届けられた荷物_10/19/2019
「ちわーっス。宅配でーす」
冷房の効いた編集部で、老眼鏡を通して原稿に視線を落としていた、小野慎吾は顔を上げた。
部屋にいるのは小野の他にはパソコンを睨みつけながら、キーボードを叩いている中堅の社員だけだった。時計の針が頂点を通過した、お昼の時間でなくとも編集部に人がいることは少ない。
目が合った中堅の社員が立ち上がったのを見て、小野はそれを止めた。「いや、いいよ。俺が受け取ってくる」
山積みになった資料やら本やらが段ボールに押し込められ、あちこちに散らかった足の置場もろくにない部屋の出入り口に立つ。扉を開けると、見慣れた緑と黄色の柄の制服を着た宅配業者と、彼の傍には荷台があった。梱包された段ボールが上に載っている。
「うちにか?」
「ええ、お宅の住所になっていますよ」
とりあえずは受け取りのサインをした小野に、宅配業者は「中に運びましょうか?」と親切にも訊ね、小野は無言で頷いた。
編集部に荷物を置いた宅配業者は会釈をして去ってゆき、小野は残っていた中堅社員と荷物を見下ろしていた。
「なんですかね、これ」小野の隣に中堅社員が立つ。
「さあな」宛名にはちゃんと編集部の住所が表記されている。差出人にもちゃんと名前と住所があった。「誰か荷物が来るとか言っていたか?」
「いえ、自分は聞いてないですけど。差し入れとかじゃないですか」
「いや、送り主は個人みたいだ」小野は言って腕を組んだ。「ふうむ、勝手に開けるのもそいつに悪いし、帰って来た奴らに聞いていけば、そのうち分かるか」
「そうですね」
二人は荷物をそのままに、自分の机に戻って行った。
「中々、美味い飯屋だったな。次は別のメニューも頼んでみるか」
麗らかな午後の陽気の下、武田耀司は満腹になった腹をさすりながら繁華街をふらふらと歩いていた。
「おや」
武田の尻ポケットが振動する。手に取ってみれば、スマートフォンの画面は小野編集長と表示されていた。タップして耳に持っていく。「はい、武田です」
「武田、今どこにいる」
「今は昼飯を食い終わったんで、編集部に戻る途中です」
「お前、取材に行くっていってなかったか」
「その帰りですよ」
「まあいい。お前、うちの住所で宅配か何かを頼んだか」
「編集部の住所ってことっスか。いや、何も買ってないですよ、頼んでもないし」
途端に電話の向こう側の雰囲気が急に変わったのを、武田は耳聡く捉えた。恐らくはスピーカーになっているのだろう、小野編集長の周りにも編集部員がいて、武田の返答を聞いているはずだ。
「何かあったんスか」
武田が訊ねるや否や、通話が一方的に切られる。武田の質問は独り言になって繁華街を漂い、誰の耳に届くこともなく消えていった。
「いったい、何だってんだよ」
何かが起きたという胸騒ぎよりも、自分だけ除け者にされているという疎外感の方を武田は強く感じていた。例え殺されるとしても好奇心を持ち続けなければ、オカルト専門誌で働くことは務まらないと勝手に言い張るまでだった。
「うし、行くか」
地下鉄を乗り継ぎ、編集部のある駅で降りた武田は、足早にエスカレーターを駆け上がり地上に出る。久しぶりの運動に少し息を整えてから、編集部のある雑居ビルを目指して走り出した。
落ち着きの無い雰囲気が濃くなってきている。
通りに立つ人々は皆が一方を向いていた。その視線の先に何があるのかを武田は知っている。人混みを掻き分け、編集部の入る雑居ビルを遠目にも見つけた武田の目に、赤色ランプの回転する車体が映る。
「パトカーってことは、警察が来てんのか」
正面に見えた雑居ビルの入り口を囲うようにして黄色いテープが張られ、その外側で制服を着た警官が、顔色一つ変えずに立っている。彼らから少し離れた所で雑居ビルを見上げる群衆の中に、見知った顔を見つけた武田は彼らに駆け寄った。
「編集長」
