猫は導く_10/20/2019
前回までのあらすじ
差出人不明の荷物を受け取った武田は過去に起きた殺人事件を調べるためにY町に向かう。当時を知る警察官の小島に事件を尋ねるものの、彼は何も言わずに武田から去っていくだけだった。
「司法解剖の結果、亡くなった被害者からも同様の薬物が検出された。以降は、容疑者と共に薬物の出どころも並行して捜査をするように。以上、解散!」
ろくに予算も与えられない古ぼけた大会議室に並んで腰を落としていた男たちが、号令と共に一斉に立ち上がった。まるで壁だと橋本遥は彼らの背中を眺めながらも続く。
「橋本」
意気込んだ先輩方の後に着いて会議室を出ようとした橋本を、厳めしい顔の上司の一人が呼ぶ。女性の少ない警察署で呼ばれることなど、お茶汲み以外では滅多にない。橋本は彼に負けないくらいに表情を締めて歩み寄る。「なんでしょうか」
「捜査から外れてくれ」
最悪だ、と橋本は心の裡で溢した。言っていることが信じられなかったし、信じたくも無かった。「どうして、あたしが」
「上からの命令だ。着いてこい」
既にほとんどの捜査員が出ていった会議室内に残っていても、上司と共にいる橋本を気に掛けている者もいない。悔しくもあり、情けなくもあった。
「Y町を知っているな」廊下を早足で行きながら上司は言う。
「知ってます。県内の内陸側にある町です」橋本は頷きながら答えた。
「妙な男がうろついているらしい。そいつの監視だ」
休憩室に入ると上司は先客を手で払って追い出し、煙草を咥えて火を点けた。「上からの通達だ。記者らしき男を監視し、逐次報告しろとのことだ」
「容疑者なんですか?」
「知らん」上司は煙草の煙を天井に向かって吐き出す。
「納得がいきません」
「悪いが組織とはそういうものだ。幸い、お前がいなくても事件は何とかなる。お前の力が発揮されるのは別の事件でだよ」
睨み付ける橋本の無言の抗議も、上司は全く意に介さない。彼にとっては言伝ついでの休憩時間でしかないのだろう。しばらくの間、煙草の煙を燻らせていたが吸い殻入れに押し付けると、橋本の肩を叩いた。
「詳しいことは書類で届く。まあ、頑張れよ」
上司が休憩室を先に出る。誰もが足早に心の余裕なく行き交う警察署内の中であって、橋本遥は取り残されたように、去っていく上司の背中を睨むことしかできなかった。
「中々、時間のかかりそうな男だったなあ」
誰に聞かせるでもなく武田は独り言を溢す。少し歩いて、ゆく手にくすんだ色の建物が現れる。それなりに広い駐車場には車は一台も停まっていない。建物の屋上には巨大な看板が立っている。
「ホテルのいいだて、か」
ベージュ色の外壁の塗装が剥がれて、巨大なヒビ模様が走っている。建物の隅は黒く煤けたように汚れていて、窓は小さいうえに数が少ない。本当に宿泊施設か、と武田が思いつつも入り口を見れば、ガラス張りの玄関の奥にはロビーとカウンターが見えた。
「ネットで予約したはずなんだが、やってんのかね」
ロビーに明かりは点いておらず、武田の足取りはどうにも重い。辛うじてカウンターの奥から蛍光灯の光が漏れているのが見えるだけだった。
「節電にしたって暗すぎだろう」
ホテルの入り口に立つとガラス戸は自動で開いた。「ああ、一応は営業しているんだな」と安心するものの、ホテルのロビーに入った瞬間、武田の周囲から光が吸い込まれるように去って行った。
本当に明るさがない。まるで一息に怪物に飲み込まれたようで、武田は足を止めた。ロビーには非常口を知らせる緑色の蛍光灯だけ煌々と光っていたが、それがさらに不気味さを引き立てる。
「いやいや、やっているはずだ」と武田は自分に言い聞かせる。もう帰りたい気持ちでいっぱいだった。いっそのこと野宿の方が、と思ってしまうほどだった。
恐る恐る受付カウンターのベルを鳴らすと、暗いロビーにちんっと物悲しく響いた。ベルも精いっぱいの勇気を振り絞って鳴ったのだなと、武田は同情していた。
