プロローグ_1/15/1990
深い夜に沈んだ山の中で、野犬は風に誘われるように顔を上げた。彼の周りでは妻と子供たちが穏やかに寝息を立てている。
人の視力など到底、無力にも感じられるほどに暗い雑木林の片隅で、身を寄せ合っていた一家の長は辺りの様子をじっと気配を殺したまま伺っていたが、やがて何かに気付いたように夜空を見上げた。
周囲に人工的な明かりは一つもない。一筋の光もない夜の山の中から覗ける藍色の空には敷き詰めるように星が瞬いている。星々の隙間を縫うように流れ星が現れては糸を引いて消えていく。
星の数が多い、と一家の長は感じた。いつもよりも星の輝きが強い。気のせいかもしれないが、普段とは異なる雰囲気が漂っているとも感じていた。落ち着きのない風が運ぶ気に当てられて、他の動物たちが騒ぎ始めないとも限らない。
一家の長は家族を静かに起こす。夫のただならぬ気配に妻はすっと立ち上がると、まだ幼い子供たちを鼻で突いたが、子供たちは寝ぼけ眼のままだ。
時間が無いわけではないが、行動は早い方がいい。両親は特にぐずる子供の首を咥え、足取りのしっかりし始めた子供たちを急かしながら、別の隠れ家に舵を切った。
しばらく歩いて、一家の長は足を止めた。絶えず、周囲の音を集めていた耳が微細な空気の振動を捉えた。何かが近づいてきている。
彼は家族を茂みに促し、辺りを見回す。知らず知らずのうちに別の家族の縄張りに入ってしまったのかもしれない。話して分かれば良いが、もっと不味いのは自分よりも巨大な猪だ。彼らは威嚇もなしに飛びかかってくる。
僅かにだけ感じていた振動が大きくなっていた。彼は神経を張りつめ、毛の一本一本で原因を探ろうとしていた。
いよいよ空気の震えが、葉を揺らし木々を揺さぶり始める。激しい風が山を叩き付けるように吹き荒れ、見上げた彼の真黒な瞳に眩いほどの光が映り込んだ。
輝かしいほどに上り立つ、青白い炎を身に纏った巨大な塊が空から迫っていた。轟音が深夜の山に降り注ぐ。身を潜め、眠っていた動物たちが目を覚まし、彼らの顔を照らす。
一家の長はじいっと、まるで魅了されたように、地上に落ちてこようとしている巨大な塊を見守っていた。彼を煽る風すらも気にならないほどだった。
山を揺さぶりながらも、緩やかな落下を続けていた塊は、山中の視線を受けつつも彼らの住む山の一つ向こうに消えた。
瞬間、山向こうが爆発したように一際に強く輝き、暗闇の中のありとあらゆる存在を浮かび上がらせる。爆風と共に重い低音が山を駆け抜け、すぐにもまた静まり返った。それが地面に接触した時の音だと、森の住民たちは直感で理解していた。
まだ塊の余波が雑木林に残る中、一家の長は冷静だった。彼は頭を振ると正気を取り戻し、家族と共に隠れ家へと急いだ。
よからぬことが起きると彼は強く感じていた。
「まったく寒いなあ」
厚着をして、さらに毛糸の帽子を被った青年は天体望遠鏡を覗き込みながら、しみじみと言う。彼の吐く息はわずかな時間を白く漂っては夜空に消えていった。
「健兄ちゃん」
親しみを込めて呼ばれた健兄ちゃんが振り返ると、彼の立つベランダに少年が手元に視線を落としながら現れた。少年の手には湯気の立つマグカップが見える。
「雄二、サンキューな」
「うん」雄二はマグカップを健兄に渡すと、隣に腰を落とした。
それぞれ毛布に身を包みながら夜空を見上げ、時折マグカップに口をつける。ココアの香りと温かみが口いっぱいに広がり、二人はそろってため息をついた。満点の星空にかかったもやは、瞬く間に薄くなっていく。
「早く、暖かくならないかなぁ」