声に小野が振り返るが、武田を見ても表情が明るくなることは無い。ただ眉根を寄せて、静かに呼ぶ。「おい、早く、こっちに来い」
「何があったんスか」
「妙な荷物が届いてな、誰かが知っているかと思いきや、誰も知らないときた。それに差出人の住所を調べたんだが、空き家でな。名前も嘘だった」
「それでか」武田は溢すように呟いた。パトカーの傍には青黒い、物々しさすら纏う見慣れない車体がある。良くない意味での特別な車両なのだろう。
「今、編集部には警官が入って、例の荷物を確かめてもらっている」
言って小野はビルを見上げ、武田も彼に続いた。すぐにも炎が編集部から吹き出し、爆音が響き渡って粉々になった窓ガラスが自分たちに降りかかるんじゃないかと、不謹慎な妄想を膨らませる。
「おい、あれ」
誰かが言って指さした先、ビルの入り口から防護服が二人分、のっしのっしと重そうに歩いてやってきた。彼らは持っていた荷物をその場に置くと、傍に待機していた警察官たちにサインを出して呼ぶ。
時折、無線を口元に運びながらも話していた彼らだったが、武田たちに視線を向けると今度は小野を呼ぶ。駆け寄った小野は警察官たちと何やら話をし始めた。
「いったい、何を話しているんだろうな」
「さてな、良いニュースだといいが」
説明を受けているのだろう小野は何度か頷き、やがて武田たちを向いて、大きく手を振った。「大丈夫だそうだ」
大きく声を上げた老人の所に編集部員たちはとぼとぼと歩きだした。
「入っていたのは衣服と幾つかの記事でした。簡易的ではありますが毒物検査の結果も陰性です。この宅配物には特に異常は認められません。うちで預かることもできますが、どうしますか」
編集部に戻った小野は警察官と共に別室に入り、その扉に耳を当てて、武田たち編集部員は文字通り貼り付くようにして様子を伺っていた。
「いや、いい。うちに届けられたものだからな。わざわざ、お騒がせして申し訳なかった」
「いいえ、事件が起きなかった事が全てです。まだ、書類等に書いて頂くことがありますので、後日伺います」
聞こえてきた席を立つ音に、扉に張り付いていた武田たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ、自分のデスクに素知らぬふりをしてパソコンに向かった。
編集部を出ていく警察官を見送ってから小野は天井を見上げて、ため息をついた。「さてと」と溢してから、編集部内を見回す。
「水野君と、それから武田。ちょっと来てくれ」
武田が立ち上がると、副編集長席に座っていた水野と視線がぶつかった。お互いに首を傾げあいながら、小野の後について別室に入る。
応接室を兼ねた別室の中央に置かれた机の上で、段ボールの蓋は開かれていた。
「段ボールの中にあったのは、三人分の衣服と新聞や雑誌の記事だけだった。毒物の反応も無かったらしい」
「本当にただの宅配物だったってことですか」水野副編集長が静かに言う。
「ああ、武田」小野はやや強めに、武田を呼んだ。驚いて背筋を伸ばした武田を小野は正面から見据えた。「お前にこれの調査を頼みたい」
「ええっ、俺ですか。でも俺もまだ取材の途中だし」
「なんの記事だ」
「最近、女子高生の間で流行っているらしい謎の文字です。何でも不思議な力があって、その文字を誰にも見つからない場所に書いて、99日隠し通せると願いが叶うとか」
「それは後にしろ。もしくは他の奴にまわせ」
「ええー」と不満を隠そうともしない武田を小野は無視する。せっかく女子高生と触れ合えるチャンスなのにとは、言わなかった。
「誰が何のために、うちにこれを送ったのか知りたい」
「じゃあ、警察に任せればいいじゃないですか」
「俺たちはオカルト専門誌である前に、ジャーナリストだ。それにうちに送ってきた以上、オカルトに少しでも関係のあることだとは思う。俺たちでなければ駄目な案件なんだろう」
