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帰って来た少女  作者: loveclock
第一部
5/6

忍び寄るもの_3/20/1990

前回までのあらすじ

 夜、交番前で目に見えない何かに遭遇した小島警察官は慌てて、交番内に逃げ込む。その後、彼の所に現れたのは、香具町に住む石田雄二少年だった。彼は小島が赴任するよりも前に、見えない何かに遭遇していた。


 家の塀に隠れて立つ石田雄二の背中を、まだ冷たい春の風がなぞっていった。

 彼の手にはデパートのロゴが印刷された紙袋があった。それは雄二の体格に似あわずに大きく、紙袋には角ばったシルエットが浮き上がっている。

 雄二の視線は斜め向かいに立つ東野町長宅へと向けられていた。

 東野家の玄関前にはスーツ姿の東野健太郎と両親が立っていた。彼の傍には、荷物の詰まっているであろう鞄が置かれてある。

 いよいよ訪れた健太郎の晴れ晴れしい旅立ちの日を、彼の両親は笑顔で送り出そうとしていた。

 普段は厳めしい表情しか見せない、父親の町長は笑顔になっている。東野健太郎は両親を無視するかのように、唇を固く結んでいた。泣いているのではないと雄二は感じていた。

 覚悟を決めた顔だった。

 親子は車に乗り、東野宅を出発した。母親が見送る。雄二は一層身を小さくし、塀から頭だけを覗かせて、助手席に座る健太郎をじっと見つめた。だが、健太郎が雄二に気付くことはなく、車は遠く離れていく。

 いよいよ、小さくなった車体が信号を曲がって消えると、雄二は、誰に気付かれて困ることもないのに、こそこそと塀から離れた。

 ふと、足を止めた雄二は自分の持つ紙袋を覗く。中には天体望遠鏡が大きく描かれた箱があった。

「これ、預かっておいてくれ」

 町に異変の起きたあの夜、健太郎から言われたことを守っていた雄二だったが、健太郎が去った今日の日ですらも彼には会えなかった。

 雄二の胸の内で、どうにもならない寂しさが膨れ上がる。目じりにうっすらと涙を浮かべながら、彼はぐずぐずと帰路に着いた。


「雄二ぃ」

 とぼとぼと歩いていた雄二は顔を上げる。どうやら町内に数少ない公園近くまで来ていたようで、その入り口には満面の笑みで田中義男が立っていた。バットを肩にかけ、その先に一つグラブを掛けている。左手にもグラブがはめられてあった。

「義ちゃん」

「野球しようぜ」

 言って義男は雄二の腕をつかむと、無理矢理、公園に引き込んだ。諦めて紙袋をベンチ傍に置いた雄二に向かって、義男は遠慮もなしにグラブを投げ渡した。

「そりゃ、いくぞ」

 否応なしに受け取ったグラブを雄二が手にはめる前に、義男が軟球を投げる。雄二は思わず顔を反らしてどうにか避けた。雄二が慌ててボールを追いかける様子を、義男は踏ん反りかえって見ていた。

 雄二は軽く腕を振ってボールを投げ返し、そのあとも二人は淡々と無言でボールを投げては返していた。

「それ、健兄に返すやつだったんだろ」

 義男は顎でベンチ傍に置いてある紙袋を指し示し、雄二は黙って頷いた。

「お前、会わなかったのかよ?」

 あの夜以降、健太郎の態度が一変していたと、雄二は勝手に感じていた。

 健太郎の表情には、まるで他者を寄せ付けないような緊張感が表れており、それは雄二を恐怖させた。度々、雄二が健太郎を訪ねても部屋に籠りきりだったか、あるいはどこかに出かけていることが増え、雄二との接点は急激に減った。

「お前、弱虫だから寂しいんだろ」

 カチンときた雄二は、義男めがけてボールを握りしめた右腕を振り回した。軟球はまっすぐに義男の胸元に飛び、義男は難なくグラブに収めた。

「今のフォーム、斎藤に似てたぜ」義男は雄二にボールを投げ返した。

 しばらくの間、二人の間を乾いた音だけが行き交った。ボールを受け取った義男は、背筋を伸ばすと、グラブを高く掲げた。体を大きく捩じって雄二に背中を向けると左足を上げて、右足だけで立つ。