二度、三度続けて鳴らすが、音は虚空に吸い込まれて消えて行った。もう帰ろう。タクシーを呼べば、どうにかなるだろうと武田が踵を返した時だった。
「いらっしゃいませ」
受付カウンターの奥のカーテンから大男がぬっと姿を現した。天井に頭が擦れそうなほどに背の高い男の登場に、武田は目を見開いて固まった。
「ご予約の武田様ですね」垂れ目の大男が見下ろす。
武田は昔に観た映画を思い出していた。たしかあのホラー映画はネジが頭を貫通した大男が吸血鬼の従僕をしていた。もしかして、ここは吸血鬼のねぐらなのではないか。
「はい」武田はすっかり声が裏返えってしまった。
「お部屋の準備はできとります。こちらが部屋の鍵でございます」
やや訛りのある大男から部屋の鍵を受け取る。透明のアクリルの棒が鎖でつながられた鍵には、部屋番号が刻み込まれてあった。
恭しく頭を下げた大男を後にして、武田は逃げるように部屋へと向かった。
シングルベッドが半分を占める部屋に荷物を置いた武田はベッドに身を投げ出した。そのまま手を頭の後ろで組んで、天井を見上げる。
小島三郎警官は何かを知っている。すっかりくたびれた風貌だったが、目の奥はまだわずかに火が宿っていた。何も言わずに去ったのは武田をまだ見定めていたのか、それとも同席していた若い警察官に聞かせるべきではないと考えたのか。
ベッドの横の机でスマートフォンが震える。武田は手を伸ばして画面をタップし、耳に持っていった。「もしもし」
「お前は電話の掛け方を知らないのか?」水野だった。
「さっき小島に会ってきましたよ」
「何かきっかけは掴めたか?」
「取り付く島もないっスね」
「そうか。こっちには進展があった。当時、祀られていた伊田亜希子の身の回りを世話していた連中がいたらしい。そいつらの名前が一部だが分かった」
「そういえば隔離されていたみたいな話がありましたね」
「ああ。メールを送っておくから確認しといてくれ」
通話を終えてスマートフォンを置く。ぼうっと天井を眺めていると再びスマートフォンが震えてメールが届いたことを知らせたが、まだ起きる気はしない。武田がぼんやりしていると、ぐうと腹が鳴り、渋々部屋を出た。
階下に向かうエレベーターが来て、武田が乗りこむと箱が揺れた。
思わず身を固くした武田をよそにエレベーターは階下にむかうが、細やかな振動は絶えず続き、武田は緊張から天井を見上げた。蛍光灯は眩しいくらいに照らしてくる。
エレベーターが一階のロビーに到着し、武田は開いた扉の隙間に滑り込むようにして素早く出た。相変わらず真っ暗のロビーには、売店へと続く廊下が見えるが、同じように明かりはない。足早にロビーを抜けて表に出ると、深呼吸を繰り返してから背伸びをした。
「外にいる方が安心できるって、おかしくねえかなあ」
そろそろ夕飯の時間かなあと呑気にも考えながら、とぼとぼと町へと歩きだした。
橋本はカーナビを頼りに車を走らせていた。
あれだけ酷かった猛暑も、つい先日まで続いていた秋の長雨で綺麗に洗い流され、連日の暑さもどこへやら、あっというまに気温が下がりワイシャツでは、少し寒さを感じる程になっていた。
赤信号に車を停めて画面を見れば、目的地までもう一キロを切っている。指示に従って進んでいると、閑静な住宅街に入った。四方を山に囲まれ、特に正面には猛々しい山脈が姿を見せている。登ったことはないが、その雄大な姿には惹かれるものがあった。
上司から妙な人物の監視の命を受けたが、渡されたのはA4の用紙が一枚だけだった。男の特徴などについての記述は一切なく、ただ辞令のような文面と報告用のメールアドレスが印刷されているだけだ。
「どこを探せっていうのよ」
言って橋本はアクセルペダルに怒りをぶつける。エンジンが唸りをあげ、一般道を加速するが、周りに走っている車は無い。カーナビがY町への到達を告げ、我に返った橋本は速度を緩めた。まさか現役の警察官が速度超過で止められることがあってはならない。