武田は唇を尖らせて、小野を睨む。だが、目の前の痩躯の老人には決して折れることのない意志があることを武田も知っている。
「分かりましたよ」
武田はがっくりと肩を落として別室を出ていった。残った水野と小野は顔を見合わせる。
「どうして武田に?」
「ああ見えて、あいつは俺たちが思っている以上にしっかりしているよ。何があったかは知らんが、何か底知れないものがある」
水野は分かったように頷くものの、いまだ彼にとって武田の印象は、いい年もしている癖に落ち着きの無い子供のような男だというものだけだった。
「ごっそさん」
配達されたラーメンをスープまで完食してから武田は別室に向かった。窓の外もすっかり暗くなった編集部に残っているのは他には水野だけで、彼も黙々と机の上の原稿と睨み合っている。
「さてと、一体なにを寄越してくれたんだ、名無しさんよ」
別室の段ボールの蓋は開けられたままだ。軍手をはめた武田が覗き込むと室内の照明に反射してビニールが光った。薄い膜に包まれた柔らかな衣服の隙間に、指を差し込んで段ボールから持ち上げる。崩さないように机の上に並べていく。
「スーツにドレス、それから子供用の礼服か」
机の上を衣服が占拠する。フォーマルな成人男性向けのスーツに、成人女性用の黒のドレス、それらの間に子供用の礼服が収まる。どれも状態はいい。新品といっても差し支えはないだろう。
「確か、あとは新聞記事って言っていたな」
再び、覗き込んだ武田の目に段ボールの底でクリアファイルが光った。新聞記事の状態もいい。日付を見れば、もう一〇年も前のものだった。
「X県Y町で女の子の遺体を発見」
武田は記事を持ったまま、椅子に腰を落とした。「二〇〇九年九月、Y町に住んでいた伊田亜希子さん、十二歳が遺体で発見された。X県警察は他殺と断定し、捜査本部を設立。現在、目撃情報を募集している」
クリアファイルに収められた記事のほとんどが、伊田亜希子が殺害された事件のものだった。日付を重ねても捜査の進捗状況は芳しくないらしく、新聞記事の扱いも小さくなってきたところで、また地方紙の一面を飾っていた。
「長女殺し事件の犯人、見つかる。犯人は町に住む無職の男性。容疑者は東野健太郎、三十七歳。犯行当日に付近を出没していたという目撃情報があり、容疑者宅を捜索したところ、証拠が発見される。なお、本人は黙秘を続けており―」
開けっ放しのドアがノックされ、武田は読むのを中断して顔をあげる。水野が顔を覗かせていた。「何か分かったか?」
「気になるんですか」
「まあな」水野は言って武田の傍の椅子を引いて腰かける。「何せ、名無しの権兵衛さんのくれた謎の段ボールだ。興味が無いわけじゃない。それで、どうだ?」
武田は無言で新聞記事を差し出す。受け取った水野は眼鏡の奥から目を細くした。「ええと、田舎町で起きた殺人事件か。被害者は伊田亜希子、十二歳―」
水野は言うや否や、確かめるように「伊田亜希子」と名前を呟いた。何度も思い出すように繰り返し名前を呼ぶ。武田に新聞記事を返すと、やがて腕を組み目を閉じた。
「知っているんですか?」
「これはひょっとしたら、とんでもないブツかもしれない」
水野は慌てた様子で別室を出ていく。すぐにも「こいつだ!」と叫び声が聞こえてきて、水野はノートパソコンを持って戻って来た。
「伊田亜希子、『帰って来た少女』だよ!」水野は興奮した面持ちで、武田にパソコンの画面を突きつける。
「知っているような、知らないような」武田は疑問符を頭上に浮かばせる。
「宇宙人に攫われたと言って騒いでいた女の子だ。随分と騒ぎになったんだ」
「水野さんも取材に行ったんですか?」
「いや、俺はまだ会社員だったからな。テレビで見ただけだった。ともかく、こいつはすげえ話だぞ」
「俺は詳しく知らないスけど」
水野はパソコンの画面を指さす。表示されているのは個人ブログで、おそらくは、その『帰って来た少女』を調べ、推論と共に乗せているのだろう。
