門を出てほっとすると、枯れ草色のなかに若緑色の若草が芽吹いているのが見える。

三月の婚姻は、もう手の届くところに来ている。御祖母様は、平陽公主にかこつけて二人の外泊を許してくださったのだ。長恭は嬉しさに自然と唇が緩むのを、抑えることができない。長恭は掌を太陽に向けて日差しを遮ると、その温かさを感じていた。


天平寺の大門に到着すると、青蘭は馬車を降りた。

青蘭は、若草色の長裙の上に珊瑚色の外衣を着け、白い薄絹が周囲に長く垂らされた笠を被りその容貌を隠している。長恭は馬から降りると足早に青蘭の側に寄った。薄絹の隙間から緊張した頬と赤い紅を付けたが唇が垣間見える。

長恭は、青蘭の腕を支え体を寄せると、本堂の方に歩みを進めた。


天平寺は、天竺(てんじく)から来朝した那連(テレーン)提黎耶舎(ドラヤジャス)昭玄統(しょうげんとう)に任じ、仏典の翻訳を行っている寺院である。本殿の基壇の下まで行くと那連提黎耶舎が黄色い袈裟を着て待っていた。那連提黎耶舎はインド各地で弘法の旅をした後、来朝した高僧である。

昭玄統様(しょうげんとうさま)に、御挨拶を」

長恭が拱手すると、青蘭も後ろで挨拶をした。

「皇太后様より、聞いております。どうぞ本堂の中へ」

那連提黎耶舎は小声で囁くと、二人を本堂に招き入れた。屋外から入った長恭には、本堂は暗く感じられたが、目が慣れると、黄金の聖観世音(しょうかんぜおん)菩薩像(ぼさつぞう)が輝いて見える。長恭と青蘭は、三度拝礼し線香を奉げた。拝礼の後、長恭は那連提黎耶舎に導かれて方丈(ほうじょう)に向い、青蘭は別房に姿を消した。


「こたびは、昭玄統様に、お世話をかけまする」

「なに、人を生かすは、仏の道でございます。皇太后様には、斉の仏教の興隆(こうりゅう)に尽力を戴いておりまする。お力になれれば幸いです」 

那連提黎耶舎は長恭とほぼ同じぐらいの長身である。年齢は、三十歳ぐらいであろうか、思ったより若い。那連提黎耶舎は、長恭の秀でた鼻梁と妖艶(ようれい)な瞳が美しい影を作っているのを観た。この仁愛に満ちていると評判の高い皇太后の愛孫とは、皇宮で見知った仲であった。

「天竺から来朝されるには、大変なご苦労をされたのでしょう。今度天竺や道中の話を伺いたい」

「皇子のお望みでしたら、いつかお話いたしましょう」

那連提黎耶舎は、彫りの深い眉目に清雅(せいが)な微笑みを浮かべると本堂に戻っていった。


その時、扉が開き白い薄絹を付けた女子が、侍女と侍衛を従えて入ってきた。

「準備は整いましたか?」

長恭が尋ねると、薄絹を垂らした笠を取り女人は優雅に礼をした。笠を取った平陽公主は、色白の瓜実顔(うりざねがお)に切れ長の目をした女人であった。青蘭が先ほどまで着ていた外衣と長裙を着ている。歳は二十歳を幾つか出ているであろうか。

「平陽公主、ご安心ください。この高長恭が、黎陽(れいよう)までお供します」

「こちらが、許嫁の王青蘭、鄭家の令嬢です」

長恭は、後ろにいた少年の侍衛の肩を抱き寄せると紹介した。平陽公主は、初めて接する高長恭の優しげな笑顔に心を惹かれた。中山王一族を毒殺した高一族を全て(かたき)であると思っていた。しかし、目の前の秀麗(しゅうれい)な貴公子は、温順に満ちた微笑みで平陽を包んだ。隣の許嫁と紹介された侍衛姿の女人は、まるで長恭の兄弟のような親しさを醸している。

平陽公主は、怪訝(けげん)な面持ちで青蘭を見た。

「平陽公主、道中(どうちゅう)気を付けられよ。善人には必ず仏のご加護がありましょう」

那連提黎耶舎は、手を合わせて挨拶すると長恭達を見送った。

平陽公主と長恭が並んで歩き、侍女と侍衛姿の青蘭が二人を守るように進んだ。長らく僧坊(そうぼう)に閉じ籠もっていたためであろうか、平陽公主が敷石に(つまず)いてよろめいた。