「あれって」
まだ沸々と腹の底で湧いている怒りが表情に現れたまま、橋本は目を凝らす。そのせいで形相はひどくなっているが、当の本人は気付いていない。橋本の視線の先には、歩道を行く男の背中があった。
橋本は速度を落とし、男の様子を伺う。スーツ姿の男は背が高く、細い体はまるで食事を摂っていないではと思わせる程に不健康だ。黒の手提げ鞄を持ってまっすぐに歩いてはいるが、どこか違和感が拭えない。
男を追い越してからサイドミラーにちらりと視線をやり、男の痩せこけた顔を見る。ほとんど無表情の男だが、視線だけは心情を雄弁に語っていた。瞳は絶えず目まぐるしく動き辺りの様子を伺っている。
「気色わる」
爬虫類のそれを思わせる男から視線を切って、橋本は速度を上げた。まさかあんな男では無いだろうなと誰にでもなく祈った。
「いらっしゃい」
偶然、見つけた酒屋に入った武田を迎えたのは、スマートフォンをつまらなさそうに眺めていた初老の男性だった。
「何か食えるもんは置いてるかい」
聞いた武田に店主は黙って棚の一角を指し示した。回ってみれば酒のつまみになりそうなものが陳列されてある。しっかりしたものを腹に収めたかったが、他に店を見つけられそうもない。結局、武田はつまみの中でも歯応えのあるものと酒缶を選んだ。
「あんた、観光かい」レジに値段を打ち込みながら店主が言う。
「まあね」
「何も見るもんもないだろう。若い奴らもどんどん外に出ていって、町にいるのは老人と―」
「廃屋の植物園と幽霊屋敷だろ?」
老人は遮られたことか、あるいは武田の発言のせいか顔をしかめた。無言で商品を袋に詰める。
「どうも」
武田が礼を言うと、店主はスマートフォンに視線を落としたまま手を振った。苦笑しながら店を出た武田の眼前に、コンパクトカーがほとんど勢いを落とさずに迫り、乱暴に駐車場に止まった。
「危ねえじゃねえか!」
武田の怒鳴り声が聞こえてか否か、エンジンの止まった車のドアが開かれて、パンツスーツの女性が現れた。年齢は武田と同じかそれ以下だろう。女性は眉根に皺を寄せたまま無言で武田の横を通り店に入った。
武田は女性に聞こえないように舌打ちをして店から離れていく。
橋本遥の耳にはしっかりと武田の舌打ちが届いていたが、無視した。中では相も変わらずに店主がスマートフォンに夢中になっている。
「あの」
渋い表情だった店主も橋本を見ては、頬を緩ませる。「いらっしゃい、何かお探しで」
「人を探しています」
「はあ、人ですか」
「記者らしき男性との報告がありました。見かけませんでしたか」
「記者からどうか分からないけど、観光って言っていた男なら」
「そいつはどこに」
店主は黙って外を指さした。「さっきすれ違った男ですよ」
橋本は慌てて店を飛び出したが、すでに武田の姿は無かった。少しの間、店の周りを歩き回って探すものの見つからず、橋本は転がっていた小石に苛立ちをぶつける。当の武田はまたまた偶然見つけた、蕎麦屋の暖簾を喜んでくぐっただけだった。
「いやあ、見つかってよかったよ」
蕎麦屋の店内に客はちらほらと見える。武田は適当な席に座ると、女性の店員に笑いかけた。「酒のつまみじゃあ、腹は膨れねえからさ」と言ってはメニュー表を広げる。「丼ものもあるのか、じゃあ親子丼と天ざる一つずつ頂戴な」
騒々しい男に、女性店員は注文を確認して厨房に戻って行った。店の奥にある厨房では旦那と思わしき老人が忙しくしている。武田は少し経ってから運ばれてきた、ほうじ茶を口に着け、ため息を溢した。
やがてテーブルに運ばれてきた親子丼と天ざるに、目を輝かせた武田は、黄金色に包まれた鶏モモ肉と白米を掻き込み、天麩羅に齧りついては蕎麦を啜った。
武田が少しだけ早い夕飯にありついている内にも、段々と客の数は減っていく。しばらくして店の中の客が武田、一人になった頃、蕎麦屋の出入り口が静かに開かれた。