「なに、あっという間さ」
健太郎はそう言うものの、関東と東北の境にある、この町に訪れる春はと言えば世間ではもう初夏と呼ばれる時期だった。
「健兄ちゃんはいつから東京に行くの」
「三月の終わりまではいるつもりさ。大学の入学式が四月だからな」
「じゃあ、あと」雄二少年は指を折って数える。「二週間と一カ月だ。意外とこっちにいるね」
「その言い方だと、さっさと出て行って欲しいようにも聞こえるな」
「そんなことないよ、もっと一緒にいて欲しいに決まってる」ややムキになって雄二は言う。
「本当かぁ」と健兄は意地悪く笑った。
「本当さ」雄二は何度も頷いた。「ずっとこっちにいてくれればいいのに」
「そんな甘ったれたことを言っていると、大人になれないぞ」
「健兄ちゃんがいてくれるなら、大人にならなくてもいいっ」
「そうか」言って健兄は雄二の頭を撫でた。ただ撫でれば、子ども扱いするなと雄二は怒るものだから、健兄は苦笑するしかなかった。
「雄二も四月からは中学生なんだから、もうしっかりしないとな」
「ううん」と雄二は曖昧に唸った。
どちらかといえば内向的な雄二に、学校に友人が少ないことも健兄は知っていた。ここまで懐いてくれることに嬉しさもあったが、やはり自分がいなくなった後のことを健兄はどうにも心配してしまっている。
雄二の両親も大人しい息子の将来を心配している。何かしらの発破を雄二にかけてやるべきだろうかと、高校生の健兄が考えていると、雄二は不思議そうに健兄の顔を覗き込む。
「健兄ちゃん、どうかしたの」
「いや、何でもないよ。おっ、雄二、見ろよ」
二人は顔を上げた。満点の星空の間を数えきれないほどの流れ星が、隙間を縫っては現れ消えていく。
「うわあ」雄二は大きく口を開けて、目を輝かせる。
町には街路灯も少なく、深夜まで営業している店は滅多にない。時間も遅くなれば自然と明かりは減っていき、雄二の家のベランダからでも流星群を眺めることが出来た。
「やっぱり綺麗だなあ」
健兄は夜空に見惚れていた。この景色とも一月ほどでさよならを告げることになる。受験のために訪れた都内のホテルでは、星は特に強いものしか見えなかった。彼はこの夜空を惜しむように眺めていたが、やがて何かに気付いたように眉根を寄せた。
「あの星、妙に大きくないか」
彼の独り言は雄二には聞こえていないようだった。夜空のわずかな異変に気付いた様子もない。
健兄は天体望遠鏡を覗き込んだ。彼が見つけた星はレンズ越しで見る必要が無いほどの速さで大きさを増していた。「兄ちゃん、あれ」と雄二が驚いた声を上げる。
健兄はレンズから片目を外す。もはや疑いようがなかった。肉眼でも見間違うはずがないほどの大きさの塊が迫ってきていた。
「お父さーん、お母さーん」雄二は大声で呼ぶが、その必要もなかった。
町の空にあって輝かしさを放つ巨大な塊は、大気を震わせ町を揺らしていた。吹き荒れる風が二人の髪をかき上げる。家の庭に慌てて飛び出してきた雄二の両親たちは、空を見上げた。
「雄二、健太郎君、家に入りなさい」
雄二の父親が半ば怒鳴るように二人を呼ぶ。健太郎は雄二の手を引いて部屋に飛び込んだ。閉めた窓辺から見上げた二人の視線の先で、真っ直ぐに落ちつつある巨大な塊はなおも青白い光を体から溢れさせる。
「隕石、落ちないよね。死なないよね」雄二は健太郎の手を強く握った。
「ああ。大丈夫さ」とは言うが健太郎の声も震えていた。
遠近感を失うほどの巨大な塊が、雄二たちの町に落ちることは無かった。塊は町からほど遠く離れた裏山の向こう側に落ちて消えると、最後に強い光を放ち地響きが彼らを揺らす。あまりの衝撃に部屋の物が倒れて落ちた。