「大丈夫ですか?」

長恭がすばやく膝をついて体を支えると、公主は甘えるように長恭の首に腕を回し笠を抑えて立ち上がった。長恭は、その後も逞しい腕で公主を抱き寄せるように歩いて行く。大門を出て馬車に乗るときも、公主は長恭に手を差し出し支えられて乗り込んだ。青蘭は、事前に預けてあった馬を引きながら後を追いかけた。

      ★       ★


馬車が冬の枯野を南に向って走り出す。青蘭は馬に乗って慌てて馬鞭をふるい、一行の最後尾に加わった。遙か西を望むと、林虎山が雪を戴いて見える。西に見えた漳水(しょうすい)に別れを告げ、なおも南に行くと日が西に傾いた頃に安陽の城壁が見えてきた。

早春の夕暮れは早い。安陽に着いたのは、宵闇(よいやみ)が迫る頃であった。鄭家の手配により、安陽で一番大きな客舎に部屋が取ってあった。安陽に一泊して、黎陽(れいよう)(みなと)から鄭家の船に乗る手はずになっていた。


青蘭は、部屋に荷物を下ろすと、(とう)に身体を投げ出した。鄴都から安陽までの騎馬の旅程は青蘭の体力を消耗させていた。目を瞑っても、公主の姿が思い出される。公主はよほど疲れたのであろう、馬から降りるときも、長恭に抱えられるようにされていた。宝国寺と天平寺での四が月に渡る隠遁生活(いんとんせいかつ)の末の逃避行(とうひこう)である。身体も心も弱っているに違いない。そんな中で、長恭がさながら侍女のように細々(こまごま)と世話を焼く様子が青蘭には気に掛る。

『侍女だって居るのに、なんで師兄がそんなに世話を焼くの』

弱い者を放っておけないのは、長恭の優しさである。その優しさに心穏やかでない自分がいやであった。青蘭は、久し振りの騎乗に疲れた重い身体を励まして立上がった。


公主の客房の前に行くと、僅かに扉が開いている。部屋の隅の榻に座った公主と侍女が見える。青蘭は、一瞬躊躇(ちゅうちょ)した。

「公主様、お泣きにならないで」

侍女の小瑛の声である。

「私は、大梁に行きたくない」

涙声は、平陽公主である。

「皇子のいる鄴に留まりたい。一族を殺され、高一族はみな残忍だと思っていたわ。あのような見目麗しく、仁愛に満ちた皇子がいるとは・・・」

「公主様、・・・長恭皇子には、許嫁(いいなずけ)が」

俯いていた公主がキッと顔を上げた。

「王青蘭?たかが王琳の庶子ではなくて?私は東魏の公主だということを忘れたの」

王琳の庶子という言葉が、青蘭の胸を刺した。確かに世が世であれば、正室所生の公主として誇り高く、高官や皇族の正室におさまっていた身分であろう。

「皇子であれば、私を守ってくれよう」


青蘭は、公主の思わぬ本音を聞いてしまった。これから公主にどう接したらいいのだろう。青蘭は音を立てぬように静かに扉を離れると、自分の客房に戻った。

長恭にとって公主は従姉にあたる。しかし、長恭が公主に手を貸すのを見ただけで、心が乱れるのである。長恭が笑顔で優しい言葉を掛けるだけで、心が苦しいのである。青蘭は、深い溜息をついた。


長恭の客房に入ると、すでに夕餉の用意ができている。長恭は、青蘭を食盤(食卓)の前に導いた。

「青蘭、今日は疲れただろう?」

長恭は笑顔で酒杯に酒を満たすと青蘭に勧めた。

「疲れただなんて、・・・私は何もしていないわ」

酒杯を受け取った青蘭は怒ったように腕を組むと横を向いた。

「青蘭、・・・どうしたのだ。・・・変だぞ」

長恭は、食盤に置かれた青蘭の手に手を重ねた。重ねられた長恭の大きな手を見て、青蘭は失いたくないと思った。

「特別に、・・・なんでもないわ。単に・・師兄は、公主にとても親切だなと思ったの」

天平寺に寄って以来、長恭の目線や指先が公主に向かうたびに、胃の痛みのような疼きが湧き上がるのを抑えきれず、青蘭は言葉にした。

「そりゃ、親切にする。御祖母様に頼まれている。・・・それに公主は、・・・私の従姉だ」 

長恭は、なぜそんな事を気にするのだというように、笑顔を作った。このまま一緒にいれば、長恭を罵ってしまいそうだ。青蘭は唇を噛んで俯いた。しかし、女心の機微に疎い長恭は青蘭の手を取ると、唇に持っていく。

