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帰って来た少女  作者: loveclock
第一部
3/6

長い長い交番の一日_4/23/1990

前回までのあらすじ

 冬も近くなったY町に異変が起きた。高校生の東野健太郎は皆の安否を確かめる途中で、山に入ろうとする田中義男を追いかけ、そこで裏山に落ちた謎の物体を目撃した。

 まだ薄暗い町を一台の自転車が行く。

 山間にある町に春の訪れは遅い。雪こそ残っていないものの空気は肌に寒く、吐く息も白くなるが、少し動けば体は温まる。厚く着込んだジャケットに顔を埋めて、男はペダルに力を込めた。

 寝静まっていた町に、山向こうから頭を覗かせる太陽が光を指して、朝を教える。気配に気づいた町の人々が起き始めたのだろうか、家々の窓やら雨戸やらが開く音が聞こえる。玄関が開き、顔を合わせた住民同士の挨拶の声が聞こえる。

 小島三郎は目を覚ました町が活気づき始める、その物音が好きだった。

 やがて辿り着いた交番の中で、先輩の警察官が席に腰かけていた。小島は「おはようございます」と挨拶を残してから、彼の横を通り抜け奥の部屋で制服に着替える。小島が戻ってくると、先輩はすでに引継ぎの作業を終えていた。

「あとは頼むぞ」と言って先輩は大きな欠伸と共に交番の奥へと消える。

 数分もしないうちに私服姿の先輩が現れ、彼は足取りに眠気を感じさせたまま、交番を去って行った。

 小島は交番の入り口で胸を張り、大きく息を吸った。冷えた空気が体内を駆け巡り、ぼんやりと残っていた温かみのある眠気が小さくなって消える。意識は澄み切って気持ちが良い。さっぱりとした、爽快感すらあった。

 交番の遠く正面に見える山々に陽が差し掛かり、山肌を一面、橙色に焼く。まだ山頂付近には白い膜が張ってあって、雪も解けるのはまだ先だろうと小島は一人ラジオ体操をしながら眺めていた。

「おはよう、小島君」

 ラジオ体操の曲も終わりに近い、いつものタイミングでジャージ姿の男性が現れる。少し息が上がっているのは、走っていたからだろうか。

「おはようございます。東野町長」

 東野は笑顔で小島の隣に立つと、屈伸し始めた。「もうそろそろ、赴任して二週間になるか。どうかな、慣れたかい」

「はい。町の人は皆、親切で本当に助けられています」小島は背筋を伸ばして答えた。

「警察官の君が助けられてどうする」言って東野は苦笑する。

「それは失礼しました」

 互いに笑い合い、二人は並んで朝日が昇る様子を眺める。

「君は大卒だったな」東野は笑顔のまま質問する。「大学生活はどうだったかな」

「とても楽しい四年間でした。良い友人にも恵まれました」

「そうかそうか。私の息子も、この間から東京の大学に通うことになってね。いまは一人暮らしをしているんだ」

「やっぱり心配ですか」

「ああ、頭はいいんだが、やや考えすぎるきらいがあってね。馴染めるかどうか」

「大丈夫ですよ、すぐに友人もできます。お名前はなんていうんですか?」

「健太郎と言ってね。自慢の息子だよ」

「自分は文系でしたが、健太郎さんは」

「理系だよ。研究者になりたいらしいんだ。何の研究かは私も詳しくは分からないが」

「では、いつかは大企業の研究所に勤めるのでしょうね」

「私としては町に帰ってきてもらいけどね」

 息子の自慢話に満足した東野は手を振って交番から離れていく。小島は笑顔で見送り、その間も町は本格的に目覚めたようで、人通りも車の数も増えてきた。色の薄かった空にも、しっかりと色が着き、目に鮮やかな青が広がっていた。

「お巡りさん、おはようございまーす」

 小島の前に、黄色い帽子を被った子供たちが並んで元気よく声を上げる。小島は笑顔で「はい、おはよう。気を付けて学校に行くんだよ」と返す。去った後も別のグループが入れ替わり立ち代わり、小島に朝の挨拶をしていく。