「雄二、部屋にいろよ。ご両親の言うことを聞くんだ」健太郎は雄二の両肩を掴んで、言い聞かせ、立ち上がった。
「健兄ちゃんはどうするの」雄二は縋るように、健太郎を見上げる。
「父さんたちが心配だ。様子を見てくる。天体望遠鏡は預かっていてくれ」
健太郎が言うと、事の重大さを理解したのか雄二は静かに頷いた。目だけで語り掛ける雄二を置いて健太郎は階段を駆け下り、一階で険しい表情を浮かべていた雄二の両親に、簡単に言葉をかけて家を飛び出して行った。
いつもの夜とは違う。健太郎は自宅を目指しひた走りながら、そう強く感じた。家の外に出た住人の誰もかれもが寝間着姿のまま不安げな表情を浮かべ、互いの安否を確認するかのように顔を寄せ合い、話をしている。パニックが起きていないだけマシなのかもしれない。
「健太郎」
閑静なはずの住宅街をしばらく走って息が上がった頃に、たどり着いた自宅で健太郎を迎えたのは、険しい顔で家から飛び出したばかりの彼の父親だった。
「父さん」
健太郎の父親もまた周囲の人たちと同じように寝間着姿だったが、眠気は抜けきっているようで、目つきはほとんど仕事をしている時のそれと変わらなかった。
「よかった、無事だったか」
「父さんこそ。母さんは?」
「部屋で休んでいる」
健太郎は胸をなでおろした。「父さん、どうして外に?」
「町の様子を見てくる。裏山に隕石が落ちたと大騒ぎになっているらしいな。私は地震だと思っていたんだが」
「僕も行くよ」
父親は小さく笑った。「気持ちだけ受け取っておく。母さんの傍にいてやってくれ、かなり気が参ってしまっている」
「警察は」
「もう呼んである、これから―」
言い終わらない内にも健太郎の家に、続々と大人たちが集まってきた。緩い普段着を着ている彼らの中でも、すでにスーツかあるいは作業着を着ている者までもいる。真剣みを帯びた彼らに健太郎の父親はすばやく指示を飛ばすと、彼らの後について駆け出して行った。
健太郎はしばしの間、家と道路とを交互に見やっていた。彼の瞳には迷いがはっきりと映っていたが、すぐに家に踵を返すと父親の後を追いかけて行った。
「あーおう」
飼い猫の只ならぬ呼び声に、八木美智子は居間で跳ね起きた。服の袖にも頬にも乾いた涎の跡がある。いつの間にか眠っていたらしい、と呑気に考える暇はなかった。驚いて辺りを見回す彼女を容赦なく地響きが激しく揺らす。
「えっ、何、地震」
「なーっ」
飼い猫がまだ寝ぼけたままの飼い主をけたたましく呼ぶ。八木は飼い猫を抱えると慌ててテーブルの下に潜り込んだ。あまりの強さにテーブルが震え移動するので、八木は抱えていた猫を離し、テーブルの脚を必死に掴んだ。
「もっと背の高いやつを買っとけばよかった」
半泣きになりながら後悔する八木の目の前で、棚で震える置物が目に入った。沖縄で買ったシーサーは口を間抜けに開けて、カタカタと小刻みに振動しながら着実に落下への道筋を辿っていた。
「うそ」
八木は無我夢中でテーブルの下から飛び出し、両手をシーサーへと伸ばした。大きく目を見開いた焼き物は棚の端へと到達し、バランスを崩して宙へと転がった。
「待って」
空中で回転するシーサーに向かって、八木は精一杯に体を伸ばす。駄目かもしれない、と八木は目を閉じて念じた。その彼女の手のひらに確かな重みが伝わり、八木は目を開く。逆さまになってシーサーが手のひらに収まっていた。
「よかった」
八木がほっとしたのと、ほとんど同時に八木の家を揺さぶっていた地響きが収まった。