 体を捩じった反動でボールを投げようとするものの、義男はバランスを崩し、ボールを地面に叩きつけた。高く上がったボールは何度か跳ねて、雄二の足元に転がる。

「へへっ、近鉄の野茂の真似だったけど、失敗しちまった」

 雄二はボールを拾いあげると、グラブに入れた。

「どうしたんだよ、雄二」

「僕、もういい」

 雄二は義男にグラブを押し付けると、背中を向けた。

「おい、雄二!」

 義男が呼び止めても雄二は振り返らない。ベンチ傍に置いておいた紙袋を持つと、公園を出ていこうとする。

「俺、健兄と秘密を持ってるんだぜ」

 振り返った雄二だが、彼は義男を睨み付けただけだった。

「そんなの知りたくない!」

 雄二は紙袋を抱え、駆け足で公園を去って行った。遠くなっていく背中を見送っていた義男だったが、唇を尖らせて転がっていた小石を蹴飛ばすと、トイレの壁に向かってボールを投げ始めた。


「お帰りなさい、雄ちゃん」

 家に帰った雄二を居間で迎えたのは彼の母親だった。「どう?健太郎君にお別れは言えた?」

 雄二は居間を見ずに黙って首を横に振った。母親は雄二の持っていた紙袋を見て「そう」と溢しただけで、それ以上は聞かなかった。雄二は俯いたまま階段を音を立てて駆け上がると、自分の部屋に入り鍵をかけた。

 数歩歩いて部屋のクローゼットを開くと、静かに紙袋を置く。すっかり傷と皺だらけになってしまっている。慌てて、箱を開けたものの中の天体望遠鏡の白いボディは新品のように静かに輝いていた。

 異変の起きた、あの夜に健太郎は何を見て何を知ったのか。町を出ていってしまった彼に聞くことはもう出来ない。

 もう三月も終わる。四月になれば中学生になるが、果たして自分に友達が出来るのだろうか。すぐ泣き出してしまうような、くよくよした性格の自分と誰が友達になるというのだろうか。

 自分のことを心の底から理解してくれる人など、健太郎以外にはいない。たとえ親であろうとも本心から分かっていないだろうと、雄二は強く感じていた。

 雄二は孤独になってしまった。

 これからのことを考えると、彼の目尻に涙が浮かぶ。次第に涙粒は数を増し、頬を濡らし始め、雄二は顔を隠すようにして勉強机に突っ伏した。そして、そのまま動かなくなると、寝息を立て始めた。

 しばらくして雄二の部屋の戸を母親が控えめに叩いたが、返事は無かった。部屋の前で様子を伺うようにして逡巡してたいたが、結局、不安を感じながらも母親は静かに階下へと戻って行くだけだった。


「雄ちゃーん」

 雄二は真っ暗闇の中で目を覚ました。窓向こうの夕日はすでに沈みかけている。夕飯の時間かと雄二は体を起こした。部屋を出て階段を下る途中で、足音を聞きつけた母親が、ひょっこりと顔を覗かせる。

「もう、夕ごはんなの?」

「それがね、お醤油が切れちゃったのよ。お使い、行ってくれるかしら」

 雄二は静かに顎を上下させた。母親は彼に小銭入れを渡すと台所に戻って行く。

「いってきます」雄二は消え入りそうな声で言うと外に出た。

 玄関の外は夕闇が広がっていた。雄二は過去に、健太郎から夕方は逢魔が時だよと教えてくれたことを思い出した。「この時間になると、幽霊や妖怪と遭遇しやすくなるんだ」

 雄二は本気で恐れていたが、父親から「それは昔の話だな」ということを教えてもらってからは幾分か、気も軽くなっていた。

 近所の同級生が経営している商店までは自転車で行っても十分もかからない距離にあった。少し早歩きで行けば、かかる時間もそう変わらないはずだ。

 仕事を終えた人々の往来で賑わう商店街を雄二は独り行く。どこからか漂って香るコロッケも彼の食欲は刺激しない。

 雄二は俯いたまま商店街をまっすぐに抜けて、どこともなく歩きだした。朝からずっと抱えていた寂しさを、たとえ晴れないとしても、どうにか紛らわしたかった。

 春から中学生になる雄二にとって、東京はどうにもならない程に遠く感じられた。果たして健太郎がいつまた帰ってくるかも分からない。会いに行くためのアルバイトなんて両親が許してくれるはずもないだろう。