 年齢層も上がり中学生の集団を最後に人の流れが終わる。朝の日課も終わりパトロールのための準備を始めようとしていた時だった。

「おーい、お巡りさん」

 声に振り返ると、交番の入り口に少年が立っていた。町の中学校の制服を着ている。赴任してまだ二週間しか経っていない小島にも、その悪名は届いていた。

「田中君」

「俺のことを名字で呼ぶのは、お巡りさんだけだよ」田中義男は言って、人差し指で鼻の下を擦った。

「学校はどうしたんだい。もう授業も始まる時間だろう」

「寝坊しちゃったんだよ、じゃあなー」

 田中義男はさっと入り口から消える。すぐに自転車に跨った義男が誇らしげに現れ、何度かベルを鳴らすと学校の方へと消えた。小島はため息にならない息を吐くと、自分も自転車の鍵を取る。

 交番に「パトロール中」という札を机の上に置き、交番を出発した。


 山から吹き下ろす風は冷たく、陽気はまだ弱い。それでも朝の空気には春の訪れを確かに感じさせるものがあった。小島は町内をのんびりと自転車を漕ぎ、すれ違う人々と挨拶を交換して回る。

 Y町に配属されて二週間経つものの事件らしい事件も起きない。せいぜいが居酒屋で時々、喧嘩の仲裁を頼まれる程度で、当の本人たちでさえ酒が抜けきったら、けろりとしてすぐにまた仲直りをする始末だ。

 事件が起きることを望むのは不謹慎だろうか、と小島はペダルを漕ぎながら悩む。警察官になること選んだのは、事件に立ち向かうためや、市民を守るための正義感があったわけではなかった。

 大学の卒業が近づいて就職を意識したときに、ふとこの仕事が目に入った。とりあえず、と言っているうちに、とんとん拍子で話が運び、何時の間にか試験を受け、入寮し訓練を受け、こうして制服を着て交番に立つようになった。

 熱意が無いわけではない。制服を着ればスイッチが入って、どんな些細な出来事にも気を配れるようにはなった。だが、どんなに目を光らせたとしても、小島の預かりの知らないところで事件は起きてしまうのだ。

 住民たちは皆、小島にやさしい。ならば、この生活を守ろうと小島は呑気で雑にも結論を出した。それでいいじゃないか。

「あら、お巡りさん」

 町でも他に類を見ない大きさの屋敷の門扉から、出かける途中だったのだろう、ジーンズにチェックのシャツを着た女性が現れた。長い髪はやや、パーマがかかっている。赤い口紅が白い肌に映えて、美しい。

「こんにちは、八木さん。お出かけですか?」

「ええ、そう。午後に調律師さんが来てくれるから、さきにお買い物を済ませてしまおうと思ってね」八木美智子は言ってほほ笑む。

「そうなんですか」やや興奮したような、上ずった声が出てしまった。

 正確な年齢は知らないものの、八木の年齢は小島よりも少しだけ上だと、聞いた話から推測していた。学生の頃は同学年の女の子と付き合うことがあったが、どれも長続きはしなかった。年上の方が気は合うのではないだろうかと密かに期待していた。

「それじゃあ、お巡りさん」

 言って八木美智子は離れていく。彼女のゆく手にはバス停があり、小島は自分の名前を伝えたかったが、断念し職務に戻るべくまた自転車を漕ぎ始めた。

 間もなくしてやってきたバスに八木は乗り、窓から小島に手を振る。小島の顔はパッと明るくなり、バスが通りを曲がるまで見送っていた。


「すごいなあ」八木との別れを惜しんだ通りを離れて小島は足を止めた。

 バリケードに囲われた建築現場の中央には、長方形のコンクリートの塊があった。町のはずれ、ほとんど山のそばにあるにも関わらず、ならされた地面を忙しなく工事車両が行き交い、町に似つかわしくない騒音を立てる。

