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帰って来た少女  作者: loveclock
第一部
6/6

嵐の予兆_10/20/2019

前回までのあらすじ

 Y町に到着した武田は、かつて伊田亜希子の世話係だった北場秀子に出会う。一方で捜査から外された刑事の橋本遥は武田の監視を命じられ、到着した町で幽霊屋敷に入っていく武田の姿を目撃した…。

「おおい、待ってくれよ」

 幽霊屋敷の庭には、草木が好き放題に伸び、足の置場も見つからない程だった。武田の服にも枝葉や蜘蛛の巣が引っ掛り、半ば無我夢中に掻き分けながら進む。

 武田を屋敷に誘った野良猫はといえば藪に隠れてしまって、いったい何処にいるのかも分からない。「みゃーお」と鳴いては先導してくれてはいるが、さっぱり見つからない。唯一はっきりしているのは、武田が屋敷に近づいているということだけだった。

 結局、猫を追うことを諦めた武田は、まっすぐに屋敷を目指すことにした。おそらくは猫もそれが目的だろう。

 ようやっと腰丈程の藪を抜けた武田は屋敷の窓に近づく。板が打ち付けられていない窓を見つけ確認してみれば、ガラスは割れてはいたが、まだ残りが端にへばりつくようにあった。手を切らないように枠に手を置いて、飛び超えて入る。

 入った先は廊下だった。まだ午前中のくせに嫌に薄暗い。建物が光を集めない構造なのか、それとも雰囲気がそう感じさせるのか。はたまた建物の中に潜む何者かが、光を奪ってしまっているせいか。

 武田は自分の意見を鼻で笑い飛ばした。

見回してみれば廊下は武田の立つ場所から前後に長い。どちらから探るべきかと思案していると、前方のずっと奥でさっきの野良猫が廊下を横切った。

 他に目的も無いか、と武田は猫の方へと歩きだした。廊下は掃除こそされてないものの、散らかってもおらず歩きやすい。怪我の心配はなさそうだった。

 ただ、風が吹く度に、扉が動いて隙間を作る。

 その隙間から何かが覗いているのではないかと考えると、途端に落ち着かなくなる。扉の隙間を視界に入れないようにして、武田は長い長い廊下を行く。

「おーい、猫やーい」

 心細くなって武田が呼ぶと、野良猫が思いのほか近くで顔を覗かせた。武田がほっとする暇もなく、猫は武田が着いて来ていることを確認したのか、顔を引っ込めてまた姿を消す。武田が思わず早足になって追いかけると、猫がいた所は踊り場になっていた。

 踊り場には上階へと続く階段があり、猫はそのうえで振り返って武田を見た。だが、階段を駆け上がって行く。

「少しは待ってくれてもいいだろうに」

 猫を追いかけることで、別の事を考えなくて済んでいるのかもなと武田は苦笑しながら、階段を上がった。息が上がって無意識に手すりに手を置く。

 伝わって来た違和感に武田は自分の手に視線を落とした。

 埃がない。

「誰かが居るのか」

 二階の踊り場では猫が、武田が来るのを待っていたように座っている。武田が上を見上げると、もう一階分だけ階段が続いている。どうやら三階建てのようだった。

 武田と目が合った猫は二階の廊下へと進む。武田は猫の後には続かずに、腰を落として床を注意深く見た。明らかに埃の少ない所がある。

「みゃーおぅ」

 武田が顔を上げると、猫は武田を睨んで部屋に入って行った。慌てて着いていくと、それなりの広さの部屋の中央には漆黒のピアノが鎮座していた。学校の音楽室のような印象を受けた。

 武田は静かにピアノに近づく。ピアノは埃を被っていない。誰かが使っていた。いや幽霊屋敷となってなお、誰かがピアノを使っている。疑いようもなかった。

 誰かが出入りしている。

 ピアノの椅子で毛づくろいを始めた猫をよそに、武田は部屋の窓辺に近づく。眼下には手入れのされていない屋敷の庭が広がっていた。近くのはずの住宅街が遠くに感じられる。

 一体誰がこの屋敷にいるのか。

 突然、猫が顔を上げる。舌を出したまま廊下を見つめ固まった。ある予感があったが、それ故に武田は動けなかった。

 ぎし、ぎし、と床の軋む音が武田の耳にも届く。どこか隠れる場所は、と辛うじて動く目線で探すが、部屋には、棚はおろかゴミ箱すらない。武器はといえば、猫の座っている椅子がどうにか、といった具合だった。