水野は指でなぞりながら、読み上げる。「事の発端は、Y町に住む伊田さん家族が消えた事に拠るものでした。当時、伊田さんは長女のピアノ発表会に出席していましたが、そのまま帰ることなく、行方が途絶えました」
「ピアノの発表会」
武田は呟いて、思わず机の上を見た。まるで武田の視線を察したかのように三人分のフォーマルな服を包むビニールが再び、光る。
「通報したのは同じ町に住む祖父母です。夜遅くになっても帰って来ない一家を心配し、警察に連絡した結果、一家が町に戻っていないことが判明しました。ピアノの発表会に出席していた一家が夜逃げするとは考えにくく、トラブルに巻き込まれたとの見解の警察でしたが、とある出来事が起きます」
武田は唾を飲んだ。「長女が帰って来た」
水野は顎を上下させた。「一家が消息を絶ってから一週間後、長女の亜希子さんだけが保護されました。当時、亜希子さんは発表会のためのドレスを着ていましたが、新品同然の状態だったと言われています。結局、最後まで家族は見つかりませんでした」
「家族構成は?」
武田は水野に詰め寄るように促した。冷房が効いているのではない、もっと別の寒気のする何かが部屋に満ちているような気すらしていた。
「いなくなったのは、伊田哲朗さん、妻の知世さん、長男で9歳の宗太君でした」
武田は机の上を見ることが出来なかった。見間違えるはずがない、さっき自分でも確認した衣服は新品のようだった。それも三人分で、どこかしらの、例えば発表会にでも着ていくためのような立派な余所行きだった。
「伊田亜希子さんは取材のために集まっていたメディアの関係者に言いました。わたしは宇宙人に攫われました、家族は今も捕まっている。だから助け出してほしいと」
「それが『帰って来た少女』」
二人とも自分の声が震えているのは自身の勘違いだと思いたかった。水野は眼鏡を外し読むのを止めた。「武田、コーヒー飲みたくないか?」
「あったかいやつスか」
水野はゆっくりと頷いた。「奢ってやるから、買ってきてくれ。俺は部屋から出たくない」
「ジャンケンしましょうよ」武田は言って組んだ腕を反転させ、組み合わさった手の空洞を覗き込んだ。
「お前、俺は副編集長だぞ」
「じゃーんけーん―」
ぽんっという武田の合図に二人は右手を出し合った。だが、表情が変わったのは武田だった。
「わ、悪いな」水野は苦笑いを浮かべて、千円札を差し出した。「頼むわ」
恨めしく自分の握り拳を見ていた武田だったが、とぼとぼと部屋を出た。編集部の扉を押して外に出る。無機質な雑居ビルの廊下を、真っ白な蛍光灯がただただ寂しく照らしていた。人の気配はなく、換気扇の回る音だけが聞こえている。
頼まれても無いくせに眩しいほどに光る蛍光灯は、より一層に陰影を濃くする。物陰から何かが飛び出してくるんじゃないかと、武田は気が気じゃなかった。
「この荷物の送り主は俺たちに、『帰って来た少女』を記事にして貰いたいって言ってるんですかね」
「他の考えは思いつかないな。まあ、ずいぶんと手の込んだ悪戯だな。悪趣味にもほどがある」
「普通にメールで連絡しても、取り合ってくれないと思っていたんスよね。きっと」
水野は何も言わず、肩をすくめた。
「それにしても、どこで服を手に入れたのか」武田は言って、背筋に悪寒が走るのを感じた。「まさか、一家を誘拐した奴がこの荷物の送り主?」
「んなわけあるか。犯人が自分から証拠品を出すわけないだろ」
「宇宙人からのプレゼントとか」
「バカなこと言うな。十中八九、偽物だろ。今から十年近くも昔の事件だぞ。こんなに状態が良いわけあるか。俺たちの気を惹くために、わざわざ用意したんだよ」
「俺たちはそのバカなことを大真面目に取材しているんですよ」
二人は机の上の衣服から距離を取って缶コーヒーに口をつける。誰かが着ていたであろうとっておきの衣服は、まるで危険物か何かのようですらあった。