「あら、町長さん。珍しいわね」
かぼちゃの天ぷらに齧りついていた武田はちらりと声のする方を見た。大きく突き出た腹を抱えるようにしてワイシャツ姿の老人が立っている。年相応に顔に皺が刻まれてはいるものの、背筋はしゃんとして伸びている。
「少し外に仕事があってね。偶には夕飯を外でもと思ったんだ」
「奥さんに怒られちゃいますよ」
「なあに、家内も勝手にやってくれた方が楽だと思ってるさ。お冷でも頼もうかな」
まだまだ衰えを感じさせない、恰幅の良い町長は武田から少し離れた席に着く。武田と町長は互いに目が合うと小さく頭を下げ合った。
「今日は、楠田さんは一緒じゃないんですね」
「彼にも仕事はあるからね」
町長のテーブルにざる蕎麦とお冷が運ばれてくる。自分の時よりも早くないかと武田は憤慨したが、伺うように静かにしていた。
果たして「長女殺し」事件を訪ねてもよいものかと武田は思案する。町長ならば全貌とまではいかないものの、事件は知っているだろう。ただ、それを根掘り葉掘り聞かれることが嬉しいかと言われれば、その限りではないはずだ。
まだ町には来たばかりで、分からないことの方が多い。ならば不用意に波風を立てない方が賢明だろう。ゴシップにも分類される雑誌の記者との会話を、楽しみにする為政者もきっといない。
「すいません、お会計をお願いします」
武田は会計を済ませると、そそくさと店を出た。しばらくの後になって、入れ違うように店に入って来たのは、やはり橋本遥だった。
「いらっしゃいませ」女性の店員は優しく向かえる。「お好きな席へどうぞ」
橋本は疲れた顔で店員に注文を告げ、店員は困ったように笑って厨房へと向かった
「もう少し、愛想を良くすべきだね」店に残っていた町長は微笑みながら言う。「今のあなたは、怖い顔をしている。女の武器が台無しだ」
橋本は大きくため息をついた。男ばかりの橋本の職場で、そんなことを言われるのは日常茶飯事だった。「愛想ぐらいは良くしろよ」「笑顔も作れないのか、この女は」
橋本は脳裏によみがえった過去を、頭を振って追い出した。「仕事には関係ないですから。それに笑顔でいたら、侮って見られます」
橋本のテーブルに店員がお盆を持って戻って来た。湯気が立ち昇るどんぶりの中で濃い色をしたつゆに麺が漂っている。ありったけの薬味を乗せると橋本は、作法など存在しなかったかのように食べ始めた。
「それで、お姉さんは何をしに町に来たのかな」
町長の問いかけに橋本は一端、食事を止める。「男性を探しに来ました」
「沢山いるよ。それとも俺の事かな」
「記者風の男です」
町長は残念そうに首を振る。橋本は店員の女性を睨む。二人の視線を感じた、女性店員が驚いた表情になった。「ええっ、あたしですか?うーん」
少しの間、考え込んでいた女性だったが、思い浮かんだように手のひらを叩いた。「そういえば、さっき見慣れない男性を見ましたよ」
「いつですか」まさか、という思いが橋本の中にあった。
「さっきです。あなたと入れ違いで出ていきました。記者風というか、落ち着きがないというか。まくしたてるように喋っていましたよ」
がっくりと項垂れる橋本をよそに、町長は腹に乗せて腕を組み眉をひそめた。
「記者風の男か」
武田が店を出た頃には、夕日も地平線からわずかに頭を覗かせるだけだった。薄暗い夕暮れ時の住宅街を、酒屋で買ったつまみの入った袋を持って歩く。しばらくすると誰かの家の庭から、小さな体がにゅっと飛び出してきた。
「おろ、猫か」
すっかり大人の体つきの猫は武田と視線がぶつかると、身を屈め動きを止める。すぐにでも逃げだすことが出来る姿勢をとると、薄暗い中、じいっと人間を見ては目を光らせる。
「まあまあ、そんなに警戒するなよ」
言って武田は腰を落とし、袋からつまみに買ったサバ缶を取り出した。蓋を開けると漏れた匂いに気付いたのか、猫は警戒心を崩さないものの、静かに近寄って来た。武田は缶に指を入れて身をほぐし地面に置くと、猫はサバの匂いを確かめてから食らいついた。