うつ伏せのまま肩で息をしていた八木は、体を起こすものの床に力なく座り込んだ。そんな飼い主の下に、飼い猫が「なー」と力なく鳴いて近づいて来る。すっかり気の抜けてしまった八木は、シーサーを床に置いて彼女の背中をぼうっと撫でた。
「なんだったの」
窓の外では異常事態に気付いた住民たちが外に出始め、落ち着きの無い彼らの間を、不安げな表情のまま駆け抜けて行く健太郎の姿があった。
「雄ちゃーん」
一階で両親と家に籠っていた雄二の耳に届いたのは、数少ない友人の明るさの感じられる声だった。雄二は父親の許可を得ると、玄関に駆け出した。
「義ちゃん」
雄二は安堵を声音に乗せる。もう年も新しくなった頃だというのに、雄二の家の前に仁王立ちしていたのは、リュックを背負った半ズボン姿の田中義男だった。傍には自転車が停まっているのが見える。
「平気だったかよ」
「うん。健兄ちゃんも一緒にいたから」
二人の間を風が吹き抜け、義男は思わずくしゃみをする。へへっと笑ってから、鼻を拭いた。「雄ちゃん、これから見に行こうぜ」
「いったい何を」と雄二は返したが、ある種の予感が彼の脳内を駆け巡っていた。
「決まっているだろ、隕石だよ」
雄二は読むだけに知っていた、空いた口が塞がらないという言葉を、身をもって実感していた。義男は町でも悪い意味で有名だった。何か事件が起きれば、その陰には義男がいつもいたが、どうして、そんな彼が雄二と仲が良いのか雄二自身にも分からなかった。
「本気で言っているの」
「本当さ。つーか早くしないと、やべえんだよ」義男は辺りを落着きなく見回す。「早く、雄二も行こうぜ」
「危ないよ、義ちゃんも知ってるでしょ」言って雄二は義男に周りを見るように促した。まだ町は落ち着きがない。今晩中はもうずっとこんな感じかもしれない。「今夜は外に出ない方がいいよ」
「いーや駄目だね。今しかないでしょ。明日には警察だって来るかもしれないぜ」
「もう来てると思うけど」
「義男っ」
聞きなれた声が義男を叱りつける。雄二が道路に出てみれば、これもまた見慣れた人が自転車に跨っていた。呼びつけた人物の怒気が体からあふれ出し、鬼のような形に見えるのは錯覚だろうかと雄二は思わず目をこすった。
「げえ、姉ちゃん」
「あんた、こんな時くらい人の言うことを聞きなさいよ、お母さんが心配しているでしょうが」と雄二の姉は通る声で、怒鳴る。
「俺が人の言うことなんか聞くもんか」
言い捨てると義男は自転車に跨り、夜の道へと颯爽と繰り出して行った。呆然としたまま眺めていた雄二の所に、義男の姉が怒りを蓄えたままやってきたが、雄二の顔を見て、表情をするりと変えた。
「知世さん」義男の姉の変わり身には驚きよりも、むしろ怖さを覚える。
「雄二君、ごめんね。あいつ、こんな時なのに全然言うこと聞かないんだから」
自分も怒られているようで、雄二は自宅の前にいるはずなのに居心地の悪さを感じていた。町の悪ガキを代表する雄二の姉であって、知世の気の強さは雄二も知っている。
「あの僕、義ちゃん、連れ戻してきます」
雄二が駐車場に置いてある自転車に跨ると、知世は驚いて目を丸くした。
「えっ、ちょっと。雄二君」
止めようとする知世の手をすり抜けて、雄二は先に行った友人を追いかけて行った。
父親の姿を探して、住宅街を走り回っていた健太郎は見えた光景に足を止めた。
住宅の塀の傍で捨てられていたのは、スポーツタイプの自転車だった。カラカラと車輪が寂しく回るそれは町内で一台しかないはずだ。持ち主がせっせとアルバイトをして貯めた金で買ったことも、わざわざ自慢に見せびらかしに来たことも知っている。