 猫は気配を察したのだろうか、椅子から飛び降りた。一緒に戦ってくれるのかと武田は期待したが、猫がその思いに応えることはなく、奥の扉から出ていって消える。

 所詮は猫かと肩を落としたが、その気の緩みのおかげか否か武田の体に自由が戻り、忍び足でピアノに近づくと椅子を失敬した。振り回せば十分な武器になるだろう。

 廊下の軋む音が大きくなる。武田は部屋壁に張り付いた。

 足音が扉で止まった。武田は唾を飲んだ。廊下にいる奴が扉を開けた瞬間に、椅子を振り下ろす。その後は兎にも角にも逃げるだけだ。

 ドアノブが角度を変えた。扉が開かれ、黒い靴のつま先が武田の視界に映った。

「おりゃあ!」武田が椅子を振り下ろす。

「警察だ!住居侵入罪で現行犯たい―」

 現れたのはパンツスーツの女性だった。

 武田は慌てて椅子の軌道を変えようと、腕に力を込めるものの日ごろの運動不足が祟って叶わず、だが幸か不幸か女性の頭を叩いたのは椅子のクッションだった。

 頭頂部に武田の攻撃をもろに浴びた女性は、鶏が締められたような呻き声を上げると、その場に崩れ落ちた。

 武田は椅子を投げ捨てた。「やべえ、やっちまったよ」

 知らないふりをして逃げ出そうかと辺りを見回してみれば、何時の間にか帰ってきていたらしい猫と目が合う。猫は武田を戒めるように睨む。

「分かったよ」

 武田は糸が切れて崩れ落ちた人形のような姿勢の女性を整える。一応は呼吸の有無を確認すると女性の横で胡坐を掻いた。猫は武田の見張りをしていたが、やがてふらりと部屋を出ていった。


 頭が痛い。締め付けるような痛みではなく、響くような痛みだ。頭の中で暴れ回るようだったが、やがて意識がはっきりし始める。橋本が痛みを堪えて目を開けると、覗き込んでくる顔があった。

「よ、よう」武田は気まずそうに声を掛ける。「わ、悪いな、急に殴ったりして」

 橋本の中でつい数分前の記憶が蘇り、怒りが沸々と湧いてきた。部屋に踏み込んだ橋本が気絶する直前に見たのは、黒い椅子を掲げた男の姿だった。探してみれば橋本を殴った凶器は部屋に転がっている。深く考えずともホシは目の前にいた。

「あんた!」

「いや、悪かったって。すまないと思ってるよ!」

「あんた、自分が何をしたか分かってるわけ?」

「いや、まあ。その―」武田は言い訳を考えるが、どう転んでも悪いのは自分だった。

「逮捕する」橋本は懐から手錠を取り出した。

 まごまごしていた武田だったが、手錠を見た瞬間、ぎょっとして飛び上がった。「いやいや、待ってくれよ。俺には目的があってだな」

「んなの知らねえよ。あたしの目的はあんたの監視だっだけど、逮捕しちゃえば、その分手間が省けるし」

「監視?」武田の脳裏に米持町長が言っていた事が思い返される。「あんたが、俺を監視していたのか。何が目的なんだ?」

「あたしが知るかよ。ほら、手ぇ出しな」

 言って橋本は、武田の手首に手錠を回そうとした。武田はそれをするりと避ける。

「ちょっと!」

「まだ捕まえるわけには行かねえんだ」

 武田はくるりと身を翻し廊下へと駆け出したが、橋本の方が機敏だった。低い姿勢から走り出すと橋本は勢いをそのままに、跳び蹴りを武田の背中にぶつける。武田は「ぐええ」と鳴いて前のめりに倒れた。