「腹減ってんだなあ」
サバにがっつく猫の背中を撫でようとして、武田は手を止めた。この町に来て猫を見たのは二度目だった。一度目はどこで誰と歩いているのを見たのだったか。
「猫婆」武田は急ぎ周りを見回す。
段々と暗くなっていく町の中で、ぽつぽつと点在する街灯だけが煌々としている。あの長い黒髪では闇夜に溶けて、姿を探すこともままならない。猫婆に捕まったが最後、何をされるのか。足元では、そんなことなど知らぬとばかりに猫が「もっと寄越せ」と鳴いている。
「あなた、何をしているの」
ぎょっとして小さく飛び跳ねた武田の傍で、白髪の混じったショートヘアの女性が立っていた。長い黒髪ではないことにほっとし胸に手を当てた武田を、女性は訝しく睨む。女性は少し首を伸ばすと武田の傍で、夕飯を待って舌なめずりをする猫を見つけた。
「あなた!」
「いやいや、ちょっと待ってくれ」
「勝手なことをして!」
「誰の猫か分からねえだろ?」
武田よりもだいぶ年上の女性はふんと鼻を鳴らした。「あなた、この町の人なの?」
「いや、違うよ。写真を撮りに来たんだ」
「だったら教えてあげるわ。ここらの猫はね大体が―」
女性は言葉を切った。決して友好的ではない彼女の視線を追うと、武田の目にも幽霊のように佇む長い黒髪の姿が映った。
「猫婆」
やはり猫を率いていた。猫婆は闇に紛れるように立ち、おそらくは武田たちを見ているのだろうが、長い髪に隠れた彼女の顔がどこを向いているのかは、例え昼間であっても分からないはずだった。
しばらくの間、ぼうっとしていた猫婆は何時の間にか、暗闇に姿を消していた。武田の足元にいた猫は、いつまで待っても食事が出てこないので顔を洗っていた。
「ゾッとしねえな」
「あなた、何なのよ」
武田は猫を一撫でしてから立ち上がり鞄から名刺入れを取り出した。
「雑誌記者?さっきは写真を撮りに来たっていってたじゃない」
「その方が面倒事に巻き込まれることも少ないんだぜ」
「何を調べに来たの―」気付いた女性は、さらに感情を露わにし、目つきを鋭くさせた。
「何か知っていることがあったら教えてくれよな」武田はサバ缶を片付けながら言う。「ホテルの『いいだて』に泊まってるからよ」
立ち上がった武田を見て、猫は夕飯を貰えないことを察したのか離れていく。猫の後を着いていくように、とぼとぼと歩きだした武田の横を一台車が通って行った。
武田は自分を引きそうになった車だったことに気付いたが、すっかり疲れた橋本には、歩道に立つ男が武田であると気付く余裕も無かった。
「事故んねえかな、あの車」
排気音と共にどこかへ去っていく橋本の車を見て、武田はぽつりと呟いた。
ホテルのロビーにはちゃんと明かりが点いていた。
暖色系の明かりに安心感を覚えつつも武田には、納得のいかない気持ちもあった。ガラスの自動ドアが開きロビーに踏み入れると、カウンター奥へと続くカーテンから大男が現れる。
「おかえりなさいます」
少し戸惑ったが、見た目に反して大人しく優しいのかもしれない。人を見た目だけで判断してはならないのだと、武田は改めて自分に言い聞かせた。
「どうも」
言って武田は自分の部屋に戻り、鞄からノートパソコンを取り出した。正午過ぎに水野から連絡があった通り、伊田亜希子の世話係だった人物の名前と顔写真が記載されている、記事が添付されてあった。
「おっと、この顔は」
さきほど通りで武田を諌めた女性が写っていた。「北場秀子っていうのか。もっと早く知っとけば、事件について聞けたかもしれなかったなあ」
記事には四人の男女が伊田亜希子の世話をしていたとある。タイトルは「容疑者は四人の世話係か?謎に満ちた少女の殺人犯の正体に迫る!」とあった。どうやら侍従長と三人の侍従という、それらしい身分を与えて雰囲気を出していたようだった。
記事を読み終えた武田は雑誌記事の要点だけをメモアプリに書いた。
