幽言部屋 その8
タブレットに映る街の立体マップから目を離し、有川貴仁は、小さく溜め息をついた。
体を預けた背もたれは、革の擦れる音を鳴らして柔らかくそれを受け止める。
セーフハウスの割に良い椅子だ、などと他愛のないことを考えつつ、パイプの走る天井を見上げていると、椅子と対称的に作りの安いテーブルに、コトリ、とマグカップが置かれた。
「ぬるめ」
器用に持った3つのカップの一つを置きつつ、一言だけ添えたのは、相棒の飯田了也だ。
「おう」
片手を上げ礼を示すと、既に背を向けている了也も片手を上げそれに返す。
了也はそのまま、このダイニングキッチンのキッチンとは逆の隅に立つ少年へ向かう。
呆と部屋の壁に目を向ける、眼鏡をかけたその少年の名は、李八音。
中国系にある名前なのかと最初は思ったが、どうやら名前は日本人である母がつけたらしい。というのも、資料によれば、母の名が四音、7才の時の両親の死後6年ほど彼を育てていた叔母が三音、9ヶ月前にその叔母から彼を引き取った祖父が一音と言うらしい。
そんな名前と略歴をもつ少年が、今回の護衛対象だ。
ちなみに二、五、六、七が他の親戚なのか欠番なのかまでは判らなかった。
「ココア、甘め」
「あ、た、すぴま、すび…すみません……」
ココアを差し出す了也に、徐々に俯き声も小さくなりながら漸く言い終わったその言葉は、ココアの手間へのものなのか、吃音を気にしてのものなのか。
憐れなほどに身を縮こまらせていた八音だったが、ココアを一口含むと、うって替わって顔を緩ませた。
そのあまりの変化に、貴仁は、どんな魔法を使ったのかと、戻り対面に座った了也を見る。
「砂糖3倍」
カップを指差されつつそう言われた貴仁は、もう一口ココアを含み、呆れたように了也に言う。
「甘め?」
そのココアは、恐らく頭脳労働に疲れた貴仁を労ってだろう、やや甘めに作られていた。
その3倍の量なら、甘めどころか相当の甘さになる。
「ま、何にせよ何よりだ」
今、李八音は、非常に緊迫した状況下にある。
それがココア一杯で気持ちを落ち着けられるならと、貴仁が呟くと、了也が言う。
「いや、人見知り、じゃないかな」
意味を測りかねる、と視線を送ると、了也は続けて補足した。
「『基準が違う』」
「ああ、社長が言ってた」
貴仁たちが所属する91探偵社社長であり、李八音とは知己でもあるナイン・王は、八音を「あれは基準が違う」と評していた。
どうやら了也は、八音が先程見せた緊張を差し、人見知りと言ったらしい。
人見知り、即ちよく知らない大人といることへの緊張が、今置かれているその身の危機より勝ると言うのなら、確かにそれは基準が違う。
何せ、李八音が置かれている状況とは、犯罪集団に命を狙われており、更に、それを一網打尽にするための囮にされるという、並みの精神ではとても平静ではいられないものなのだ。
或いは、命の危機に対して、現実感が湧いていないという可能性もあるが……そう心の中で呟き、ふと、貴仁は自嘲する。
自分こそ、あの日以来現実感が希薄なままだ、と。
世界を救うことになったあの日以来――。
その時、視界の隅で観察していた八音が顔を上げ、その直後、タブレットが通知音をならした。
貴仁が、通知をタップしつつ、画面の出るまでの間に了也に目を向けると、了也は小さく手を水平に振ると、ゆるりと立ち上がる。
それを視線の端に捉えつつ、同じく立ち上がりつつ画面を確認する、貴仁の目に、背筋の通ったスーツの男が、ドアを開け廊下に入ってくる映像が映った。
「大丈夫、ジェイコブさんが戻ってきたようです」
その言葉の通りに安穏と、しかしその言葉とは裏腹に、貴仁はドア横、了也はドアと八音の間へと、剣呑な状況を想定した位置を取る。
一方八音は、さりげなくドアからテーブルの影になれる位置に移動しつつ、眠そうな目を伏せ、横を向いていた。なるほど、状況の理解は十分にできている。それでこの緊張感のなさなのなら、余程の手練れでなければ「基準が違う」というものだろう。
貴仁が八音の様子に感心しつつ、ドアの向こうへ耳を澄ますと、ドアの手前で足音が止まり、聞き覚えのある声がした。
「戻った。入って良いかな」
「どうぞ」
不意打ちの位置にいる貴仁に代わり了也が返すと、滑らかにドアが開き、数秒置いてから、先程タブレットに映っていた男、ジェイコブ・ジョーンズが入ってきた。
「ふむ、しっかり警戒しているようだ」
「入ってきたのが味方だと判っていても、警戒しろって話ですからね」
ドアの位置のジェイコブからはすぐ横、死角とも言える位置にいる貴仁の言葉に、驚くこともなく満足気に頷いてから、口を開く。
「ところで、君たちに朗報を持ってきた」
「なんでしょう?」
貴仁が促すと、ジェイコブは、鷹揚に部屋の中央に歩を進め、薄い笑みと共に告げた。
「ここが敵の知るところとなり、襲撃の準備が始まった。つまり――」
ジェイコブが言い終わる前に、貴仁はジェイコブに目を向けたまま、指で了也に指示を出し、了也もその指示を待たず既にクローゼットへ歩を進めている。
「作戦開始は約30分後になった」
それでその悠長さかと心の中で毒づきつつ、貴仁は、「了解」と短く告げて準備に走り出した。
御堂司は思案する。
(月乃木紬……この少女は本物の霊能力者なのかもしれない)
最初に見せた、霊を視る、祓うという力については、客観的事実としてその力が証明されたものではない。つまり、嘘か、或いは本人に嘘のつもりはなくとも、単なる思い込みである可能性はあり得る。しかし可聴域外の音の感知については別だ。
(ネズミ除けが原因で、その場所を当てたというのは事実だ)
或いは、あれを仕掛けたのが彼女自身と言うことも考えた。部屋に一人になったタイミング、その時に何かを仕掛けると言うことはあり得る。
だが、自分が部屋に違和感を覚えたのはそれより前であるし、あのネズミ除けがつけられていた場所は、紬の背では届かないだろう位置だった。
(でも、あのタイミングで家捜しをして、既に見つけていたっていうことなら説明はつくか……?)
仕掛けるのは難しくとも、見つけられない位置ではない。十分可能な話と言える。
(まだまだ結論には早すぎるか。それに……)
一方、富良永来利、月乃木紬の助手を自称する、恐らく同級生の少女。
第一印象は、友達の手助けをしようと考えた素人の女子高生。しかし時折鋭い発言があり、また、月乃木紬の能力についての発言を止めるなど、主従で言えば、むしろ富良永来利が主で月乃木紬が従、即ち助手のような印象さえ受ける。
また、月乃木紬の能力については高く評価する口ぶりでありながら、今回の件がオカルトと無関係である可能性も示唆している。穿ってみれば、予防線を張っているようにも思える。
(二人とも、一見むしろ人畜無害って印象だけど、それだけにかえって油断できない感じもあるよな……。でも、だからって尻込みするつもりもない。せっかくのチャンスかもしれないんだから)
「御堂さん?」
月乃木紬の声に、御堂司の意識は現実の二人へと向く。
目の前には管理人室の窓口がある。
「ああ、うん、じゃあ話を聞こうか」
幽言部屋は最後まで書き終わってて、その次を書いてるけど、遅々として進まなくってどうしよう