武田は恐る恐る段ボール箱を覗き込み『帰って来た少女』についての新聞記事を探すものの、あるのは伊田亜希子の殺人事件の記事ばかりだった。
「その『帰って来た少女』は何をしたんスか?」
「何だったかな」と言って水野はキーボードを叩く。「ええと、『帰って来た少女』は戻って来たY町で、まるで神の使いのように祀られました。一般人との接触も限定的なものにされ、まさに巫女のように扱われました、とあるな」
「大騒ぎになったんですね」
水野は武田にノートパソコンの画面を見せる。画面の中央にある写真には、神輿に担がれた空色の洋風のドレスを着た少女が座っていた。ちぐはぐなそれは、和洋折衷とは程遠い印象がある。
「『帰って来た少女』の出現以降、Y町には超常現象が頻発するようになりました。リポーターがいる頭上でUFOが飛んだ。人が消えた、宇宙人が歩いていた等です」
「マジか」
「狂信的な盛り上がりから二週間後、伊田亜希子さんは町はずれにある、農作業小屋の裏で死体となって発見されます。地元の警察の地道な捜査の結果、町に住む無職の男性が殺人の容疑で逮捕されました」
武田は新聞記事に目を落とす。東野健太郎が容疑者として検挙されたものの、黙秘を貫いているという内容だった。クリアファイルを捲り、武田は続きを読み上げる。
「伊田亜希子さん殺害の容疑で取調べ中だった、東野健太郎容疑者が犯行を認めた。ええと、おおっと?」
「どうした」水野は静かに訊ねる。
「容疑者の東野健太郎が裁判の数日前に、獄中で死体となって発見される。死因は頸椎圧迫による窒息死、傍には犯行を悔いる遺書があった」
「自殺と遺書か」一息に缶コーヒーを飲み干すと水野はパソコンを畳んだ。
「きな臭いスね」
水野は大きくため息をついた。「ここで話をしていても埒があかないな。武田」
武田にも水野が話そうとしていることは分かっていた。未知の物に対する恐れがないわけではないが、それを大きく上回る好奇心が彼の心を占めていた。
「Y町に行って来い。現地でしか分からないことがあるはずだ。お前が向こうに行っている間、俺もこの事件について調べてみる」
「取材費は?」
「心配すんな。ちゃんと落ちるよ」
「もしものための労災も頼んますよ」
「分かってる。頼むぞ」
「Y町?」
武田の発した単語に、駅のロータリーで捕まえたタクシーの運転手は、丸い顔をしかめておうむ返した。「なんだって、あんな町に?」
「仕事だよ」乗り込んだ武田は平然と言う。「その反応を見るに、あんたも知っているな」
表情は変えないもののドアを閉めた運転手はアクセルをゆっくりと踏みこんだ。静かに動き出した車はロータリーのカーブを曲がって、県道に出る。
「あんたもY町に住んでいるのか?」
「いやいや、私は別の所ですよ」赤信号に運転手は減速した。「でもまあ、ここらであの事件を知らない人は、私くらいの年になるといませんね」
「へえ、そんなにか」
「ええ、まあ、あまり話しても気持ちのいい話でもないですからね。町の人も昔の話を掘り起こしに来られたら嫌だと思いますよ」
「だろうな」取材先で嫌な顔をされるのは慣れていた。
「記者さんなんですか?」
バックミラー越しに合った運転手の視線には、あまり友好的な意味は込められていないように思える。
「そうだよ」
武田の返答に、運転手はそれっきり黙り込んでしまった。
三車線の県道の左右に、巨大なスーパーとホームセンターが広過ぎる駐車場と一緒に立っている。それらを横目にタクシーがひた走っていると道幅は減少し、何時の間にか周囲は畑と歴史の感じられる家屋やらが並び始めていた。
やがて遠くに見えていた山々の距離が近くに感じられるようになった頃、道路標識に香具の名前が現れた。
「役場までお送りしましょうか」
運転手はそう訊ねてくれるものの、口調とは裏腹に運転手の表情は暗い。あまり良い評判を聞かない町に、その事件を調べようとしている者が乗っているのだから、それも当然のことのように思えた。