・楠田治夫、男性、昭和35年生まれ、現在は60歳。伊田亜希子が殺害される以前から町役場の職員として働いていた。現在も役場勤務。侍従長を務めていた。
伊田亜希子がマスコミによって騒がれ始めると、彼女を守るために世話係として立候補した。伊田亜希子が殺害された時には、役場にいたためにアリバイがある。
・夏本悠子、女性、昭和38年生まれ、現在は57歳。専業主婦だったが、伊田の境遇を思い、世話係に立候補した。現在も町に在住。伊田の侍従の中でもリーダー的役割を担っていた。
伊田亜希子が殺害された時には北場と他マスコミと共に公民館にいたために、アリバイあり。
・北場秀子、女性、昭和46年生まれ、夏本とは旧知の中で伊田の世話係に候補した。夏本と共に居たために、アリバイあり。現在も町に在住。
・落合賢美、女性、昭和39年生まれ。夏本、北場とは顔を合わせる程度だったが、自分から立候補した。伊田亜希子が殺害された時には、一人でいたためにアリバイは無かった。侍従の中では唯一、町を出ている。消息は不明。
武田は缶ビールのプルタブを引いて口を着けた。
伊田亜希子は特別な存在として隔離されていたという。順当に考えるならば伊田亜希子に近いこの四人が殺人犯である可能性が高いが、一人を除いてアリバイがある。もっと言えば容疑者として逮捕されたのは別の男だった。
犯人として逮捕された東野健太郎が自殺したというのはどうか。彼の傍に遺書が残っていたのも話が出来過ぎではないだろうか。死んで罪を償いたいという旨の記述があれば、それだけで疑う者もいなくなるだろう。
逮捕された男が死ねば裁判は終わる。行方不明になった伊田一家は長女の亜希子を除いて、今もなお見つかっていない。水野の資料によれば、一家の身を案じていた祖父母も、伊田亜希子が殺害された時期を前後に入院し、いまはもう両人ともに亡くなられている。
犯人はいなくなり、被害者遺族も残っていない裁判を長引かせる理由はない。警察は一応の事後処理をするのだろうが、事件はそれで終わる。
だが、一家の服を入手し新聞記事と共に編集部に荷物を送った主は、何かしらの意味を込めていたはずだ。あえて波風を立てるような行為をするということは、事件に対して納得できないところがあるのだろう。
とうの昔に解決した事件を探られるのも町の住人にとっては、嬉しい話ではないはずだ。武田は念入りにも慎重に行動しなければと自身に言い聞かせた。
朝も早い時間に「ホテルいいだて」を横切る通りから、少し離れた所に一台のコンパクトカーが停まっていた。運転席には眠気を追い出し、目を鋭くさせた橋本遥がホテルの出入り口を睨んでいた。
昨晩、自宅に帰った橋本はすぐに町の宿泊施設のホームページを調べ、数少ない宿泊客の状況を確認した結果「ホテルいいだて」に張り込んでいた。路駐中の橋本の横を滅多にない自動車が時折、迷惑そうに避けていく。
じっと身を潜め、ひたすらに我慢を重ねていた橋本の苦労がとうとう報われ、ホテル出入り口のガラスの自動ドアが開かれて、武田が姿を現した。橋本の事など露知らず、武田は呑気に欠伸を掻いている。
「あの男か」
ようやく見つけた目標に橋本の口から犬歯が覗き、車内がにわかに熱気を帯びる。だが、橋本は車を走らせることはせずに、じいと武田の行く先を睨む。
その橋本の耳に、こんこんと控えめに叩かれた音が届く。はっとして顔を上げる。まさか駐禁の取り締まりかと思い、辺りを見回すが人影はない。気のせいか、とまた武田に熱い視線を注ぐ。すると、またこんこんと窓を叩かれた。
「何よ、誰かいるの!」橋本は窓を開けて、声を荒げる。事と次第によっては妨害行為として逮捕してやろうとすら考えていた。
怒鳴るとノックが止んだ。ムッとしたまま橋本は視線を戻す。武田の姿はすでに無くなっていた。まあ、いいだろう、人相は確認できたと、橋本は自分に言い聞かせる。そう広い町でもないし、すぐに見つけ出せるだろ―
ばん!