 気分が晴れることは無く、ますますをもって雄二の心が沈んでいく。とぼとぼと歩いていた雄二は顔を上げた。母から、お使いを頼まれていたことをすっかり忘れていた。振り返ると、誰かが走っているのが見えた。

「あれって、健兄の―」

 東野健太郎の父親だった。

 息子を送って、もう帰ってきたのだろうか。だが、それ以上に今の町長は早足で、一心不乱という言葉が当てはまると雄二は思った。周囲に気を配る余裕も感じられない。そろそろ夜になろうという時間に、どこかへ出かける用事でもあるのだろうか。

 雄二はお使いのことなど、すっかり忘れて町長の後を着いて行く。

 健太郎の事が聞けるかもしれないと、東野の後を着いて行くと、段々と町の中心から離れていく。気付いた時には裏山の方が近くにあった。

 東野町長の行く手に、まだ建設途中の建物が見えた。

「確か、植物園になるはずの」

 いつからか建築の始まっていた植物園だった。開館は夏前になると噂されていたが、すでに建物自体は出来上がっているようにも見える。きっと、まだ細かい所が完成してないのだろう。

 フェンスに囲われている建設現場の入り口に立った東野は、辺りを注意深く見回すと、関係者用の扉を潜って行った。

「こんな時間に何しに入ったのだろう」

 雄二は東野がフェンスの向こう側に消えたのを確認してから、建設現場に近づく。

 フェンスに囲われた奥には、まだ何の装飾もされていない、裸のコンクリートの建物がある。エントランスらしき出入り口にはドアも無く、ぽっかりと口を開けたままだった。

 雄二が東野の通った扉に近づくと、施錠がされていなかった。やけに辺りを注意深く探っていた割には不用心だな、と思いながらも雄二も後に続いて、潜る。

 建設現場に灯りはない。よその光がどうにか届くか、という程度で、そのせいか雄二の感覚も不安定だった。彼の目の前に広がる植物園予定の敷地が、見た目以上に広く感じられる。後々、駐車場になるであろう現場を、雄二は腰を屈めて駆け抜ける。

 建物に近づいた雄二は首を曲げて、見上げた。まだ扉の設置されていない建物の入り口は、ぽっかりと口を開けている。風が入り込み、呻きのような響く声を立てる。まるで飲み込まれていくように、雄二は暗闇に入って行く。

 エントランスホールは空っぽだった。

 建築資材がそこかしこに点在しているだけだった。天井を見上げると、細い鉄の枠組みだけが蜘蛛の巣を張ったように伸びている。きっと、あそこにもガラス板がはめこまれ、日が差し込む天井になるはずだ。

 雄二は空っぽの館内を見回した。

 東野町長はここを通っていたはずだ。それとも見間違いだったのかと考えて、頭を振った。絶対にここに入って行ったはずなんだ。

 雄二は探るように一歩一歩、ゆっくりと歩を進める。さっきからずっと暗闇に居るおかげで夜目に慣れてきたとは言え、何かを踏みつけてしまわないかという不安はあった。

 雄二が向けた低い位置への注意が、エントランスホールから伸びる廊下に、ほんのりと灯る光を見つけた。物に隠されて淡い光を放つ灯りは、点々と廊下の奥へと続いていた。

 誰かが、もう使っている。

 まだ建物の外観も出来上がっていないのに、電気だけはもう通っている。いや、当たり前のことなのかもしれないと、雄二は頭を振った。そろりそろりと、エントランスホールを抜け廊下に立つ。この先にきっと何かがあるはずだ。そう考えた時だった。