呼吸を整えながら塀を回っていくと、急に飛び出してきた背格好のほとんどが似た青年とぶつかりそうになり、飛んで避けた。
「健太郎」「哲朗」
親友たちは互いに名前を呼び合う。二人は背格好だけではなく雰囲気も似ていた。町唯一の高校で一、二を争う秀才たちは眼鏡の奥で視線を交わすと、お互いの肩を叩いて再開を喜んだ。
「無事だったか」「ああ。そっちこそ」
「そうだ、お前。知世を見てないか。飛び出した弟を追いかけていったらしいんだ」
哲朗の必死さの原因はそれかと、健太郎は半ば呆れながらも心の裡に留めておくだけにしておいた。初めてできた彼女に舞い上がるのも無理はない。そうでなくとも隕石のせいで、落ち着きがないのは健太郎も同じだった。
「俺が知るかよ。なんでお前の彼女の面倒まで見なきゃいけないんだ」言って健太郎の中で閃くものがあった。「確か、雄二と仲が良かったよな。あいつの家にいるんじゃないのか」
「石田さんの家か。分かった。それで、お前は何をしているんだ」
「父さんの手伝いだ」
「そうか。町長だからな、お前の親父。大変だよなあ、だが、まあ悪いけど、お前の手伝いはできない。俺には知世がいるからな」
思いついた単語を発するだけのような親友に、健太郎は軽く笑って見せた。相当、興奮している。「頼んでないよ」
「そうか、わかった。また明日、学校でな」
哲朗は倒れていた自転車を起こすと、サドルに跨ごうとするものの足が震えているのか、上手くいかないようだった。
「おい、哲朗」
振り返ろうとする哲朗の肩を健太郎は強く一度きり叩くと、乾いた音が町に響き渡った。哲朗もまた張りつめていた糸がほどけたのか、自分の頬を何度か叩いた。
「うし、ありがとうな」「ああ」
ペダルに足を乗せ、数回漕ぐだけで哲朗の姿は遠く小さくなっていく。暗闇のせいもあって、かなりの速さが出ているようにも見えた。
「健太郎」
遠くから聞こえてくる親友の声に、健太郎は暗闇に消えた親友の姿を探した。
「気ぃ付けろよぉ」
はたして見えているのか定かではないものの、健太郎は大きく手を振って答えた。チリン、チリンと呼応するようにベルが鳴り響いた。
「大丈夫か、怪我はしていないか」
一軒一軒、丁寧に家を回って行く町長の姿は瞬く間に噂になって町に広がり、住民たちにはどことなく安心した空気が漂うようになっていた。
「ええ、ええ平気です。町長さんもお気をつけて」
年配の夫婦は固く握られた町長の手をありがたそうに、握り返す。力強く少しの不安も見せない町長は、片時も休むことなく家々に飛び込んでは住民の安否を確認する。
一晩中を走り続けた町長も、流石に疲れを感じ始めていた。猫の手も借りたいとは言うが、素直に息子の申し出を受けるべきだったかなと自嘲気味に笑う。周囲にいた部下たちは不思議そうにのぞき込んできた。
「東野町長」
町長を含めた集団が声のする方へと顔を上げた。スーツ姿の部下と警察官が何名か一緒になって駆け寄ってきていた。
「米持君、どうした」
四十も半ばになった米持は膝をついて息を整える。大きく突き出たお腹は重そうに垂れ下がっている。少しでも痩せるべきではと東野町長は常日頃から思っていたが、今夜のことで決心がつくかもしれない。
「どうした」
「裏山に落ちた隕石が確認できたそうです」
息も絶え絶えな米持のもたらした情報は稲妻のように町長たちを駆け巡り、痺れを走らせる。東野が感じていた疲れも吹き飛ぶほどだった。
「本当か」
「はい。いち早く向かった猟師たちが見つけたそうです。彼らも裏山の入り口で待っています」