「さっきの借りは返したから」


「超常現象専門のジャーナリスト?」橋本は武田から奪った財布の中から名刺を見つける。「胡散くさ」

「なあ、解放してくれよお。頼むぜ」

 屋敷から引きずって連れてこられた橋本の車の助手席で、武田はこれ見よがしに橋本に手錠の掛けられた手首を見せつける。

「あんたねえ、自分が何をしたか分かってんの?」

 言いながらも、橋本はスマートフォンに視線を落としていた。どうやら武田の勤める会社を検索しているらしいと、武田は横から覗き込んでいた。

「あんたは俺を監視するんだろう?だったら逮捕したら不味いんじゃないのか?」

「あんたバカなの?いやバカなのか。そもそも、あんたがあたしを襲う前から、あんたは勝手に人の家に入ったじゃない」

「お前は、あの屋敷が誰のものか分かって言っているのか?」

 武田は急に目つきを鋭くさせ、声のトーンを落とした。だが橋本はスマートフォンに忙しくて、碌に見ようともしない。

「知らないっての。あんたの家なの?」

「俺も知らん」

 スマートフォンから顔を上げた橋本は、至極真面目な表情の武田の肩を叩く。狭い車内から乾いた音が町に響き渡った。

「痛ってっえなあ」

「あんたがふざけるからでしょ!それとも、もう一発貰いたい?」

「暴力だぞ!公務員の横暴だ!これは権力の乱用だ!誰の税金で生活してると思ってんだ!」

「あんた以外の人たち」橋本は真面目な顔で言う。

「なあ、頼むぜえー、ていうかさあ」

 武田は助手席で体を右に左に捩る。渾身のフルスイングも大して効いていないらしく、橋本は「もう一発いっとくか」と心の裡で呟いた。

「あんた、この後どうすんの?ずっと俺と一緒にいる気なの?」

 橋本の耳がピクリと動く。そして、武田はそれを見逃さなかった。

「おいおい、ノープランで俺を捕まえたのか?いいのかなあ、そんなことをして?」

 橋本が睨み付けても、武田は口角を下げない。むしろもっと上げて笑窪を深くする始末だ。

「あんたねぇ」

「分かった、じゃあ、あんたからは逃げねえ。あんたと一緒にいれば俺を監視するも同じだろう?それでいいんじゃないか」

 橋本は黙って武田を睨む。こいつを連れて帰っても、どうせ大した罪には問えない。ただの腹いせで捕まえただけだったが、どうせ署に戻ったとしても、先輩たちと共に捜査に参加できるとも思えなかった。

「この件て、何」

「よくぞ聞いてくれたな」

 待っていましたといわんばかりに武田は満面の笑みを浮かべる。その笑みが気色悪いうえに、自信に満ち溢れていたので、無性に腹の立った橋本は振りかぶって武田の頬をひっぱ叩いた。