 がたり、と雄二の背後で物音がした。

 思わず、振り返る。エントランスホールは相も変わらずに漆黒に満ちている。けれど、それだけだ。新しく何かが変わったようには感じられない。

 気のせいだったと雄二は自分に言い聞かせた。それでも、雄二の足は震えていた。再び、廊下に歩を進める。

 がったん、とさっきよりも強く館内に物音が響いた。

 間違えようがない。確実に雄二の耳に物音が届いた。雄二は動けずにいたが、振り絞るように声を出した。

「町長さん、ですか」

 雄二のか細い声は暗闇に吸い込まれて消えた。

 がたがた、とホールに物音が響き、雄二は慌てて物陰に隠れた。じっと身を潜めて辺りを伺う、彼は自信の視線が見つけたもの気付き、縛られたように動けなくなってしまった。

 四角い機材が宙に浮いていた。

 まるで重力を忘れたかのように、四角い機材が浮いている。ふよふよと、ただただ静かに漂っている。

「え?」

 雄二が見ている前で、エントランスホールに浮かぶ物体の数が増え始める。ホールに置かれていた、ありとあらゆる資材や道具が浮かび、そして、ゆっくりと動き始めた。

「どうなってるの」

 宙に浮いていた、資材たちはぐるぐると円を描いて動き、それらは次第に加速していく。

 まるで台風か竜巻のようだと雄二は恐れた。映像だけで、実際に見たことは無かったが、それでも実感させるには十分なほどの強さを持っていた。

 エントランスホールに吹き荒れる嵐に対して、雄二は身を屈めていることしか出来なかった。渦から外れた道具が飛んで、壁にぶつかる。雄二の耳に乾いた音が届く。

 今すぐにでも、ここから逃げ出したかった。だが館の出口は丁度、雄二の真向かいにあり、逃げるためには嵐を突っ切って行かねばならなかった。

 誰かが助けに来てくれるだろうか。町長はいまどこにいるのだろうか。これは、もしかして実は町長が雄二の存在に気づいていて、懲らしめるためにしていることではないか。謝れば許してくれるのではないだろうか。雄二は半泣きになっていた。

 その恐怖の中、雄二は渦の中心を見た。

 何かが、そこにいた。

 それの背後を機材が通るたびに、一瞬ではあるが、機材がまるでレンズを通して見たかのように歪む。雄二は暗闇の中、目を凝らした。いや、何かがそこにいるのが見えた。見えるという表現はおかしいと雄二は感じていたが、それでも雄二の目に確実に何かが見えていた。

 姿も色も無い、何かが渦の中心にいる。

 透明人間だ。

 この渦は町長が起こしたものではない。誰も助けに来てはくれない。雄二の母親も彼の居場所を知らない。きっと、いつまでも帰ってこない息子を心配しているに違いない。

 健太郎にも会えなくなる。

「健兄ちゃん、ごめんなさい」

 雄二は呟くと涙と鼻水を垂らしたまま、俯いた。

 諦めた雄二の耳に、物同士が激しくぶつかり合う音が聞こえてきた。驚いて心臓ごと飛び上がった雄二は、目に入った光景に固まった。

 さっきまでエントランスホールに吹き荒れていた嵐が止んでいた。

 ホールのそこかしこに機材や道具が散らばっている。無秩序の様相は、まるで遊び飽きた子供がおもちゃを放りっぱなしにしたような印象を付ける。

 さっきまでの騒ぎが嘘のように静まり返り、雄二はハッとして顔を濡らしていたものを拭うと、出入り口に向かって無我夢中になって駆け出した。もう何も考えないようにしていた。少しでも意識を巡らせてしまえば、見えない何かのことを考えてしまうに違いない。

 この町には何かいる。

 あの夜以降、町は変わってしまったと雄二は確信していた。


「そうか、君も同じものを」

 まだ冬の寒さも残る中、小島三郎警官と石田雄二は交番で向かい合って座っていた。

 雄二の体験した話を聞く前に、小島と共に交番に駆け込んだ老人は、躊躇いながらも「だ、大丈夫さ」と言い残して交番から去って行った。

 小島は腕を組み、昼間と同じように相対して座る少年を見つめる。

 とても嘘を吐いているようには感じられない。小島自身が先ほど同じようなことを体験したせいでもあった。

 この町には何かが存在している。

 純朴で内向的な少年が、ただ周囲の気を引くために出鱈目を並べた訳ではない。石田少年は命を落としかねない体験をした。

「君は見えないといっていたね」

「奴らはいろんなところにいるんです」

 小島は頭を抱え狼狽する。「ちょ、ちょっと待ってくれ、君は他の場所でも透明人間を見たっていうのか。植物園だけじゃないのか」

 雄二は静かに頷いた。「あの後も、あちこちで見ました」

 それもそうか、と小島は小さく頷いた。植物園と交番だけに、都合よく現れるはずもない。果たして、目的が何なのか見当もつかないが、何かしらの法則なりがあって出現を繰り返しているのだろう。