「植物園になるんだよ」

 東野からはそう聞いていた。「どうにかうちの町に作らせて貰えないかとね」

 鉄骨の足場に囲われた建物には、まだ無骨な印象がぬぐえない。おそらくは本館であろう建物の後方では、細い金属が組み合わされた建物が見える。きっと温室か何かための物だろう。文系の彼には、それ以上の想像力は無かった。

 ぼんやりと眺めている小島に手を振る人影があった。大きくお腹の突き出た男性は作業着にヘルメットを被っている。隣を付き従うように背の高い、線の細い男が歩く。彼も同じような格好をしていた。

「ああ、米持さん」

「やあ、小島君。どうだい、中々形になって来ただろう」

 呼んだ米持は誇らしげに建築途中の植物園を見上げる。彼の横に並ぶ背の高い男は佇むように立つ。風に揺れる柳のようだった。

「そうですねえ」と一応は肯定するものの、小島が赴任する以前から始まっていた工事だが、建物自体の姿形は初めて目にした時から、あまり変わっていない。

「俺は昔から植物が好きでね。なんだか夢が叶った気分だよ」

 満足げな副町長と並んでいると、現場からぞろぞろと職人たちが出てきた。そろそろ休憩の時間かと思って腕時計に目を落とすと、ちょうど短針と長針が上を指して重なっている。

「もう、そんな時間か。楠田、昼飯、食いに行くぞ」米持は隣の従者のような男に言ってから、小島に笑顔を向けた。「どうですか、小島君も一緒に」

「いえ、私はまだパトロール中ですので」

 小島に反して、ぐう、と腹が鳴った。思わず固まってしまったが、すでに米持たちは小島から離れていた。腹の音も、そもそも小島がさっき言ったことも聞いていたか怪しい。

 自転車に跨った小島は米持たちとは反対方向に漕ぎだした。


「あらあ、お巡りさん」

 小島が蕎麦屋の暖簾をくぐると、もう馴染みになった夫婦店主が笑顔を見せる。昼間という時間もあって、店内は賑わいに満ちている。警察官の小島と言わず、消防士や大工の姿もあった。

「いつものでいいかしら」

「はい、それでお願いします」

 賑わいの隙間を縫って、空いていた適当な席に腰かけ、ふう、と小さくため息を溢した。

「小島さん」

 呼ばれた小島は顔を声の方に向ける。隣のテーブルには、まだ体に似合わない大きい背広を着た青年がいた。笑顔の彼の手には、だし汁が入っているであろう漆の器と割り箸がある。

「伊田君」

「哲朗でいいよ」言って哲朗は蕎麦をすする。「町には慣れた?」

「ああ、だいぶ慣れたよ。哲朗君はどうだい?営業の仕事は大変だろう?」

「まあ、けっこう辛い。でも俺には知世がいるから」

「それは、うらやましい限りだね」

 町に数少ない食事処の蕎麦屋で常連になって以降、哲朗とは顔を突き合わせるようになっていた。お互いに春から新しく仕事を始めた者同士で、それなりに話も合う仲だが、二言目には彼女の知世の事を口にすることには、やや閉口させられてもいた。

「小島さんだって彼女がいれば、もっと頑張れると思うよ」

「どうかなあ」とぼけつつも、小島の脳裏には八木の姿があった。「会社の先輩はどうだい?」

「もう厳しくて、辛いよ」と哲朗は軽く握りこんだ拳を両目に当てて泣く。

「どこがだよ」

 何時の間にか哲朗の傍に、彼の先輩らしきグレーの背広を着た男性が立っていた。ハンドタオルで手を拭いているので、トイレにでも行っていたのだろう。

「俺は結構、やさしくしているつもりだぞ」真面目な顔で哲朗の先輩は言う。

 彼を交えて話をしつつ、小島はテーブルに運ばれて来たざる蕎麦をに手を付ける。先に食事を終えていたらしい哲郎の先輩と、慌てて蕎麦を掻き込んだ哲朗は先に店を出ていき、小島はのんびりと蕎麦湯を口に含む。