「よし、役場で着替えてから向かおう」
東野の指示に部下たちは頷いて返すと、皆役場を目指して走り出して行った。
「義ちゃーん」
雄二は自転車を押して、義男を探して辺りを見回す。町は静寂を取り戻しつつあるようで、まだわずかに異様な雰囲気が燻ったように残っているだけだった。それも、風が吹けば翌日には散って消えるだろう。
「おい、雄二」
妙に潜めた声は確かに義男のものだった。どこかと視線を巡らせれば、電柱の陰で激しく手招きしている人影があった。
「義ちゃん」ようやく見つけた親友の姿に、雄二の声の調子も上がる。
「バカッ、大きな声を出すな。姉ちゃんに見つかるだろうが」義男は言いながら、自分の唇に人差し指を立てる。
「お前、やっぱり隕石が気になるんだな」
誇らしげに胸を張る義男を連れ戻しに来たのだと、雄二が伝えると、義男は信じられないとばかりに口を大きく開けた。「お前、隕石だぞ、見たくないのかよ」
「見たくないよ。早く帰ろうよ。僕だって―」
突然、義男が雄二の顔に手のひらを向けた。戸惑った雄二は固まり、眉間に皺を作る。
「どうしたのさ」
「見ろよ」と義男は反対側の歩道を指さした。「大人たちがたくさんいるぜ」
雄二もつられて義男の人差し指の先を見る。物々しい雰囲気を携えた大人たちが何人も連れだっている。作業着に身を包んだ彼らの進行方向に目を向ければ、まだ深い夜の闇に沈んだ裏山を形造る影があった。
「きっと隕石を見に行くんだぜ」義男は雄二の横に顔を並べて言う。「後をついていけば、隕石をオガメルぜ」
「危ないよ」雄二は慌てて否定するものの、義男の目は暗闇の中でも輝いているようにも見えた。雄二の中で不安ばかりが膨らむ。
身を潜める二人には気付かずに、東野町長を含めた集団は足早に裏山へと続く道を行って消えた。
「よし、行こうぜ」
雄二の意中など、お構いなしに義男は立ち上がると後ろに振り返ることもなく走り出した。
「ちょ、ちょっと、義ちゃん」
雄二は慌てて立ち上がる。義男の背中が小さくなっていく。今追いかけないと、二度と会えなくなるのではと怖さを覚えるが、けれどたった一人で義男を止められるとも思えない。雄二は辺りを見回すが、助けてくれそうな大人はいない。
「待ってよ、義ちゃん」雄二は半べそをかきながら、義男の後を追った。
「あれは」
健太郎は町をまっすぐに駆け抜ける小さな影を見つけた。足を止めて目を凝らす。「義男か?」
義男はわき目も振らずに走っている。どこか興奮しているように見えるのは、錯覚ではないだろう。きっとまた、ろくでもないことを企んでいるに違いない。
「まったく」と健太郎は頭を振り、すぐにも哲朗が言っていたことを思い出した。「たしか、田中知世が探しているんじゃなかったか」
周囲にそれらしき姿はない。心配事が増えたと勝手に考えていると、どんどん義男は遠くなっていく。呆れながらも、慌てて追いかけようとした健太郎の目に、信じられないものが飛び込んできた。
「雄二か」
もたれそうな足で必死に走る雄二の姿があった。今にも転んでしまいそうだが、それでも前だけを向いている。健太郎がいることには気づいていない。大方、義男の無茶に付き合わされているのだろう。
「ご両親の言うことを聞けといったのに」
健太郎が走りだすと、雄二の背中にはすぐに追いついた。「雄二っ」
聞きなれた声に雄二はすぐに振り返った。いつも頼りにしている健太郎の顔を見て、雄二の顔は涙で崩れてしまい、隠すように飛びついた。「健兄ちゃん。怖かったよぉ」
「怖かったよな。もう平気だぞ。それで、義男を追いかけていたんだよな」