「いや、町の入り口でいいよ」
武田が務めて明るく言ってから数分後、タクシーは止まり後部座席の扉が開かれる。料金を支払い、通りに降りた武田からタクシーは足早に去っていく。
町は十字に交差した県道と国道の交わった中心から家々が密集し、辺りは川と田圃ばかりが広がっている。その周りも数キロもしない距離に、山々があった。
「まさに田舎町だな」
「こっちでも調べてみたんだが、二〇〇九年に伊田亜希子を保護したのが、小島三郎という警察官らしい」
水滴の落ちる音すらも聞こえてきそうな静かな町を歩いて、間もない頃に水野から着信があった。町には自転車はおろか歩行者の姿もない。よく言えば歴史を感じさせる、本音を言ってしまえば老朽化の進んだ家屋が並んでいた。
「今も町にいるんスか」
「とは、思うが」
「分かりました。交番勤務なんですかね」
「じゃないか。出世している可能性はあるが」
「そっちでは他に何か分かったことはありますか」
「当時の記録を当たっているが、まあ難航しているよ。編集長も他の部員には口外するなと言っているしな」
「へえ」と武田は素直に溢した。「期待してくれているんスかね」
「どうだろうな。さて、切るぞ。気をつけてな」
相変わらずの水野に頼もしさに火を点けられた武田は、やる気を覚えるが、澄み切った秋晴れの空と静かすぎる町並みに、欠伸と共にやる気もがこぼれていく。日光を浴びながら思い切り背伸びをした。
「穏やかな町だなあ」
ぼんやりと空を見上げながら武田は呟く。その彼の後ろから子供たちの声が聞こえてきた。なぜか、ほっとした武田の横を、まさに風の子といわんばかりに子供たちは駆け抜ける。
「元気だなあ」
ぼんやり見送っていると、武田の姿に気付いた子供たちが駆け寄ってきた。
「ねえ、おじさん。どこからきたの?」
おじさんという言葉に思わず体が強張ったが笑顔で答えた。「東京だよ」
「何しに来たの」
「仕事で来たんだ」子供たちの遠慮の知らない勢いに、やや圧倒される。
「ふうん。何のお仕事してるの」
「カメラマンだよ。俺はスマートフォンで写真を取るカメラマンなんだ」
武田はスマートフォンを持って構えるが、子供たちの反応はいまいち薄かった。「あれ、驚かねえな」
「だってスマホくらい、みんな持ってるし」
「あらそう」
武田はふと、子供たちの顔を見た。おそらくは十歳前後だろう。そうすると十年前に起きた「長女殺し」事件を知らないとしても、それを知っているであろう親が一緒にいないのは違和感を覚える。
「でもさ、スマートフォンでちゃんとした写真なんか撮れるの?」
「そうだよ。あの大きくて重くて黒いやつでしょ、写真撮るのって」
「いまはスマートフォンも高性能なんだぜ。だから俺でもプロになれるのさ」
「へえー」と子供たちは声を揃える。
「それで、この町でいい被写体になりそうな場所はあるかい?」
「ヒシャタイって何?」
「えーと、写真映りの良い建物とか場所ってとこだよ」
武田が言い終わるや否や、子供たちは目を輝かせて武田に詰め寄る。「バエだ!」「バエ!」と次々に口にする。
「幽霊屋敷!」一人が手を挙げて、飛び跳ねた。
「ハイキョの植物園!」もう一人も続けて真似をする。
「幽霊屋敷に植物園?」武田は苦笑いしそうになったが、それは裡に留めた。一生懸命な彼らに、その態度は失礼だろう。「町にあるのか?」
「あるよ!」
「そうか、ありがとうよ。後で行ってみるぜ」
武田の周りを飛んだり跳ねたりしながらも、子供たちはしきりに武田に話をせがんでくる。無限のようにも感じられる体力を羨ましく思いつつも、武田も気分は悪くはなかった。
「あっ!おい!」
少年の一人が足を止めた。周りの子供達も何かを見つけたらしい。武田は彼らが警戒を向ける方へと視線を送った。
車道を挟んだ反対側の歩道を人が歩いている。その姿に武田はギョッとして足を止めた。