 お昼の時間も過ぎると、店内にいたお客の数も減ってくる。そろそろ自分も職務に戻ろうかと立ち上がった時だった。店の扉が勢いよく開かれ、大きく肩で息をする男が現れる。

「お、お巡りさん。た、大変だ」

 店中の視線を一点に集めた男性は、何度も浅い呼吸を繰り返す。「早く言えよ」と誰かが言う。彼にその気はないのだろうが、もったいぶっていると思われても仕方ない。

「ま、万引きだよ、早く、来てくれ」

 大慌ての男性とは、正反対に店内の空気が盛り下がった。

「なんだよ、殺人事件かと思ったぜ」

「たかだか、万引きで大騒ぎすることもないだろうさ」

「まったく。騒がせやがって」

 残っていた客たちは遠慮することもせずに、吐き捨てる。ただ、小島は態度を変えることなく立ち上がり、男性に近づいた。

「分かりました。それで、どこのお店ですか」

「南場さんちの金物屋だ。とにかく一緒に来てくれ」

 しっかりと勘定をしてから小島はまだ息も荒い男性とともに、蕎麦屋を出ていった。


 着いた金物屋の入り口で、三人の女性が顔を寄せ合っていた。

 小島の姿を見つけると、無言で店内を指さす。所狭しと並べられ、積まれ、吊るされた光り輝く容器や、道具を避けつつも狭い店内の奥に向かうと、物々しい雰囲気が迫ってきていた。

「遅いよ、お巡りさん」

 つるりと禿げあがった店の店主が小島を見て、怒りをぶつける。小島は無言で頭を下げ、彼と相対している姿に目をやった。

「おや、君は―」

 学生服を着た、まだ幼い顔つきの少年が正座をして俯き震えていた。「確か、石田さんのところの雄二くんだね」

 雄二は顔を上げずに静かに頷いた。握った小さな拳も震えている。

「なんでこんなことをしたのかと聞いているんだが、何も言いやしない」

 胡坐を組んで座る店主はじいっと少年を睨むが、ただ背中を丸めただけの、あまりにも痛々しい雄二の姿に、さすがに激しく問い詰めることも出来ないようだった。

「何を盗ったんですか?」

「刃物だよ」店主は腕を組んで鼻を鳴らす。「鞄に入れようとしていたんだ。危ないったら、ありゃしない」

 小島は二人を交互に見やるものの、このままでは平行線を辿るだけだなと、心の裡で溢した。

「分かりました」小島は雄二の目の高さに腰を落とす。「石田君、交番でお話しようか」

 雄二は一瞬だけ、顔を上げる。彼の顔は涙で赤く腫れていた。すぐにまた俯いてしまったものの一度だけ頷く。

 小島は店主の男性と見合い、二人はため息をついた。

 事件らしい事件ではないものの、これはこれで疲れるなというのが小島の本音だった。日差しを浴びて、自転車を呑気に漕いで回っていられるのが、どれだけ平和なことなのか。改めて身に染みていた。


 全く口を聞かない雄二と共に自転車を押して交番に戻る途中、小学生の集団が二人の横を駆け抜けていった。黄色い声を上げる彼らとは全く異なって、石田少年の雰囲気は重く、暗い。

「そういえば石田君、今日も学校のはずだろう」今朝、田中義男が交番に顔を見せていったことを思い出す。同じ学校に通っているはずだ。

 雄二は俯いたままだ。小島は立ち止まって、雄二が喋るのを待っていたが結局は肩を少し落とし、また歩きだした。すると雄二もまた後に続く。

 気まずさを覚えながらも、到着した交番は朝に小島が出発した時から変わっていなかった。変わっていた方が不味いとも言うが、助け船があればと淡い期待を抱いてもいた。

「さてと」小島は自転車を入り口に止めて、雄二を中に誘う。「どうして、刃物を盗ったんだい」

 テーブルを挟んで向かい合って座るものの、雄二の態度は少しも変わらない。

「話してくれないと、ずっとこのままだよ」

 やんわりと脅すものの、それも効果はないようだった。雄二が心情を吐露するまで交番から出さないという考えこそ無いが、ずっと見合っているだけで時間を浪費する気さらさらもなかった。