聞こえてきた音に橋本は飛び上がった。車を叩いた音が背後から確かに聞こえてきた。誰かが車の後ろにいる。悪戯犯を捕まえるべく、橋本は素早く車から降りて車の背後に回った。
だが、そこには誰もいなかった。信じられない気持ちで辺りを見回しても、誰かが逃げた影も形もない。
「いったい、なに」
腑に落ちないまま、運転席に戻った橋本がキーを回した瞬間だった。
こんこん。
背筋を得体の知れない何かがなぞる。橋本は無言でエンジンに火を入れると、兎に角アクセルを踏んだ。けたたましい排気音を上げ、車は事故を起こしそうなほどにまで加速すると、その場を逃げ出す。
橋本は訳の分からないことに恐怖し、混乱していた。ただ確実に分かっているのは何かがいるといことだけだった。
「小島さんが来ない?」
「そうそう。さっきから連絡もつかないんだよ」
「様子は見に行かないのか?」
武田が向かった交番では、昨日とは別の警察官が仕事に従事していた。その彼も武田の問いかけに肩をすくめるだけだ。「だってあの人もさ色々あるからさ、なんというか近づきたく無かったんだよね」
参ったなとは口に出さなかった。町にいる間は足しげく通うつもりだったが、小島にも何かしらの理由があるのだろう。
「分かった、俺が様子を見てくる。小島さんの住所を教えてくれないか」
「はあ?」信じられないとばかりに警察官は声を上げた。「教えるわけねえだろう」と鼻で笑う。
結局、武田は早々に交番を離れた。このまま居ても埒があかない。昨晩に出会った北場秀子を探して町をぶらぶらとしている時だった。
「おやあ、昨日も会いましたねえ」
振り返れば太った男が武田の近くに立っていた。武田が足を止めると、ふうふう言いながらタオルで汗を拭いて近づく。山間にあって、やや涼しさすら感じられるY町でも、男性には関係ないらしい。
「ええと、どこで会いましたっけ」
「蕎麦屋ですよ。町長の米持と言います」
米持はこれ以上ないくらいに笑顔になる。武田は可能な限り感情を殺して愛想笑いを返した。彼の細くなった口も目も三日月の如く曲がってはいたが、その瞳はまっすぐに武田を見据えていた。
少しも笑っていないなと武田は心の裡で溢した。
「カメラマンの武田さん、ですか」
米持に連れられて訪れた役場は町のほとんど中央にあった。二階建ての役場は汚れも少なく、維持費すらも危ぶまれる、よその地方都市の頭痛の種とは無縁であるということを印象付ける。あるいは本当に新築なのかもしれない。
「さあ、さあ。遠慮しないでくださいな」
役場の中も首都圏のそれに引けを取らない。新品のようなカウンターテーブルが部屋を横断し、町民側と職員側を隔てる。ソファや巨大な画面など、そのどれも質が良いか、あるいは新品だった。
随分と羽振りがいいらしいな、と眺めていた武田に町長は米持年春と名乗った。町長の役職に就いてから、五年ほど経つらしい。だが町長といってもすること自体はせいぜいが判子を押すことぐらいだそうだ。
「カメラマンというと、やはり写真を撮って?」
「はい。たまたま立ち寄って、と言うのは失礼ですね。日本の歴史を感じる、その文化の根源的かつ原始的な風景を求めて旅をしているわけですが、この町はまさにふさわしいというものでして―」
ふと、武田は視線を感じ言葉を切った。目配せだけで視線の主を探せば、背の高い男と視線がぶつかる。白髪の髪も薄い、初老にもさしかかっただろう男は、武田をじいと見る。お面が張り付いているのか、表情筋がないのか不気味だった。
「こちらでお話を」
米持が応接間に通してくれたので武田は素直に従う。部屋の中には、座るのも憚られるような革張りのソファとガラスの嵌め込まれたローテ―ブルが並ぶ。著名な誰かが描いたのだろう掛け軸の下では、まだニスが輝く巨大な机がある。
「選ばれたことは嬉しいですが、写真を取る場所もそんなにありませんよ」米持が恥ずかし気に笑う。
「いえ、特別な場所である必要はないのです、その町の普段の生活が垣間見える、そんな風景を撮りたいのです」
「はあ」