「私の目の前で、・・・公主を抱き留めていたわ」

青蘭は唇を手でせいすると、(たくま)しい胸をこぶしで押して、長恭を睨んだ。長恭の優しさは、女人にとっては甘い毒と同じであることを本人は意識していないのだ。

「青蘭、悪かった。・・・君に誤解させた私が悪い」

長恭は甘えるように目を細めると、男の髷を結った青蘭の頬を優しく撫でた。

「実は、三兄の高孝琬の母と公主の父は姉弟なのだ。三兄孝琬(こうえん)とは、他人に言えない因縁(いんねん)があるのだ。恨みからぞんざいに扱ったと思われたくない。それで、君に誤解を与えてしまったかもしれない」

「深い因縁があると?」

青蘭は、長恭の言葉に驚いて長恭の顔を上げた。長恭の男兄弟は五人いるが、大方疎遠で親しく付き合っているのは第五皇子の延宗だけであった。それぞれの母親が違うだけに、その間には恩讐(おんしゅう)があるに違いない。長恭はあいまいに笑顔を作ると、物問いたげな唇を優しくふさいた。


       ★       ★


次の日、長恭の一行は白水(はくすい)を過ぎると先を急いだ。太陽が中天(ちゅうてん)から西に傾いた頃、黄河の湊である黎陽(れいよう)に着いた。黎陽には、湊の近くに鄭家が商價(しょうか)を構えているが、一行は(みなと)からやや離れた別邸に向った。


鄭家に入ると、鄴都の鄭家の家宰、楊良信が出迎えた。鄭桂英の命により、安全に平陽公主を大梁に行かせるべく先回りして待ち受けていたのだ。青蘭は、緊張の中で思わぬ顔を見て嬉しげに唇が緩んだ。家宰の楊良信は、青蘭に笑顔を見せると、公主の方に向き直った。笠を取った公主は、心細げに長恭を見上げている。

「公主、今日はここに泊まり、明日鄭家の船で大梁に行く手はずになっている。今日はゆっくりと休むがいい。楊殿は信頼の置ける人だ。必ずや良いようにしくれる」

長恭は、安心させるように温顔で言った。細い眉を寄せていた平陽公主は、すがるように長恭を見詰めた。


居房に、豪華な夕餉が準備された。青蘭は、長恭の健康的な食欲に、自然笑みが漏れた。

「鄭家の者にも、君にも、・・・ずいぶん世話を掛けた・・・」

長恭は、蜂蜜酒を小さな銀の酒杯に注ぎ、一つを青蘭に渡した。長恭は強い酒を満たした銀の酒杯を目の高さに掲げた。青蘭は、船で大梁に向う公主の姿を思いながら酒杯を傾けた。