 頼むから何か喋ってくれよ、と小島は言葉にせずに愚痴るが届いているはずもなかった。

「あのう」

 雄二が呟く。おや、と思いつつも小島は表情には出さない。わずかにでも顔を覗かせる切っ掛けを、そう易々と逃すわけにはいかなかった。

「何かな」

「包丁を盗んだのは謝ります。ごめんなさい」

「うん、わかったよ」やっぱり素直な良い子じゃないか、と小島は微笑んだ。

「でも、包丁は僕にくれませんか」

 小柄な少年から発せられた言葉に、小島は絶句した。静まり返った交番の、壁に掛かった時計の針の音すら聞こえる。小島が目線だけを横にずらして見れば、短針と長針は協力して、午後三時を指していた。おやつが食べたいなあと現実逃避してしまっている。

「なんでだい」

 家庭内に問題を抱えているのだろうか。小島は雄二の顔を注意深く見る。だが、痣や傷跡は見られない。まさか服を脱げとも言えず、半ば睨み付けるような小島の視線を感じた雄二は委縮して小さくなってしまった。

「いや、ごめん」小島は慌てて謝る。「でも、どうして。悩みがあるのなら聞くよ」

 少年の視線は交番内を彷徨い、やがてまぶたで覆われた。

 最初は何を言っているのか、分からなかった。ただ、雄二の口元が小さく動いているのだけが見えた。

「たす、けて」

「困っているのかい」小島の目の前で少年は消えてしまいそうだ。

「助けて、くれますか」

「何から」

「あいつらです」

「あいつらって誰だい、学校で苛められているのかい」

 雄二は首を振る。「誰も気付いていないんです。義ちゃんも、お母さんも、お父さんも。みんな分かっていないんです」

「どうして」

「見えないから」

 小島は雄二から視線を外した。交番の前を横切る道路に指す日差しを遮るものはなく、影も一つとしてない。アスファルトと車道を挟んだ向こう側にも住宅が並んでいるだけだ。

「見えないから」

 小島は雄二と同じように呟いた。なぜ震えているのか、その理由がようやく分かった。

 石田少年は怯えている。罪悪感ではない。もっと別の何かだ。


「雄二君は、少し疲れているみたいですね」

 小島が石田宅に連絡すると、数分もしないうちに母親が交番にやってきた。事情を知った母親が何度も頭を下げるものだから、小島は居た堪れなくなり石田少年を交番の外に出した。

「中学に上がって慣れない環境で疲れているみたいなんです。あの子、おとなしい子ですから」

 石田少年は探るように周りを見回している。小島と母親の会話も耳に届いていないようだった。警戒していると小島は感じた。

「こんなことを聞くのは大変失礼だと思いますが、雄二君のお話を聞いて上げたりはしていてますか」

 母親は曖昧に頷いた。「あまり、口数の多い子じゃないんです」

「そうですか」

 小島は自分の事を思い出していた。雄二と同じ年の頃は、もう反抗期に突入していて、両親とは口喧嘩が絶えずにいた。雄二と母親の仲も険悪なようには見えない。踏み込むのも、かえって悪いだろう。

 結局、雄二から具体的な理由を聞きだせないまま、小島は親子を家に帰らせた。明日、雄二から回収した包丁を返すと共に、ちゃんと金物屋さんに訳を説明しないとなと思いつつ机に向かう。

 つい今しがたの出来事は報告書に書くほどの事なのかと悩んだが、とりあえずは書いて、明日の朝にでも先輩に判断を仰げばいいかと、ボールペンを走らせた。

 半分以上が余白の報告書をファイルに閉じて、小島は凝った肩を回す。大して時間はかかってはいないものの、慣れないことに神経を使い過ぎた。

 肌寒さを感じれば、交番の中からでも日差しが傾いているのが見えた。春になっても陽の落ちる時間は冬と変わらない。立ち上がって外に出れば、帰路に急ぐ背広や制服姿があった。