 車の中に武田の悲鳴と破裂音がよく響いた。


「Y町で起きた殺人事件」橋本の脳裏で過去の記録がよみがえる。確か、少女が死体で発見された事件だ。「あんた、どこで知ったのよ」

「ネットだよ」涙の武田は腫れ上がった頬を擦りながら答えた。「宇宙人に攫われたって騒いだ子が殺された事件だ。興味が無いわけじゃあない」

「悪趣味、最悪な男、人間のクズ」

「それは言い過ぎだ」

「あんたに人としての良心が残っているうちに帰れ」

「そういうわけにもいかないんだよ。仕事なんだから」

「雑誌記者なんて、ろくでもないのばっかり」

「ひでえ、言い草」

「そもそも」言いかけて橋本は一度、言葉を切った。「そっか、あんたはオカルト雑誌の記者だから本当に宇宙人に攫われたと信じているんだ」

「あんたは宇宙人の存在を信じていないのか」

「当たり前だろ。いつまでも夢見てんじゃねえよ。要するに、あんたは過去の事件を掘り返そうとしているってことだ」

「別に引っ掻き回そうってわけじゃない。昔に何があったのかを調べるだけだ、っていうか伊田亜希子の事件を知っているのか?」

「まあ、名前くらいはね。その時、あたしはまだ高校生だったし、そんなに深くは知らない。でも、どうするかな、ホテルに缶詰めにさせるのが一番手っ取り早いか」

 武田がどれほど言い訳を用意したところで、橋本はきっと、聞く耳すら持ってくれないだろう。であるならば誠心誠意、逆らう意思が無いことを伝えるしかない。

「過去にあったことを、ちょろっと調べて記事が形になったら、それでこの町から離れるよ。それでいいだろう?」

 橋本はじいっと、疑り深く武田を睨む。さすがに刑事なだけあってそれなりに迫力を感じていた。

「三日だけ。三日だけ待つわ。それが終わったら」

「ああ。この町から出ていく」

 橋本はため息を吐いた。「それで、何をする気。また、あの屋敷に向かうの」

「いや、あそこはもういいや」武田は怖いからとは言わずに飲み込んだ。「昨日も既に会ったんだが、北場秀子さんにもう一回会おうと思ってな」

「北場秀子?」

「伊田亜希子の世話をしていた一人だよ。それで車を出してくれるんだよな」

 橋本は忌々しげに武田を見る。無言でエンジンをかけてから、気付いた様に武田をまた見た。「その北場さんの住所は分かってるわけ?」

「ああ。まっ変わっていなければの話だが」

 当たり前のように言う武田を殴りたくなったが橋本はどうにか気を静め、車を発進させた。


「あの家だな」

 手錠を外されて自由を得た、助手席の武田はスマートフォンと前をと交互に見やっていたが、赤い瓦屋根の家を見つけると指差した。橋本が傍で車を停めると、武田はさっさと降り行った。

 追いかけようかと考えたが、警察が駐禁を取られたなんて話になったら、それこそ末代まで笑い種にされる。あいつが妙な動きをしたら、降りて追いかけようと橋本は決めた。

 そんなことなど露ほどにも知らない武田は、家の前に立ち呼び鈴を押す。

 運転席の橋本からも家の玄関が開くのが見えた。誰かが玄関に立っているし、武田が口を動かしているのも分かるが、会話の内容は聞こえなかった。

「北場さん」

 武田と相対した北場は顔をしかめた。

「あなた、まだいたの」

「あんた、遺体で見つかった伊田亜希子の世話係だったんだってな。教えて欲しいことだあるんだよ」

「帰ってちょうだい。私にもこの町にとっても、忘れたい過去なのよ。それに今はもう人に聞かなくたって何でも分かるのでしょう」

「それだけじゃ分からないことの方が多いんだ。人に会って話を聞かないと本当の話は分からない」

 一瞬だけ北場の目が揺れた様子を武田は見逃さなかった。北場秀子は過去に起きた事件を知っている。

「北場さん。頼むぜ」

 武田の懇願に、北場は首を振って静かに扉を閉じ、家の中に消えた。後に残されたのは秋の風に吹かれる武田だけだった。

 橋本は運転席から、突っ立っていた武田を見ていた。

「下手くそ。あたしだったら―」

 橋本は言ってから、気付いたように自分の独り言に小さく頭を振った。その気になるんじゃない、あたしはこいつを監視するだけなんだ。

 まったく気にしていない素振りを見せながらも、軽い足取りで武田は車に帰ってくる。

「まあ、まだ時間はあるよな」

 助手席の武田に、橋本は同意も否定もせずにエンジンを掛けた。「それで、次はどこに行きたいの」

「調査の前に腹ごしらえだ」


 昨日も訪れた蕎麦屋の暖簾をくぐると、店内には客が一人しかいなかった。昼も大分過ぎているから、それも当然かと橋本は武田と共に適当な席に着いた。

 二人に気付いた老婦人が「あら、今日も来てくれたの」と笑顔を向けた。奥では旦那と思わしき老人が、のんびりしていたが客が来たので立ち上がり厨房を行き来し始めた。

「ご注文は?」

「暖かいお蕎麦と―」

「天ざる!」

 武田が元気に答え、橋本は呆れたような表情になる。

 しばらくして、運ばれてきたお蕎麦を二人は黙々と啜っていたが、ふと思い出したように橋本が口を開いた。「そう言えば、あんた、あたしのことを知ってたよね、何で?」

「ああ、あれな」武田は箸を置いて、お茶椀を取った。「この町の町長さんが、あんたが俺のことを探してるって教えてくれたんだ。午前中のことだったけどな」

 そうは説明したが、ただ米持町長のあの口ぶりは探しているというよりも、もっと別の意味を込めているようだと武田は感じていた。加えて、橋本は幽霊屋敷ではっきりと監視と言った。ゴシップ誌の記者だから警戒されているのだろうか。それにしては、警察官を一人寄越すなんて大袈裟じゃないか。