雄二は顔を擦り付けたまま何度も頷いた。「義ちゃん、どんどん先に行っちゃうんだ。でも、僕は義ちゃんの友達だから、追いかけないといけないんだ」
「ああ、わかってるよ」言って健太郎は雄二の肩をやさしく叩いた。「よく、頑張ったな」
健太郎はゆっくりと雄二を剥がすと隣に座らせた。しばらくの間、しゃくりあげて泣いていた雄二も肩から伝わる温かみに、やがて落ち着いた。
「さてと」健太郎はゆっくりと立ち上がる。「義男を探しにいかないとな」
「危ないよぉ」
「平気さ」
縋りつこうと手を伸ばした雄二に健太郎は微笑みかける。「雄二は真っ直ぐ、家に帰るんだぞ」
雄二は健太郎を止めようと口を開くものの、言葉が出てくることは無かった。健太郎は雄二を、その場に押しとどめるように肩に手を置いた。
「すぐ、帰ってくるから」
すばやく駆け出した健太郎を止めようとした、雄二の手は宙を掻いただけだった。暗闇に向かって小さくなる健太郎の背中に雄二はまた泣き出しそうになっていた。
一分の視界も利かないせいで、裏山に吹く風の音がいつもより強く感じられる。風に煽られるように踊る雑木林は姿が夜に沈んでいるのもあって、不気味さが一層増していた。
さすがに威圧感があるなと、義男は尻込みしていた。だが、それでも勝手に覚えていた使命感を燃料に、リュックをおろしベルト付きの懐中電灯を頭に被った。
義男は一応、辺りを見回し、ようやく雄二が付いてきていないことに気付いた。普段ならば、唇を尖らせるところだったが、それよりも興奮が勝っていた。
「へへっ、隕石の欠片でも持って帰ったら、雄二のやつ驚くだろうな」
懐中電灯のスイッチを点けると、照らされた狭い範囲で日頃から見慣れた草木が姿を現した。そのことが義男に勘違いの勇気を与えた。
義男が振り上げた足を、雑木林は静かに迎え入れる。
足元を照らしながら、一歩一歩を踏みしめるように登る。当ては無かったが、予想と勘が義男の足を動かした。時折、顔を上げて彼は辺りを見回す。懐中電灯に照らされて木々が姿を現すが、視界の利く範囲はほんの数メートルも無かった。
まるで光を吸い込むかのように、闇が雑木林に満ちていた。
途端に、彼を支えていた勘違いの勇気が足から去っていく。深夜の雑木林にただ一人いることを理解してしまった義男の足は覚束なくなり、震え始める。恐怖にかられた彼は無我夢中で走り始めた。
悲鳴を上げることすら怖くなり、彼はほとんど息を止めて走った。手を突き、膝を擦りむきながら山を登る。泥だらけになっても、足は止めない。動くことを止めてしまったが最後には、山に潜む何かに取って食われてしまうことすら考えていた。
「ひっひっ」と短い泣き声にも似た悲鳴を溢しながら、義男はひたすらに、どこへ続くかも分からない道なき道を行く。
それが偶然にも功を奏した。義男の視線の先が急に開け、木々の隙間から満点の星空が見えた。義男にその美しさを感じる余裕は無かったが、とにかくそこに向かって駆け上がった。
四つん這いになって到達した義男は目の前に広がった光景に絶句した。
緑豊かなはずの雑木林は、禿げあがった荒涼の大地と化していた。周囲の木々は一方向になぎ倒され、地面に半ば埋まっていた。落ちてきた塊のまき散らさした残滓が青白く燃え、あちこちで点在しては義男の顔と辺りの風景を照らしていた。
「なんだよ、これ」
まるで鍬を入れられた畑のように、地中に埋まっていたものがあらゆる物が顔を覗かせていた。大木を支えるための根は天に向かって伸び、深い所に埋まっていたであろう岩が、盛り上がった地表から飛び出している。
「あれのせいなのか」