 この人々の流れが終われば、町も今日の活動を終える。あとは適度に仮眠をとって休みつつも、朝を待つだけだ。小島は思い出したように受話器を取り、近くの中華屋に夕飯の注文をした。

 少し経って届けられた醤油ラーメンを独り啜りながら、小島は夜に沈んでいく町を眺める。明るさを失い姿が不明瞭になっていく町の様子に、小島は昼間の雄二を思い出した。

「あいつらは見えないから」

 石田少年は怯えていた。彼が包丁を盗もうとしたのも、見えない存在から身を守るためだったのだろう。母親が迎えに来た時も警戒を続けていた。

 彼の妄想だろうか。慣れない中学生活に逃避して、雄二にしか見えない敵を作り出しているのかもしれない。そう考えると気の毒にも思える。小島は友人関係に関しては、困ることは無かった。

「よーお、お巡りさん」

 赤ら顔の老人が交番の入り口に立っていた。名前は知らないが、毎夜のごとく交番に現れるので、すっかり顔見知りになっていた。

「こんばんは」

「いい夜だねえ、こんな夜に酒を呑まないなんて、お酒様に悪いよなあ」

「いつだって呑んでいるじゃないですか」

「そりゃあ、そうか」と陽気な老人は笑って自分の額を叩いた。「じゃあな、お巡りさん。風邪をひくんじゃないぞお」

 千鳥足で去っていく老人を見送るべく、小島は外に出た。歩道を行く老人の足取りは今にも止まり倒れそうだが、それでも奇妙な足さばきは、それとは無縁の安心さを印象付ける。小島が小さく苦笑いして、交番に戻ろうとした時だった。

 街路灯の下、照らされた老人が突然に尻餅をついた。

 思わず足を止めた小島は老人を凝視した。まるで何かにぶつかったように腰から落ちた。小島は何が起きたのか見定めたい衝動を頭を振って追い出すと、彼の下へ駆け寄った。

「大丈夫ですか」小島の大きな声は町によく通った。

 腰砕けになった老人は手を後ろにつき、まるで魂を抜かれたような顔で宙を見上げている。怪我をしている様子はない。ただ茫然としているだけだ。

「な、なんだ」

 小島に支えられたことに気付いた老人は、きょろきょろと辺りを見回す。小島も一緒になって、視線を周りに送るが、老人がぶつかって尻餅を着くような物は見当たらない。少し先に電信柱が立っているだけだ。

 ―あいつらは見えないから

 小島の中で雄二の言葉が反芻する。「見えない」

「見えない」老人も真似をする。

 風景がぼやけていると小島は思った。見えている景色が僅かに、たわみ歪んでいる。電柱の直線が錯覚と思ってしまう程度に、その線がずれて曲線を描いていた。

 小島と風景との間に、透明なレンズが置かれているかのようだった。

「何かがいる」

 目の前の空間から視線を切ることが出来なかった。小島は老人を立ち上がらせると、電柱から視線を外さないように後ずさりする。そのまま交番まで下がり扉を閉じた。

「何だったんだ」老人は洩らすように言う。

「分からないです」そう返答するしかなかった。

 突然、閉めた扉が控えめに叩かれる。弱々しい、力の感じられないノックだった。二人は顔を見合わせ、小島は訊ねる。「そこにいるのは、誰だ」

「雄二です」

 その一言で交番の中の空気が緩む。雄二が扉の外でおずおずとしているのが、簡単に想像できた小島はそうっと取っ手に手をかけ扉を開く。石田少年が不安げな眼差しを小島に向けていた。

「どうしたのかな」小島は努めて平然さを保った。

「見たんでしょ」

 雄二の言葉に小島は固まった。「何を言っているのか分からないけど」

「追いかけてきたから分かるんです」

「だから、何を―」

「お願いします」今にも泣きだしそうな雄二は声を張り上げた。「誰も信じてくれないんです。お巡りさん、僕と一緒に奴らと戦ってください」

 雄二は涙と鼻水を飛ばしながら激しくも、小島に懇願した。

「じゃないと、町が大変なことになってしまうんです」

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