「まあ、大丈夫だろ」武田は誰にも聞こえないように、ぽつりと溢した。

 武田のざるが空になったのを見計らって、店員が蕎麦湯を持ってきた。武田は口笛を吹きながら、つゆに注ぐ。「あちあち」などと言いながら、熱くなったつゆを口に運んだ。

「おばちゃん、この蕎麦湯も美味しいね」

 店の奥から、主人が笑顔を覗かせる。

「お兄さん、町長さんに会ったんかね」

 二人が入るよりも先に店にいた、壮年の男性客が武田に笑みを向ける。だいぶ額が後退し、少ない髪も真っ白だ。武田たちの倍以上の年月と穏やかさを感じさせる。

「ああ、ちょっと太ってるけど。いい人だよな」ちょっと、とはいったが彼のお腹はどーんと飛び出ていた。

「米持さんは良い人だよ。本当に。町のことを一番に考えてくれている」

「へえ、そうかい」

「ああ、他を探したって、あんなに立派な人は見つからないだろうね。町の誇りだよ。傾いていた町の財政も再建させてくれたんだ」

「そこまで言われると、粗を探したくなるけどな」武田は鼻で笑った。

「そんなことはない!前町長に比べたら」

 老人は言いかけて突然、口を噤んだ。

「なんだよ、前町長は悪い奴だったのか?」

「すまんなあ、あまり話したくないこともあるんだ」

「名前を教えてくれないか?自分で調べるからよ」

 男性の雰囲気はひどく重い。「前の町長は東野という男だった」

 武田はわずかに眉根を寄せた。東野といえば伊田亜希子を殺害した、容疑者として逮捕された男と同じ苗字だ。たしか名前は健太郎といったか。それほど広くはない町で、同じ苗字を持つ者が関係ないとは言い切れない。

 壮年の男性は立ち上がると、そそくさと会計を済ませて、店から出て行った。閉じた扉を武田と橋本は眺めていた。

「何か知ってるな、あれは」

「当たり前でしょ、町に住んでるんだから」

「それもそうか」

 二人は会計を済ませて蕎麦屋の暖簾をくぐって出る。

 二人が駐車場で話している様子を物陰からスーツ姿の男が見ていた。携帯電話を耳に当てている。

 体は細身で背が高く、頭髪には白いものも交じっている。表情の無い男の出張った目は、めまぐるしく動き爬虫類を思わせる。

「はい、ええ。記者らしき男と、後を追っていた女が合流しました。はい、そこには、これから向かいます」男は通話を終わらせると、武田たちとは反対方向に離れていく。

 昼間の穏やかな町であっても男が歩くと、そこだけが切り取られたかのように、異質な空間へと変貌する。町の住民は彼を見つけると、それとなく視線を逸らし、まるで存在しないかのように振る舞った。

 やがて、男は赤い瓦屋根の家に到着した。

 周囲をそれとなく見回してから、男は骨ばった人差し指で呼び鈴を鳴らした。

 しばらく待ち、何度か呼び鈴を鳴らすものの反応は無い。立ち去ろうとした男だったが、その彼に声が掛けられた。

「あなたは!」

 北場秀子が立っていた。手提げ袋を持っている。どこかに出かけていたらしい。

「…御用があって参りました…」男は抑揚のない声で言う。「…どこかにお出かけを」

「ええ、ええ、そうよ」北場秀子は濁した。「少し思うところがあって。私に何の用なの。役場の仕事かしら?」

 北場は男にはっきりと敵意を向けていた。男はうろんな目つきで北場を観察するように見た。

「…はい。お伝えしたいことがございまして…」

北場は毅然とした態度で答える。「外で話を聞かれたくはないの。着いて来て頂戴」

「…お邪魔します…」

 緊張感を持ったまま家に入る北場秀子の後に、男は静かに続く。

 扉がゆっくりと、音も無く閉じられた。


「Y町の東野町長って検索しても出てこないな。いったい何をしたんだろうな」

 橋本の運転する車で、武田はだらしなく助手席に座る。そんな彼と目の前の道路とを、橋本の視線は恨めし気に行き来する。時折、ぶつぶつと文句を言いながら「こっちで合ってるのかなあ」と溢していた。