長い黒髪は背中を覆うほどに長く、遠目にも酷く痛んでいるのが分かる。顔もすっかり隠れてしまっていて、表情はおろか性別すらも判断できない。着ている服も、どちらかと言えば、ぼろ布という方が正しいようにも思える。
その彼だが彼女だかの周りを、何匹もの猫がつかず離れずの距離で歩いている。少年たちがはっきりと向ける敵意を猫たちも感じ取っているらしい。猫たちの発する、唸るような声が聞こえてきていた。
「消えろ!猫婆!」
「そうだ、そうだ!町から出ていけ!」
少年たちは転がっていた小石を掴むと、振りかぶって道路の反対側へと投げた。投げた石は婆と猫たちには届かず、しかし猫たちは跳んで後ろに下がった。
「おい、止めろ。人に向かって物を投げるな」
武田が諫めると少年たちは渋々動きを止めた。俯いて石を捨てる。
「あの人が怪我したらどうするんだ」
足を止めていた猫婆はじっとその場に佇んでいたが、やがてまた歩を進めだした。子供達と一緒に猫婆の後ろ姿を目で追う。
「あの人は?」
猫婆は辛うじてズボンと呼べる服の裾を引きずりながら、武田たちから牛歩よりも遅い歩みで離れていく。彼女の周りだけ時間の進みが遅いようだった。
「猫と一緒にいるから猫婆って呼ばれてる。いつから町に居るのかは知らないけど」
「いつの間にか居たのか?」
少年たちは次々に頷いた。出会ったばかりの相手の事を悪く言うのは気が進まないが、確かに印象は良くなかった。出来れば、お近づきにもなりたくない。
「ああやって町をウロウロしているんだ」
「危害を、ああいや、危ない人なのか?」
「ううん。何もしてないよ。ただ居るだけ」
「じゃあ、なおさら駄目だろう」
少年たちは明るい調子で分かったと言って再び武田の前を歩く。十年前の殺人事件の他に、怪しい婆までいるのかと武田は少しだけ肩を落とした。
水野の地図の通り歩いて、四角い建物が視線の先に見えてきた。子供たちとは別れを告げて武田はまっすぐに交番に向かう。近づくとベージュ色の建物の禿げた箇所や錆びが、目立って見えた。
「あのー」
制服姿の警察官が中で書類に向かっていた。まだ若い。武田と同じか、それ以下の年にも思える。武田の姿を認めると、立ち上がって笑顔になった。
「はい、なんでしょうか」
「小島さんという警察官を探しているんですけど、いますかね」
「ああ、ええっと」若い警察官は何度か瞬くと、交番の奥に顔を向けた。「小島さーん」
交番の奥から現れたのは年老いた警察官だった。瞼は重そうで、気だるいのか、あるいは熱意が枯れ果ててしまっているのか、足取りも重い。物腰の穏やかなと言うよりも、ただ仕事の時間を淡々と過ごしているという印象だった。
「一応、身元を確かめてもいいですか」
若い警察官の要求に武田は財布から免許証なり、名刺なりを差し出した。警察官は受け取って見比べていたものの納得したように頷くと、返した。
「はい、ありがとうございます」
「私に何の用かね」小島警官の声は顔つきに比べると、幾分か若い。見た目以上に実年齢は若いのかもしれない。
「十年前に起きた、伊田亜希子さんの事件についてお話を伺いに来ました」
小島の瞳に火花が映る。空気がわずかに熱を帯び、武田の頬がひりつく。だが小島は何も言わずに、その厚いまぶたの下に見え隠れする瞳で、武田をじっと見るだけだった。
やがて小島は膝に手を当てて立ち上がると、武田に背を向け、また奥の部屋へと歩きだした。彼の背中は頑として、どんな言葉も受け付けないような威圧感があった。
秋晴れの陽気も差し込む交番の中であって武田たちを取り巻く空気は、それとは全く異なった、穏やかさの欠片もないものだった。無言のまま首を振った武田は、若い警察官に見送られて交番を出る。
武田は空を見上げる。視界いっぱいに広がる晴れ渡った空の片隅で、灰色の塊が漂っていた。きっとあの雲の下では雨が降っているのだろうと勝手にも想像していた。