米持町長はいまいち武田の発言を飲みこめていない様子だったが、それは武田も同じだった。ただ浮かんできた言葉を咄嗟に並べているだけだった。
「ですが、この町はあまり活気がありませんね。何かあったのですか」
ソファに腰を落とした町長は指を組んでやや俯いた。「こんなことを言うのは気が進まないのですが、実は今から十年前近く前に、この町では殺人事件があったのです」
「まさか、そんなことが」
「町に住む女の子が農作業小屋の裏で発見されましてね。大変な恐怖を覚えました」
「その犯人は」
「見つかりました。町に住む無職の男です」
「それはなんとも、酷い話だ」
「ええ、本当に許せない話です」
「犯人の男は、それからどうなったのですか」
「捕まってから刑務所で死んだそうです。自殺だとか」
「町長さんは男について、あまり詳しくはないようですが」
「あまり交流のない男でしたから。周囲もいつかやるだろうと思っていたらしいです」
「そうですか。すいません、嫌な事を思い出させてしまいました」
「いえいえ、とんでもない。沢山、写真を取ってこの町のイメージを良くしてくれると助かります」
「ええ、出来る限りお手伝いさせていただきます」
職員が持ってきたコーヒーを片手に武田は嘘を織り交ぜながら取材先の話をし、米持は大いに反応を示した。それからも武田はしばらく話し込んでいたが、時計に目をやって、それとなく退出の意向を伝えた。米持も「ぜひ、明日も来てください」と返した。
「ああ、そうそう」役場の玄関に立って米持が言う。「気を付けてください、あなたの事を探している人がいますよ」
「俺の事を?」
「ええ、おそらくは警察でしょう」
「警察が」
何かヘマをしたかなと思うものの、心当りしかない。まさか過去の行いを悔い改めよと追いかけて来ているのだろうかと、考えながら武田は役場の階段を下った。
「にゃー」
役場を出てから気分転換に当てもなく歩いていると、何時の間にか武田の先を猫が歩いていた。昨日、餌をやった猫かどうかは分からないが、数歩進んでは、ちらりと後ろを見る。さらには武田が体の向きを変えただけで、窘めるように「なー」とやや強めに鳴く。
「着いてこいって言っているのか?」
武田が訪ねると猫は黙って歩きだす。代わりに尻尾を振った。
「黙れってか」武田は苦笑して、彼だか彼女だかの後を追い、昨日の事を思い出した。「まさか、お前さん。猫婆の猫じゃねえだろうな」
猫は無視して歩き続ける。時々、すれ違った町民に怪訝な顔で見られながらも、野良猫と奇妙な散歩をしていると、やがて武田たちの行く末に巨大な影が現れた。
「おいおい、こいつは」
武田はやや駆け足に猫を追い抜いて、巨大な影の前に立った。
「これが件の屋敷か」
武田は思わず見上げていた。西洋風の屋敷は先ほど訪れた役場と変わらないか、それ以上に大きい。町には類を見ないほどの家屋だが、目を引くのは大きさではなく状態だった。
屋根のレンガや外壁は剥がれかけ、いくつか落ちたものが、広い敷地に散乱している。庭も草木が好き放題に伸びており、鉄柵に巻き付くものもある。幾つもある大きな窓もくすんで汚れている。人の手が入っていないのは一目瞭然だった。
両開きの大きな玄関には板が打ち付けられてあり、長い間、人が住んでないことをうかがわせる。影のように感じられたのは、まだ陽の高い時間なのに屋敷の持っている鬱蒼とした雰囲気のせいだろう。
子供たちが言っていた通りの風貌だなと感心する武田の横を抜け、猫は鉄柵の隙間に入り込み、敷地に入ると、振り返って武田を睨み鳴く。
「入れってか」
唾をのんだ武田は屋敷の周辺を探る。少しして門扉を見つけた。細い鉄枠の門扉は曲がって形は変わってしまっているが、鍵はかかっていない。押すと錆びた音を立てて開いた。
「猫婆のねぐらじゃねえだろうなあ」
武田は腰丈まで伸びた雑草を掻き分け、屋敷へと歩きだした。
武田が不法に敷地内に入る様子を橋本は車の中から見ていた。「あいつ、何をしているの」と独り言を溢すと、車から降りた。