 二人は県道を北に進み、町の外れにある農作業小屋を目指していた。

「伊田亜希子の遺体発見現場に行こうぜ」

 それが蕎麦屋を出た武田の開口一番だった。橋本も一応は刑事という身分を持つ。だから彼女がいつ食事を取ろうが、凄惨な現場は待ってくれない。片手で数えるほどしか、そういった現場には訪れてはないが、その度に橋本は吐き気と戦っていた。

「もう十年近く前のことだぜ?何にも残ってないっての」

 駐車場で苦笑いを浮かべる武田を、橋本は渋い顔で睨んだ。この男は妙に勘の鋭い所がある。何か過去に特別な経験でもしたのだろうか。

「じゃあ、行く意味もないでしょ」

「行くことに意味があるんだよ。それに現場に行けば、何かに結びつくかもしれないだろ?」

 橋本が車のカギを開けると、武田は勝手に助手席に滑り込む。

「ささ、早く出してくれよ。タイムイズマネーだ」


「あれが例の小屋か」

 道路わきに停めた車の中から、二人はトタン屋根の物置を見ていた。周りには畑が広がり、視界を遮る物は見当たらない。だだっ広い畑の中にぽつねんと立っている。道路から物置へと細々と続くあぜ道のさらに奥は、もう山へだった。

「なんで分かるのよ?」

「ほらよ」と武田は橋本にスマートフォンの画面を見せつける。今外に見えているトタン物置と同じ画像が映っていた。

「誰かが勝手にやっている事件の考察サイトだ。じゃあ、近くに行ってみようぜ」

 さっさと降りて行ってしまった武田の後を、橋本はエンジンを切ると渋々着いて行く。まあ、取り締まりもないだろう。

 あぜ道をとぼとぼ進んで、到着したトタンの物置はすっかり寂れてしまっていた。屋根だけと言わずに全体が土と錆に塗れている。それほど大きくも無く大人が入るには、屈む必要があるように思えた。

「すっかりボロボロだな。残っているだけマシか」

 武田が物置の向こう側に回っても、彼の頭頂部が見える。目測だが二メートルはない。身を隠すにはしっかりと、腰を落となさいといけないだろう。

「道具置き場なんだろうな」

 武田は勝手に物置の口を開いていた。中にはスコップやら鍬やらがしまわれてあった。

「ここで、伊田亜希子を殺すことは可能か?」武田は中を覗き込みながら言う。

 橋本は周りを見回した。「中は狭いし、辺りは畑が広がってる。だから見晴しもいいし、車の通りがまったくないわけでもないから、昼間は難しいと思う。でも、深夜だったら話はべつ」

「情報が少ないな。伊田亜希子がいつ殺されたのかが分からないと」

「だから、言ったじゃない。来る意味なんてないって」

「犯人は犯行現場に帰ってくるそうだ」

「時を超えて?」

 振り返った武田はニヤリと笑った。「中々、面白い冗談だ。警官にしとくにはもったいないな」

 橋本は鼻を鳴らしただけだった。

「もう少しだけ、探してみようか」と武田はぶらぶらと周りを練り歩く。

 手持無沙汰だった橋本は、時々腰を落として土をほじくる武田をぼんやりと眺めていたが、昼過ぎの秋の陽気と先ほど取った昼食が合わり、立っているだけでも睡魔がじわじわと襲って来ていた。

 ふああ、と橋本が欠伸をこぼすと、目敏く見つけた武田と目が合った。

「お休みになられてはいかがですか?」

 わざとらしい敬語と満面に嫌味な笑みを浮かべる武田を、蹴り飛ばしてやろうかと一瞬横切ったが、橋本は無表情を作って背を向け車に向かう。別に休むわけじゃないと心裡で呟く。

「痛っ」

 橋本の靴の裏に、何か硬い触感が伝わる。上げて足元を見れば、土の中で丸い何かが半分埋まっていた。摘まんで拾い上げる。

「これ、ボタンだ」

 大きさから鑑みるにズボンの物だろう。男性用か女性用かの判断はつかないが、でも一体なんでこんな所にと、橋本は目の前にボタンを持っていく。

「なんかあったか?」

 武田の声に橋本は持っていたボタンをそれとなく胸ポケットに入れた。

「別に、何も。さっさと終わらせてよね」

「もう少しだけ、時間をくれや」

「残り時間くらいは、あんたの好きにすれば」

 その後も日が落ちる時間まで、武田は物置をうろうろしていたが寒風に体を震わせると、橋本が待っていた車に足早に戻って行った。


 夕日も山間に消えかかった頃、武田の宿泊する「ホテルのいいだて」が見えてくると、橋本は速度を緩め駐車場に入った。ホテルの玄関ロビーは暖かみの感じられる照明が満ちていた。