「お願いします。町を守りたいんです。健兄ちゃんが帰ってくる町を守りたいんです」

 泣きながら懇願してくる雄二に小島は黙った。

「だけど、どうやって透明人間と戦うんだ。相手は目に見えないんだよ」

「それは―」雄二は黙ってしまう。

「今日はもう帰りなさい。お母さんも心配しているよ。送って行ってあげるから」

 小島は石田の家に電話をかけて連絡を取ると、自転車の後ろに雄二を乗せて交番を出発した。

「君が、その植物園で透明人間を見た後はどうしたのかな」

「商店街まで走って逃げて、それでお母さんに会ったんです。心配してくれて探していました」

 小島は一時の気の迷いで見てしまった幻と思いたかった。赴任したばかりで、知らず知らずのうちに疲労とストレスが溜まっていたのだ。だから、妙なものが見えてしまったと思いたかった。

「なあ、雄二君。僕は警察官になったばかりだから、まだ頼りないかもしれないけど、それでも任せてもらえないだろうか」

 小島は自転車をゆっくり漕ぐ。「君はまだ子供だ。勉強もたくさんしないといけないだろう。恋もするかもしれない。親御さんだって、自分のとこの子が、妙なことに首を突っ込んでいたら気が気じゃないと思う」

 ちらりと背後を見ても雄二は黙っているだけだ。住宅街を進んでいると、やがて雄二の宅が見え、玄関に雄二の両親が立っているのが見えた。

「雄二」

 二人は心配も露わに息子を呼んだ。雄二は自転車から降りると小島の影に隠れる。少しも視線を合わそうとはせずに、二人の横をするりと抜けて家の中に駆け込む。外からでも、彼が階段を駆け上がる音が聞こえてきた。

「お巡りさん、申し訳ない」雄二の父親が深々と頭を下げる。「うちの子が迷惑をおかけした」

「いえいえ、平気ですよ」

 小島は雄二の母親を見た。昼間、見た時と同じように彼女も困ったような顔をしている。

「反抗期なんでしょうか」

 おずおずと言う母親に、小島は答えあぐねていた。きっと両親にも話していないのだろう。だから、金物屋で刃物を万引きしようとしたのだ。彼はたった一人で透明人間と戦おうとしている。

「大丈夫ですよ。時間が経てば雄二君から、お話してくれるようになりますから」

 果たして、かつての自分はどうだったろうかと思いながらも、小島は石田宅から離れる。自分に何が出来るのか。小島自身にも分かっていなかった。

 ぽつりぽつりと手の甲に当たるものを感じ、小島は空を見上げた。いつからか空には灰色が広がっていた。

「今晩くらいは持つだろうさ」


 住宅街をふらふらと自転車を漕いでいた小島だったが、気付けば彼の視線の先には町でも有数の屋敷があった。自転車を停めて、屋敷の二階にある窓を見上げる。温かみの感じられる、灯りのある部屋の窓からはピアノの音が聞こえていた。

 ぼんやりと音色に聞き惚れていると、窓辺に立つ影があった。影は小島に気付くと、窓を開く。女性の長い髪が風にふわりと、揺れる。

「お巡りさん、こんばんは」

「八木さん、こんばんは」美智子さんと呼ぶ勇気はなかった。

「パトロールですか」逆光であっても、八木のたおやかな雰囲気が伝わってくる。

「ええ、まあ」パトロールかと問われれば、また微妙なところだった。

「気を付けてくださいねぇ」

 手を振る姿も華やかだなと思っていると、ゆっくりとカーテンが引かれ、八木美智子の姿が消える。分かってはいたことだが、小島も気持ちも少しだけ沈んだ。

 停めていた自転車に跨がると、小島はとぼとぼと交番に帰って行った。


 交番に帰ってきた小島は、交番の中から闇夜をじいっと眺めていた。

 交代の時間までは、たっぷりと時間が残されている。再びパトロールに出かけるべきか、それとも明け方になって代わりがくるまで雑務をこなしているか。

 透明人間。

 町にはきっと何かがいる。いつから、それが出現し始めたのか。

 石田雄二少年の不安を取り除くことを考える必要があると、小島は感じていた。

「目に見えない奴を、どうやって捕まえるんだ」

 小島は誰に聞かせるでも無く呟くと、眠気覚ましにストレッチを始めた。どうせ、またパトロールに出ないといけない。いつでも素早く動けるように体を温めておかねばならない。