「公主は、大梁に行きたくないと言っているのよ。知っている?」

「そうだろうな。・・・生まれ育った鄴を離れるのは、誰だっていやだろう」

長恭は、さも一般的な感想という口調で言った。女子の気持ちに疎い長恭は、公主の恋心に全然気付いていないのだ。

「公主は、・・・師兄が好きらしいの。・・・だから、大梁に行きたくないと言っていたのだわ」

「まさか、それは、君の思い過ごしだ。・・・公主は、従姉だけれど、昨日初めて顔を合わせたばかりだよ」


夕餉が終わると、二人は榻に移った。青蘭が風炉(ふうろ)から茶杯に陳皮茶(ちんぴちゃ)を注いで長恭の前に置いた。陳皮の爽やかな香りが、居房を包んだ。

「公主が、私に好意を持っているなんて、・・・君は、公主に嫉妬しているのかな?」

嫉妬という長恭の言葉に、青蘭はうろたえて胸がざわついた。

「いや、私は・・・むしろ嬉しいんだ。」

頬づえをついて魅力的な笑顔を両手で支えると、困惑した青蘭の瞳を見上げた。

「青蘭、君は今まで・・・嫉妬めいたことを言ったことがない。・・・だから、本当に好きなのかと・・・思ったことがあるんだ」

長恭は、嬉しげに笑顔で青蘭の肩を抱き寄せた。

「嫉妬するのは・・・愛情がある証拠だ。だから、私はむしろ君の嫉妬が嬉しい」

長恭の桃花のような唇がほころんだ。青蘭の嫉妬を笑顔で喜んでいる長恭が(しゃく)に障った。

「私が嫉妬したら、・・・他の妻妾(さいしょう)は許さないわ・・・」

「君以外は、娶らない」

長恭は、頬に青蘭の頭を寄せた。

「きっと、・・・恋文も許せないわ」

「中を見ないで、君が焼けばいい」

青蘭の頬に、優しく口づけした。

「それでは、私は・・・師兄をたぶらかす妖女(ようじょ)と言われるわ」

皇族は、多くの側室や側女を持つのが一般的である。皇族である夫に、側室も持たせず付け文も許さないとなると、世間の非難を免れないであろう。

「妖女なら、私に妖術を掛けて欲しい」

長恭は、熱っぽく青蘭を見詰めた。


次の日の未の刻(午後二時から四時ごろ)になり、長恭と青蘭は、桟橋(さんばし)に止められた馬車の傍らに立ち、公主の到着を待った。

到着した公主は、浅黄色(あさぎいろ)の地味な外衣の姿である。公主は万感(ばんかん)の思いを込めて長恭を見た。長恭がゆっくりと黙礼(もくれい)すると、公主は桟橋を登り始めた。

ほどなく、公主を乗せた船の姿は段々と小さくなり、やがて東の河の上の小さな点となった。


     ★       ★


見送りの後、二人は本来の目的の西巌寺(せいげんじ)に参詣し、鄭家の屋敷に戻った。

そして、次の日の早朝、長恭と青蘭は鄴都への帰途に就いた。

帰りの道筋でも安陽に、一泊をすることになっていた。もうすぐ元宵節(げんしょうせつ)である。大路の両側に赤い燈篭が下がり、貧しい中でも正月を楽しむ民の心の弾みが、安陽の(まち)に溢れていた。


往路で泊まった客舎に到着すると、正月の元宵節の客で多いに混んでいた。

「申し訳ありません。正月の客で混んでいまして、二部屋しか空いておりません」

客舎の番頭(ばんとう)が、申し訳なさそうに指で帳面をなぞった。

「正月だ、仕方がない。我慢しよう」

結局、長恭と青蘭が一室、護衛の四人が一室を使うことになった。

荷物を持って客室に入ると、青蘭は窓ぎわの榻に座った。安陽で一番の客舎と言っても、榻牀と榻、食盤だけの簡素な客坊である。薄絹を張った窓から、初春の夕日が頼りなく差している。ここで一泊するのかと思うと青蘭は不思議な胸の高鳴りに襲われた。


長恭と青蘭は正月の宵市(よいいち)に出かけた。薄絹を垂らした笠をかぶり、青蘭は長恭と連れ立ってに手を引かれて安陽の大路の店を見て回った。安陽は黎陽から鄴都へ行く中間点にある。そのため多くの商人が宿を取り、宵市は繁盛している。

長恭は、人目をさけて漳水の支溝の辺に出た。赤い燈篭が柳の木に掛けられてある。夕日なのかで笠を取ると、被風をまとった青蘭の珊瑚(さんご)(かんざし)歩揺(ほよう)が風に揺れた。青蘭は、薄絹を付けた笠を胸の前で抱えると長恭を見上げた


「師兄、先日の公主との恩讐とは、・・・どのようなことなの?」

青蘭は、心に掛かっていたことを訊いた。夕日を受け長恭は眩しそうに目をしばたたかせた。

「中山王妃は、わが父方叔母であることを知っていよう。また、中山王の姉は、三兄の母親なのだ」

長恭は、平陽公主と自分との血縁関係を話した。平陽公主とは、二重の意味で従兄なのである。長恭の母荀翠蓉(じゅんすいよう)が父高澄に見初められたころ、高澄は、北魏での地位を確立すべく孝静帝(後の中山王)の姉である馮翊(ひょうよく)公主を娶ったのである。

馮翊公主との婚儀のころ、荀翠蓉はすでに長恭を身ごもっていた。公主の輿入れ時に妊娠している側女は目障りであると考えられたのであろう。翠蓉は、皇太后府に戻されて長恭を出産したのだった。その後、正妃となった馮翊公主は、孝琬を出産したのである。長恭の誕生は長らく伏せられてたため孝琬は第三皇子となり後に引き取られた長恭は、第四皇子となったのである。


「師兄が、中山王一族を恨んで当然だと思うわ」

「うらむ?・・・確かに恨んだともあった。しかし、人の価値は出自では決まらない。そう思うことにしたのだ」

長恭が子供のころを思い出すように漳水の支溝を見渡すと、瀬音が静かに聞こえてきた。

『師兄は、生まれた時から困難に向き合って生きて来たのだわ』

青蘭は、困難さを乗り越えて一人で生きてきた長恭の身体に腕をまわして抱き着いた。夕日が林虎山の稜線に沈もうとして二人の影を長く映した。

平陽公主に嫉妬していた青蘭は、大梁へ脱出させた帰りの道で、長恭から平陽公主との恩讐を告白される。安陽の宿で同室になった長恭は、青蘭に迫る。


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