「じゃあな、明日もまたよろしく頼むぜ」

 武田が言って降りようとすると、橋本がエンジンを切った。

「あたしも泊まるから」

「同じ部屋にか?」

 瞬間、振りかぶった橋本は武田の頬を鋭く叩く、乾いた音が響き渡り、武田は涙目になって頬を優しく擦る。

「悪い。言い過ぎた」

「分かればいいんだよ」橋本は熱くなった自分の掌を振っていた。

「別に逃げたりはしねえからよ。なんだったら代わりに頼まれて欲しいことがあるんだ」

「あんたのパシリじゃないんだけど」

「伊田亜希子が発見された当時の状況を調べて来てくれないか。あんた、警察だろ?簡単に調べられるはずだ」

「あのねぇ」

「記事になる情報が増えれば、その分、俺が町から離れる時期も早くなる」武田はメモ用紙を取り出して、ボールペンを走らせると橋本に紙片を手渡した。

「俺の電話番号だ」

 橋本は紙片をポケットにしまう。「逃げ出したりしたら、果てまで追いかけるから」

「逃げてくれた方がいいんじゃねえの?」

 橋本は返答せずに、車にエンジンを入れる。荒っぽいハンドルさばきで駐車場を出ると、そのまま加速して道路を飛ばして行った。

「まったく」

 ホテルのロビーに入った武田を出向かえたのは、昼間、チェックインを受け付けた大男だった。カウンターに立つ大男の胸元にある名札を見れば飯館とある。きっと親族経営なのだろう。

「武田さま、御言伝を預かっております」

「俺にか?」暖房の焚かれたロビーに、武田の冷えた体が温まっていく。

「ええ。お昼過ぎに北場秀子様がお見えになりまして」

「ああ、そうか」幽霊屋敷の後に寄った甲斐があったと武田は頷いた。昼過ぎと言えば、蕎麦屋に入る前くらいだ。「それで、内容は?」

「それが直接、お話をしたいとのことで、明日の午前中に北場様のご自宅に伺って欲しいそうです」

「なるほどね、りょうかい、りょうかい」まあ、また明日行けばいいか。

「お食事のお時間は如何なさいますか」

「えーと」少し調べたいこともある。「八時半ぐらいで」

「かしこまりました」


 真っ直ぐに警察署に向かっていた橋本は自分の鞄が震えているのに気付いた。

 車を停めると、鞄から携帯電話を取り出す。武田かと思ったが、そもそも奴は橋本の電話番号を知らなかった。名前を見れば先輩刑事の一人だった。

「はい、橋本です」

「橋本、お前、今どこにいる」

「どこってY町から帰る途中ですけ―」

「今すぐに戻ってくれ」

「なんですか、急に」

「通報があった、どうやら町でホトケさんが出たそうだ」

「えっ」橋本の鼓動が早くなる。「名前はどなたか分かりますか」

「待ってくれ、ああ、キタバという名前らしい」

 暗い車内の中、橋本は息を飲んだ。「もしかして北場秀子という名前の方では」

「ああ、どうやら」電話の向こうで紙を捲る音が聞こえる。「お前の言う通りらしい。なんで知っているんだ?」

「死亡時刻は」橋本の声は震えていた。

「まだ何も分かってない。とにかくお前も―」

 先輩刑事の声が遠くなっていく。橋本の脳裏には昼間の出来事が思い返されていた。視線は虚ろで焦点も合っていなかった。

 気付いた時には、通話は終わっていた。

「あいつに知らせないと―」

 橋本はメモ用紙に書かれた、武田の電話番号を押そうとするが、指の震えが止まらなかった。幾つもの感情が胸の中でぶつかり合っては渦を巻き、橋本は必死に吐き気を堪えていた。

 ぽつりぽつりと車窓を雨粒が叩き始めていた。

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