 しばらくの間、雑務をこなしていた小島は日付が変わる頃になると交番を出発した。一通り町内を見て回り、意外なほどに静かで肌寒い夜を自転車で駆け抜ける。

 特に何も起きず、彼は再び交番に帰ってきた。

「さすがに疲れてきたな」

 薄らと空が明るみを帯び、色が変わっていく空の様子を小島はぼうっと眺めていた。すると、外から慌ただしい足音が聞こえてくる。

「おっ、お巡りさんっ」

 町に住む老人だった。息が上がっている彼の様子は、朝の散歩というには忙しなく感じられる。

「どうかしましたか」

 小島も軽く駆けて近づいた。小島の両腕を、老人は力強く握り締め叫んだ。

「人がっ、人が死んでいるんだよっ。死体がっ、死体がっ」

 小島の顔から血の気が引いていく。「それはっ、どこにっ」

 老人は誰が見ても明らかに動転していた。「こっちだ、着いて来てくれっ」

 自転車に跨った小島は老人と共に、早朝の町へと飛び出して行った。


 雨が降り始めていた。

 老人と共に息を切らして到着した小島の目の前に、町の裏山へと続く雑木林が広がっている。

「あっちには、植物園か」

 小島の立つ道路を右手に数百メートル進めば、石田雄二少年の話に出てきた植物園があった。

「お巡りさん、あっちだよっ」

 老人が指差した先は、雑木林だった。小島は、ここで待っていてくださいと、言いかけたものの老人は茂みを掻き分けてずんずん先に行ってしまう。小島は自転車を置いて老人の後に続いた。

 茂みを抜けた小島は目の前に広がる光景に、足を止めた。

 雑木林の中の開けた場所には、バケツがひっくり返されたように血が広がっていた。濃い異臭が鼻を突き刺すが、冷たい湿気を孕んだ風が運んでいく。

 だが、老人の言う死体はない。 

 血の量と広がり方を見ても、ここで殺人が行われたことには間違いがなかった。だが、肝心の死体が見当たらない。死体だけが独り歩きしてしまったかのようでもあった。

「おかしいな、確かにあったんだよ」老人の声は震えていた。

 小島は周囲を見回す。誰かがここで殺人を犯し、恐らくは様子を老人に見られたために、遺体を隠し自身も隠れた。老人が離れたのを見計らって遺体を運び去ったのだろうか。だとすると、犯人はもう見つからないだろう。遺体を処分するために、山中へと運んでいる途中かもしれない。

 小島はふと、違和感に気付いた。きょろきょろと見回して、その原因を見つけると一本の木に近づいた。

 一本の木が大きく半身を抉られて、折れていた。

 さらにまた別の木も同じように、折れているのに気付いた。削られたとか、チェーンソーで綺麗に切断されたものではない、もっと原始的で荒々しさすら感じられる。無理矢理、捩じって千切られた、そんな印象を受けた。

「なんだってんだ、これ」

 老人も気付いたようだった。「こんな、おめえ、こんな折れ方なんて、一体どうやったら出来るっていうんだよ」

 老人は折れた木を慰めるかのように撫でる。

「こんなの人間の業じゃない、もっと恐ろしい何かの仕業だ」

 小島は老人と折れた木を交互に見てから、呟いた。

「人間の仕業ではない」

 ぽつぽつと弱々しく降っていた雨が次第に強く、小島の肩を叩き始めた。だが小島はその場に立ち尽くしていた。

 県警に連絡して、現場を保存しないと雨が全てを洗い流してしまうだろう。時間は無い。だが、それでも小島の脳裏をよぎっていたのは、まったく別のことだった。

「透明人間なのか」

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