義男は正体を確かめるべく、疲れ切った体を動かす。何度も小石に躓きながらも這う這うの体で、上下にうねりを繰り返す大地を行く。幸いにも不気味に燃え続ける蒼炎が義男の行く手を照らすおかげで、迷うことは無かった。
それは唐突に現れた。
小高い丘とも言えるほどに盛り上がった地面に、どうにか踏ん張って立った義男の眼下に、それはあった。
「なんだよ、これ」
見つけた時のショックに義男は足を滑らせ、坂を転がり落ちる。その衝撃で懐中電灯が外れてしまったが、彼の意中には無かった。義男はそれのほとんど傍で起き上がると、そうっとそれに手を伸ばした。
固く、だが滑らかな感触が伝わる。冷たくつるりとした表面は磨き抜かれた石のようにも感じられる。写真やテレビで見ていた、ごつごつとした不格好な隕石とは似ても似つかない印象が義男の中にあった。
「隕石じゃないのか」
両掌をぺたりと貼り付けた。あまりの冷たさに体温を奪われそうになり、痛みすら感じた義男は慌てて離れた。
「何だろう、これ」
義男は自分の手の平を見下ろした。義男の小さな手が濡れている。ぎょっとしてまじまじと見つめると、どうやら自分の血ではないらしく、ほっとするものの液体の粘度が高く、落ちない。
「町長、あそこです」
ハッとして義男は立ち上がると、さっき転げ落ちた小さな坂を上る。作業着姿の大人たちが苦労しながらも、こちらに迫ってきていた。彼らの手から発せられる何本もの光線が、交差しては周囲を照らしている。
「やばい」
「おい、義男」
今度は義男が飛び上がる番だった。潜めた声に、恐る恐る振り返った彼の目に入ったのは、怒りに目を細めた健太郎の姿だった。
「健兄、何しに―」
義男が生意気な口を叩く前に健太郎は握り拳で、ゴツンと音がする程に頭を叩いた。想定外に痛みに義男から涙がこぼれる。
「なにすんだよ」と言いつつも義男の声も小さい。
「勝手なことばかりするな。皆がどれだけ心配していると思ってる」
「でもよ―」
「でもじゃない、早く帰るぞ」
健太郎は義男の手首をつかむが、伝わった妙な感触に思わず手を離してしまった。
「義男、なんだよ。それ」
「わかんない。隕石に触ったら、着いたんだ」
健太郎は着ていた上着を脱いで、義男の手を拭った。べったりと上着に付着した液体に顔をしかめながらも、再び義男の手を取った。
「説教は後だ。とにかく山を降るぞ」
息子たちがこそこそと走って離れていくことには気づかず、東野町長たちはさっきまで義男が立っていた小高く盛り上がった地面を目指して歩いていた。
「大変なことになってしまったな」
町長は辺りを見回す。いまだ地面で燃え続ける蒼炎に視線が囚われ、現実感を失いそうになり頭を振った。何を糧にすれば、そんな色を出して燃えることが出来るのか、見当もつかないでいる。まるで冥界に迷い込んでしまったようだ。
「町長、こちらです!」
呼ばれた東野が駆け寄った先で、すでに多くの部下たちがそれを取り囲むように立っていた。誰もが視線を下している。町長が近づくと彼らは無言で場所を譲った。
「これは」
多くの懐中電灯に照らされて、それの姿が明るみの下に映し出される。おおよそトラック車ほどの大きさだろうか、楕円形のそれの表面には光沢があり光を受けて艶めく。ごつごつとした不格好な塊ではなく、磨き抜かれたような美しさがあった。
「いったい、何なんだ。何が落ちてきたんだ」
独り言のように溢した東野の質問に、誰も答えることは出来なかった。彼らの想像力を超えた何かが、町の裏山に飛来していた。
夜空に瞬く星たちは、またいつもの輝きに戻っていた。